センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第6部



「移籍の事情」

 「工藤麗子です。よろしく」
 そのひとこととともに、一枚の名刺を私は受け取った。
 時は2007年に暦が変わってからまだひと月に満たない、大寒のころのことであった。

 唱道興業の私のマネージャーである大月豪から「稔、本山プロへ移ってくれないかな」と言われてから、8か月ぐらいは経っていただろうか。
 作詞・作曲ともに私自身のデビュー曲『東京の雪』『ふたたび…東京』、アンソロジーアルバムからのシングルカットである『バーボングラス』とそのカップリングの『夏草ホテル』などの作詞にむつみを迎えた歌ができ、それらを軸にして歌手活動にいそしんでいた私だったが、そんな中でも常に「移籍」の二文字が頭の中に鎮座するようになっていた。
 豪には、「むつみと一緒なら、どこへでも行けるさ」と私は答えており、「そうか、じゃあ向こうさんともそれで話を進めていく」との豪の説明を受けたのち、2006年の季節は春から夏、そして秋と過ぎて、いつしか年明けとなっていたのであった。

 さて、私の唱道興業から本山プロへの移籍の折、それと逆の動き、つまり事実上の交換で本山プロから唱道興業へと移った相手がふたりいた。
 その両人が冬野巴と夏木幸綱であったことは御存知の方もいらっしゃるだろうと思うが、高校時代の巴と幸綱がプライベート盤CD『忘れえぬ街』を、私の息子の進や、のちに私の弟子となった春日治らとともに吹き込んだことはこの文章で既述の通りである。
 そして巴と幸綱のふたりとも、芸能界入りの際の最初の事務所が本山プロということになったのだが、そのことを含めて両者がたどってきたそれぞれの道のりを少々ここで紹介させていただく。

 まず冬野巴だが、彼女は高校卒業後の進学先として、水泳部がある大学を志望した。
 巴はプロフィールに東京出身と書かれているが、それはいわゆる日本一の都会としての東京ではなく、同じ東京都に含まれているとはいえ、伊豆諸島のひとつである八丈島が彼女の故郷である。
 八丈島には八丈太鼓という伝統芸能があるが、幼いころの巴はそれを聴いてリズム感を培ってきたらしい。
 彼女は小学校4年のときから、中学教師である父親の転勤に伴って東京の本土のほうへ転居したが、そこで民謡を本格的に習いはじめたのには、故郷のその八丈太鼓が原点としてあったようである。
 そして巴が音楽のほかに特技として持っていた水泳のほうは、これも出身が八丈島であったことがルーツのようで、海で泳げる期間が比較的長く、またそのシーズンであれば手軽に行くことができるという環境の中で才能がはぐくまれ、長じて大学進学の際に志望先の決め手となったのは事実である。
 
 その巴は大学に入って二年目の1999年春、本山プロにスカウトされ、学校のほうは中退するのだが、これは巴が一般受験での入学だったからこそできたのであって、推薦で入った天河大の在学中に落語界に入門した進が、大学卒業まで二足のわらじを履かざるを得なかったのとは対照的であった。
 かくて半年のレッスンを経た秋にデビューした巴は、民謡仕込みの歌唱力と水泳で鍛えた体力を生かして、順調な芸能生活をすすめていったのである。

 一方、夏木幸綱はというと、第一志望としていた大学は、最高学府と世にいわれる東京大学であった。
 川崎市の武蔵小杉に生まれた幸綱は、小学生のころから神奈川県下において成績上位の秀才であったといわれているが、その一方で歌の才能もなかなか高かったらしく、学習塾と音楽教室を中学時代まで掛け持ちしていたのであった。
 その幸綱は高校入学後、コーラス部やブラスバンド部などのクラブ活動はせず、放課後は予備校通いとなっていたが、それは東大が生半可な勉強では到底合格できない学校であることを本人なりに見据えてのことだった。
 高校側としても、生徒が一流大学へ合格すれば、本人や親だけでなく学校の名誉にもなることから、幸綱を希望の星として目をかけていた様子があり、教える側と教わる側の双方とも気合いは相当なものであったのが見てとれた。

 そして幸綱の受験がどうなったかというと、東大はあえなく不合格であった。
 中学までしか出ていない私のような人間にとっては、大学受験、しかも東大などというと全くはかりしれない世界のことなのであるが、あの幸綱が落ちたとなると、一体どうなってるんだと思いたくもなったものである。
 幸綱は結局、浪人をしてもう一度東大を受け直すという選択はとらず、滑り止めで合格していた私立大学に入学するのだが、そことて首都圏の私大としてはトップクラスの学校であり、東大がすべてではないと考えたゆえの進路なのであろう。
 大学入学後、高校時代に封印していた音楽活動を再開するべく合唱部に入った幸綱は、水を得た魚のように歌に邁進し、大会での多数の入賞を置き土産にして、2002年春の卒業とともに本山プロに入り、こちらは人気では巴の華やかさには及ばないものの、専門家の筋からは実力に定評を得られていたのであった。

 ではこの幸綱と巴のふたりと、私とむつみの夫婦という両組が、なぜ野球でいう交換トレードのような形でそれぞれ移籍できたのかということに関しては、唱道興業と本山プロという両芸能事務所の関係について見ていく必要がある。

 唱道興業は、社章が三味線をかたどったものであるが、これは民謡の興業をルーツとしていることを表しており、事務所の設立は大正時代にさかのぼる。
 昭和に入り歌謡曲の時代が来ると、流行歌の世界へも手を拡げ、以降は規模こそ中堅に位置するものの、安定した実力で芸能界の一角を担って今日に至っている。

 一方、本山プロはというと、昭和30年代の設立から間もなく急速な勢力拡大をみせ、業界のトップクラスの大手事務所として君臨することになるのだが、設立当初の時代にすでに老舗であった唱道興業と業務提携の関係を組んでおり、共存共栄を図る間柄は現在まで続いている。

 そのように両事務所が手を組むことができた理由には、それぞれのカラーの違いが大きいといえる。
 というのも、唱道興業は方針として、あくまで歌唱力を前面に出して進めていくのに対し、本山プロはタレントの容姿やファッション、それに振り付けなどのビジュアル面などを総合的に見てマネージメントしていく形が基本としてあり、それに伴って、在籍する歌手の傾向として、唱道興業には演歌・歌謡曲に属する者が多く、一方の本山プロはポップスやロックという顔ぶれが目につくようになっている。
 そして、例えば本山プロのタレントについて、事務所側が「彼は演歌のほうが向いているのではないか」と考えた場合、唱道興業との交渉で条件がそろえば移籍に至ることがあり、その逆もまた起こりうるのである。
 つまり、この時の私とむつみの移籍は、唱道興業側と本山プロ側の双方の利害が一致したゆえに成立したものであるのは確かであろうと、当事者の一人である私は考えている。

 そのような経緯で本山プロに移った私の目の前に出された名刺には、[本山プロダクション チーフマネージャー 工藤麗子]と書かれていたのだが、なるほどこの人が、豪が言っていた移籍交渉の相手だったのかと改めて思った。
 顔立ちは整っているが、眼鏡の向こうの目付きは大変鋭く、きつい性格だろうけど仕事は有能そうだという第一印象を、その麗子に対して抱いた私であった。


「オタク心を歌う新人」

 「稔さん、今回の歌詞はこれよ」
 むつみに久しぶりに、そのようなことを言われた。
 2007年の3月、桜にはまだ少し早い頃のことだった。

 唱道興業から本山プロに所属事務所が変わった私は、新天地での挨拶回りに追われていた。
 その年の1月に、チーフマネージャーの工藤麗子から名刺を受け取ったのち、彼女に連れられて関係者にひとりひとり、私自身の新調の名刺を配っていったのだが、そんな状況下で妻のむつみに関しても、本山プロから今後のことについてという風に、私を介しての通達がいくつか降りていたのだった。
 
 「むつみさんにも来てもらうわ」とは、会って間もない頃に麗子が私に言った話だったが、その言葉通り、私の移籍はむつみの作詞家の仕事への復帰が前提となっていた。
 『バーボングラス』以降、私の作曲する歌はすべて、むつみの歌詞が先にあったうえでの曲付けという形になっていたため、私としてはむつみとのコンビはこと歌作りにおいて不可分のものと思っていたし、唱道興業でも、私担当のマネージャーの大月豪はもとより、関係者がみなその認識を持って業務にあたっている様子がみられていた。

 そんなむつみも、2003年4月に私と結婚してからは、すっぱりと家庭に入り、作詞については休業状態となっていた。
 「家事に専念したい」との声明を公に出していたむつみは、それにたがわぬような新婚生活を送っていたが、翌2004年の8月に長女を出産する、そのしばらく前の妊娠期からは特に顕著なものとなっていた。
 2003年のうちは、むつみと私の作詞・作曲コンビのアルバム『秋村稔の12都市』に関連した営業活動がむつみにもまだ少しあったが、年が変わってからはそれもなくなり、私の歌手活動を陰で支える様子に落ち着いていたのだった。

 そのような事情のもと、「いや、むつみは家事をおろそかにしたくないと言ってるから…」と私は麗子に話したのだが、「秋村さん、その心配はいらないわ」という返答があった。
 「家政婦をつけて、給料もこちらで出すわ」との話を麗子は持ち出してきたが、それを聞いた私の頭の中にふと、青森で間借りしていた酒屋の娘である安達妙子の顔が浮かんできた。
デビューの2年後である1997年10月に私が青森を8年ぶりに仕事で訪れた際には、スケジュール上の時間の制約もあり、安達酒店の店先で妙子の母の満壽美さんと10分ほど話すのにとどまったが、以降は歌手活動のうえで私は青森に行くことが何度かあり、妙子とも久しぶりに顔を合わせる機会が生じていた。
 妙子は1998年3月に高校を卒業してからは、家業の手伝いをしていたが、私が訪れたときに料理を出してくれたこともあり、味噌汁をはじめとしてどれも美味しかったことが忘れられなかったため、麗子に対して私は「それだったら、私の知り合いを呼ぶから、その子に払ってやっていただきたい」と提案したのであった。
 
 なお、だからといってむつみの家事が下手だったというわけではなく、むしろ腕前は優れており、本人はそれを「落語には料理の手つきの描写とかも必要とされる場面があるから、子供の頃から家事の手伝いは結構していた」と説明していたのだが、あくまで作詞の仕事への復帰を望むゆえに、むつみに家事を休ませたいというのが私の意見であったことは明言しておきたい。

 さて、むつみの復帰第1作目となる歌詞はどのようなものであったかという話に移りたいが、タイトルは『秋葉原のブルース』となっていた。
 「秋葉原」の部分には、「アキバ」と振り仮名があったが、電気街として名高いあの街をさしていることは私にもすぐわかった。
 そこで「どれどれ」と詞に目を移して読んでいくと、「東京に来てから あの娘と出逢ったが…」と、地方から上京してきた男が主人公となっている書き出しであった。
 「では2番は…」と読み進めると、「あの娘になんとなく 似ている絵姿よ あの娘にどことなく 似ているメイドさん」と、どうも電気街としての秋葉原とは違った面が描かれている様子が見てとれた。
 「むつみ、この歌詞って…」と、作詞の意図を私が尋ねたところ、「ああ、これは今度デビューする新人に麗子さんを通じて会ったとき、思いついたものよ」と答えが返ってきた。
 つまり、麗子はその新人をまずむつみに会わせて、デビュー曲の歌詞を書かせていたのだが、私自身のところにも程なくして、プロフィールの書類がまわってきた。
 名前は「玉野俊男」、生年は1982年、と読んでいったのち、「東京芸術大学・声楽科卒」のくだりには、「あの国立の芸大卒か、すごいな」と私も思わず唸ったのだが、「後日、会わせるわ」との言葉が麗子から直後にあり、「どんな男だろうか」と興味が湧いたものであった。

 4月に入り、その玉野俊男と私との初対面の機会が訪れたのだが、第一印象は失礼ながら、「えっ、この男がか?」というものだった。
 体格はひとことでいうと“小太り”で、プロフィールでは身長が165センチとなっているが、体重はおそらく70キロは越えていそうな感じであった。
 そして顔はというと、首の周りに肉がついた下ぶくれのタイプで、さらに眼鏡をかけていたのだが、そこでようやく、『秋葉原のブルース』を書いたむつみの考えが少しわかってきた。
 そうか、むつみはこの俊男のルックスから、「オタク」のイメージを託した歌詞を書いたんだな──と。

 「玉野君、といったね。この歌詞を見て、どう思った?」との私の問いに対し、「いや、まいりました。さすがはむつみさんですね。僕のことを見抜いた歌詞ですから」との返事が、さすがは声楽をやっていた人間だなとすぐわかるような、はっきりとした発声でなされた。
 むつみに見抜かれた、とは、オタクであることに対してというわけだが、実際に話してみたところ、確かにアニメや漫画、ゲームなどには俊男はかなり詳しいようで、私が知らないような細かいそれらの内容も、知識として豊富に持っていることが感じとれたのであった。

 ともあれ、その歌い手として指名された俊男のための曲を書くことになった私であったが、あくまで歌詞を重視して作曲するという前提に加え、今度は人物を見てそれに合わせることの必要性にも迫られることになった。
 そもそも、唱道興業にいた時の私は、デビュー曲の『東京の雪』『ふたたび…東京』は詞・曲とも自作で、のちに作詞にむつみを迎えての『バーボングラス』『夏草ホテル』も、自分の曲は自分で歌うことを想定の上で書いたものであった。
 他人のために書いた曲、となると、私がかつて住んだ街についてオリジナルソングを作った前述のアルバム『秋村稔の12都市』があったが、それとて作曲の段階では、自ら歌うと思い込んでおり、テイトレコードの若手が歌うと知ったのちは、私の手を離れて編曲者らのスタッフ任せになったことが否めないのだった。

 そして、『秋葉原のブルース』の曲自体は、『夏草ホテル』を参考にし、3拍子を4拍子に置き換えたような出だしを作って書き進めていき、完成ののちに俊男にレッスンをつけることになった。
 で、いざ歌わせてみると、やはり芸大での本格的な訓練が身についているのだなと思わせるような、自在に声を操れる様子が聴き取れ、「こと歌唱力については、俺が心配するまでもないな」という安心感が私の中で生まれたのであった。
 もっとも、どんなに歌がうまくとも、必ずしも売れるとは限らないのは承知なのだが、少なくとも俊男については、私がむやみにいじるより、本人の実力に賭けてみようと思わしめる部分が多かったのである。

 こうして、本山プロへの移籍第1作となる『秋葉原のブルース』は、私にとっても詞と歌い手をふたつしっかり得られた、前途の物事に対処する心構えを持てる歌として生まれたのであった。


「美由紀のデビューは難曲から」

 「その日は仕事は休みですので…レコーディングは大丈夫です」
 緑が丘の家で、私とむつみに彼女はそう話した。
 時は2009年の2月初頭、旧暦では春を迎えた頃のことであった。

 その2年前の8月、私が本山プロに移ってから初めて曲を手がけた新人・玉野俊男がデビューを果たしていた。
 前章で書いたように、むつみと私の作詞・作曲で『秋葉原のブルース』ができたのだが、シングルCDのカップリングとしてのもう一曲のほうは、私達が作った曲ではなく、クラシックを言語で歌わせたものであった。
 俊男は東京芸大の声楽科を出ており、クラシック音楽の歌唱はお手のものであるのだが、そのアイデアは本山プロの私のマネージャーである工藤麗子の発案で、むつみも麗子には「えっ、私と秋村が作るんじゃないんですか」と聞き返したらしく、作詞にとりかかろうとしていた所にいささか肩すかしを食ったような様子であった。

 そして発売後ほどなくして秋に入ると、CDは順調な売れ行きをみせたのだが、詞の形式や曲調は歌謡曲の範疇でありながらも、題材としてはコミックソングの要素がある『秋葉原のブルース』が「つかみ」の役割を果たしたあと、カップリングの曲のほうで、玉野俊男なる男の確固たる歌唱力を聴く人に満喫してもらう、という図式がそこにはあったのではないかと一般に言われたのは、当たっていると思う。

 翌2008年になると、一躍名を上げたその俊男の第2弾『ガラスの向こうに』が4月に、さらに半年後の10月には続けて『秋の有明』が「カップリングはクラシック曲」の形式を踏襲してリリースされたのだが、オタク路線というキャラクターが本人の容姿と相まって軌道に乗った感があり、本山プロとしてもひとつの鉱脈を得た形になったのであった。

 「玉野君の次は、あの子かしらね」
 その2008年の秋が深まってきた頃、麗子は私にそう持ちかけてきた。
 あの子、というのが保坂美由紀であることは私が麗子に聞き返すまでもなかったのだが、そこに至るまでに美由紀がたどった経歴をここでは述べようと思う。

 2002年3月にお茶の水女子大を卒業した美由紀は、同期のむつみが唱道興業に事務員の形で入ったのとは異なり、音楽とは特に関係のない一般企業に入社していた。
 大学在学中はほぼ一週間に一度、私の家を訪れてレッスンを受けていた美由紀だったが、時間が豊富な学生時代ならそれでよくても、就職後はさすがに多忙となり、間隔も長くならざるを得ないのは自然の流れだった。
 そうした中、美由紀の仕事の状況を鑑みて私が彼女に呑んでもらった条件は、ひと月に一度集中的に稽古しに来るというもので、実際のところそれが両者のスケジュール上、精一杯であるといえた。

 さて、そのような取り決めをしていた頃は、私はまだ事務所は唱道興業に在籍していたのであるが、それから5年が経とうとしていた2007年1月に私の所属が本山プロに変わった際、美由紀も身の振り方を考えなければならなくなっていた。
 そのことに関しては、高校在学中に私に弟子入りしていた、私の息子の同級生である春日治のケースについても見ておきたい点があるが、彼の場合は私の唱道興業時代のマネージャーである大月豪に、私の付け人のような形で紹介しておいた経緯があり、マネージャー見習いとしてすでに細かい仕事をそれなりにさせていた。
 そしていざ私が本山プロに移ることになると、豪は治に「稔のことをよろしく頼むぞ」と言い含めたうえで私と同じように見送ったのだった。

 美由紀についても、唱道興業時代にやはり豪には私のほうから紹介してあったのだが、彼女の場合はあくまで本業がOLである点が治とは異なっており、私のところに月一回のレッスンを受けに来ていたとはいっても、唱道興業からは特別になにか用事を承っていたわけではなかったため、「秋村稔本人の門下生」という扱いで私とともに本山プロ入りする段では、唱道興業との間には別段手続きもせずに済んだのであった。

 そして、月一回のレッスンが都合6年あまり続いたのちに美由紀に渡された曲が、『あなたが選んだ反物』であった。
 「美由紀ちゃんに、『昔、どんなことがあったの?』と何度か聞く機会を作って、話してくれたことを詞にまとめた」とはむつみの言葉だが、確かに美由紀に当てはまっている部分がその詞には多々あった。
 私が全国を移り住んでいた際、金沢のときに兼六園での実家の呉服屋に関連した撮影の場で、美由紀が和服を着ていたのを見たのが私と彼女の最初の出会いで、それから実に15年が既に流れていたとはいえ、息子の進から「中学の同級生の子だよ」と聞かされていたことを含めて、私の記憶の中にはっきりと残っていた一場面だった。
 そして長じて大学生になった美由紀を、むつみが私に「この子、歌がうまいの」と紹介してきた際には、「いつか曲を作ってあげたい」と個人的に思ったものであったが、その機会がようやくめぐってきたのだなという、ひとつの感慨が私の中で湧き上がったのだった。

 とはいえ、『あなたが選んだ反物』は、いろいろな意味で難しかったと、今振り返ってもそう私は思っている。
 まず、詞は4行の3コーラスだが、盛り上げるところは3行目だとは割に早く浮かんだ構想だったものの、いざ曲をつけてみると、いまひとつ歌詞を生かせていない気がした。
 そうして苦吟した末、「改行する所を変えてみては…」と思い、「東京に 今では住んでる そのあなたが」で切らずに、そのあとの「四年前」までをひとまとめにしたところ、やっと曲がうまくつながり、トンネルを脱出したような気分になったものだった。

 むつみの書いた詞にようやく曲がつけられ、歌としての形ができた『あなたが選んだ反物』であったが、いざ美由紀に歌わせると、だいぶ苦労している様子がみられた。
 それまでの、彼女が私のもとへ月一回来てのレッスンの段階では、どの既成の曲もかなり歌いこなせていたのが、いざオリジナル曲を渡されると、ある意味で重圧を感じてしまっていたような心理が存在しているのもあろうが、真面目な性格ゆえに、あくまで詞と曲の両方と向かい合って活路を見出そうとしているのが、こちらからも見てとれた。

 結局、歌い方をやっとのことで美由紀が会得してレコーディングに臨んだのは、曲ができてから三ヶ月近く経った2009年2月末のことであったが、一日がかりの吹き込みでOKが出たときの彼女は、見るからにへとへとな様子になっており、真剣に歌に挑んで力を出し切ったのがこちらにもありありと伝わってきたものだった。

  あとは美由紀のこれまでの苦労がどうにか報われてほしい──との心持ちで、録音スタジオを出て歩を進めた私であった。


「土曜8時の思い出が」

 「それは、治じゃなくて、私が歌うということなんですか?」
 私を前にして、春日勝さんは喫茶店のテーブルに両手をつきこそしなかったものの、上半身をこちらに向けて少々乗り出し、芯のある声で聞いてきた。
 2010年という、十年区切りの最初の年になって、二週間ほど経った日のことだった。

 保坂美由紀が『あなたが選んだ反物』でCDデビューを果たしたのは前年の5月のことだったが、その歌に関しては出足は難航していた。
 美由紀はCDを出しても、本業の会社員をやめることなく勤続していたことがあったが、それは本人が私のマネージャーの工藤麗子らとデビュー前に取り決めてあったことで、方針として折り込み済みだった。
 歌が売れるか売れないかというのは、歌手本人のみならず、レコード会社や事務所にとっても大きな賭けであるが、ことに真面目を絵に描いたような美由紀にしてみれば、仕事を捨ててまでも歌一本でいくという考え方にはなれなかっただろうし、麗子も「今勤めている会社にそのままいても、歌手としての活動はできるわ。心配しないで大丈夫よ」と美由紀に言っていたようであった。
 確かにメディアが多様化しているのだし、それもそうだと私も伝え聞いて納得していたのだが、とはいってもやはり、仕事に影響が出ないように活動するとなると、例えば一気にテレビの歌番組などに出まくってなどというのはできず、行動の制約がそれなりに出てきてしまうのは否めなかったのである。

 その他、『あなたが〜』については、歌詞に関してマスコミで言及する際に考慮しなければならない要素もあった。
 3コーラスにまとめたその歌詞は、美由紀本人から詳しく話を聞く場を設けたうえで書いたとむつみは私に明かしており、実家が呉服屋という点だけでなく、恋人と美術館に行ったということも本当の話であった。
 そのため、恋人というのは実際、私の息子の進のことなのであるが、もともと過去に私が全国を転々とした時のことについては、そもそも進は私の息子でなく甥という表向きの設定を作ってあった以上、一緒に各地を訪れたことなど当然一切ないことになっていて、それにより『あなたが〜』の歌詞は、書いたむつみも、マスコミ上では「あくまで、フィクションのストーリー」と言うしかなかったのだった。

 もし美由紀が仕事を歌一本に絞り、なおかつ歌詞のストーリーを実話だと正直に言っていたとしたら──などと考えてみたところで、それは当時は無理だったのだが、そのとき美由紀の歌い手としての命脈をかろうじて維持していたものは、ごく身近なところにあった。
 『あなたが〜』のCDのカップリング曲は、やはりむつみと私の作詞・作曲による、『諭吉さん』というものだったが、その曲の制作方針を打ち出したのは麗子であった。
 『あなたが〜』は短調のスローテンポな曲であることから、タイプとしてはしんみりと「聴かせる曲」の部類に入るもので、歌い手の美由紀本人が苦労した点からみて、一般の方々にとっても歌うのは難しいのではないかというのが、私たち制作陣のほぼ一致した意見だった。
 それならCDのもう一曲は逆に、明るくて調子のいい、気軽に歌えるようなものにしようという案を麗子が出し、むつみの作詞と私の作曲がともに二日ずつという、作る側としても時間という面でいえば楽にできたのが、『諭吉さん』であった。
 そしてCDが発売になると、出足の鈍い『あなたが〜』を尻目に、『諭吉さん』はネット上で話題となったのだが、要因としては一見コミックソングでありながら、「世間のまわりもの」としての庶民の泣き笑いを汲んでとりあげたむつみの詞や、軽妙に歌う技術も持ち合わせた美由紀の声などが人気の要因だったと思われ、私のメロディーはあくまで裏方というのが、自分としての正直な感想であった。

 同じ2009年には、「オタク路線」が軌道に乗った玉野俊男が、4月に『ひとり鷲宮』、10月に『磨く剣が』の、いずれも題材をそれまでのオタクの普遍的な話から、特定の作品にまで切り込んでいった歌をリリースしたが、こちらは本格的な芸能活動に身を置き、原作に関しても詳細に論じられる知識を仕入れて、歌やトークに生かせる強味で一人立ちしており、美由紀のデビューとともに私としても手ごたえを感じられる一年となったのである。

 その年の師走をむかえたころ、「秋村さん、あなたのところにいる内弟子の治くんの、お父さんのことでちょっと聞きたいんだけど…」と、麗子が私に話を振ってきた。
 2007年初頭、私が唱道興業から本山プロに移籍してきた時、私は麗子に「これが私の家に住み込みでいる、春日治です」と紹介したことがあったのだが、以降麗子はその治のことを気にかけていたらしく、私に対していろいろと詳しい話を聞こうという姿勢がみられた。
 そうした中、麗子の質問は治の家族についても及んだのだが、「治の両親はですね…」と、音楽講師である母親の緑さんに続き、その夫の勝さんに関しても、私の知っていることを麗子に包み隠さず教えた。
 「…なるほどね。そんな昔に会って、流しの時の秋村さんと歌ったの。それじゃ、その勝さんに会わせてくれないかしら」
 麗子のその言葉を受けた私は、「じゃ、一度私のほうから勝さんに話をしてみますので…」と、一旦一対一で会ってから麗子のもとに勝さんを連れていくという手順で話がまとまった。
 そして年が明けてから、実際に私と勝さんが直接会う場が設けられたのだが、当時私の家にはむつみと長女、それに内弟子の治のほか、家事担当の安達妙子もおり、「明日はちょっと出かけるんで、家でゆっくりしてていいよ」と前日に私のほうから全員に声をかけ、緑が丘からさほど離れていない自由が丘駅近くの喫茶店で、勝さんと顔を合わせることにしたのだった。

 「承知しました。歌わせていただきたいです」と、話し込んだあとに勝さんが答え、日を改めてテープを作り、麗子に渡してから一週間ぐらいして、「勝さんの歌の詞はむつみちゃんに書いてもらうから、それに曲をつけてね」と言われ、しばしむつみが書き上げるのを待つことにした。

 2月に暦が変わって、むつみが差し出してきた詞は、『おふくろの金ダライ』というものであった。
 「庭に建ってる 物置小屋の…」と始まったのを読んでいったが、3コーラスまで目を通し終えたあと、「むつみ、この話は、どういうことだ?」とたずねた。
 「ああ、これはね、勝さんと会って聞いたことをもとにして、浮かんできた詞なの」というのがむつみの答えだったが、勝さんの生い立ちがそこに込められているとのことで、もう少し詳しく聞いてみたいと思い、耳を傾けることにした。

 ──春日勝さんは江戸川区の小岩で、母ひとり子ひとりの少年時代を過ごした。
 暮らしは貧しかったため、アルバイトをしながらの高校通いだったが、学校の成績が優秀であったことから教師に進学を勧められ、国立の千葉大学に入った。
 当然その大学生活も、働きながらの苦学生のそれであったが、一方でもともと好きだった歌にも目が向き、コーラス部の活動も平行してやっていた。
 在学中から、プロの作曲家に弟子入りを勧誘されたこともあったが、当時体調を崩していた母親を早く安心させたいと、一般企業への就職の道を選んだ。
 その母親は、入社を決めて大学卒業した勝さんを見届けるかのように、二年ほどして世を去った──

 むつみの話を要約すると、そのような過去を勝さんが持っていたとのことだったが、詞の筋立てには納得したものの、ではなぜ「金ダライ」なのか。
 それについては、むつみが「もう一曲は、これよ」と出してきた『私の勝手でしょ』の題のついた詞を見て、ああそういうことなのかと合点がいった。
 つまり、昔やっていた「怪物番組」といわれたあそこに出てきたあの小道具を中心に据えたのが、『おふくろの〜』なのかと。
 そして、『私の勝手でしょ』のキーワードが「うしろ」なのも、その番組で客席から舞台へとかけられた声を引用したものとわかり、「DVDで見たわ」という、年代的にリアルタイムの放送では見ていなかったであろうむつみの着眼点を、そこで知りうることになったのであった。

 ここでも、一枚二曲のなかでの組み合わせの妙が存在していたのだなと改めて思ったところで、私は作曲の作業に取りかかったのであった。


「その年、天に昇ったふたり」

 むつみからもらった『おふくろの金ダライ』『私の勝手でしょ』の2篇の詞に曲をつけるのには、あまり時間はかからなかった。
 それぞれに一通り目を通して、両者が1枚のCDに収録されることを考えての曲想は、わりにすぐ固まった。
 『おふくろの〜』は、歌う春日勝さんの母堂の人生を描いた詞であることから、心に訴えかけるような重厚感を出せる、スローテンポの短調にしようと考えたのに対し、『私の勝手でしょ』は、失恋した女性の心をコミカルに表現した詞であるため、長調で、付点リズムを用いた軽妙なメロディーが合うだろうと思い、方向性ははっきりと定まったのだった。

 曲を書き上げて迎えた3月、勝さんを緑が丘の家に呼んでの稽古を始めたが、その歌声は私の聴いたところ、35年前に私や大月豪を驚かせた力量を維持していた。
 「ずっと、レッスンを受けていましたので」と、そのことについて勝さんは私に言ったのだが、誰から教わっていたか、それが夫人で音楽講師の緑さんであるとは、あらためて聞くまでもなく察しがついた私なのであった。

 その勝さんのシングルCDは6月に発売となったのだが、若き日の出逢いから始まった仲にひとつ報いることができた一方で、それと同じ2010年には私にとって、永の別れをしなくてはならなかった人物もおり、勝さんには少々申し訳ないながら、今回はそのふたりの思い出を書かせていただくことにしたい。

 8月がもうすぐ終わろうとしていたころ、青森にいる弟の弘から、「母さんが、亡くなったんだ」との電話がかかってきた。
 七十代の後半にさしかかった母がいささか体調を崩していたことは、それまでに弘からの手紙で読んだり、あるいは青森での仕事の際に実家に立ち寄ったときにうかがえたものだが、母の世話はもっぱら弘とその妻が担っており、私はその実家のことに直接関わることはほとんどなかったのだった。

 当時の東北新幹線の終点だった八戸から、特急つがるに乗り換えて着いた青森の街は、心なしかそれまでに来たときより、やや静かなように思えた。
 月初めのねぶた祭りが終わって、どことなく燃え尽きた雰囲気もあったのだろうが、それ以上に「ここにはもう、母はいない」という思いが、静けさを感じる要因になっていたのかもしれない。

 葬儀がひととおり終わったあと、弘とふたりきりになって話す機会があり、私はその場で実家のことを聞ける限り聞いたのであったが、最後は子供の頃の思い出話を語り合う場になっていた。

 「あの頃はおたがい、民謡ひとすじだったね」との弘の言葉に、「ほんとそうだったな。俺も弘もよくあんなに稽古についていけたもんだ」と私は答えたのだが、それは偽らざる自分の気持ちであった。
 これまで書いたように、母は弘の実母であるが、私の父の後妻であるため、私と血のつながりはなく、三味線の稽古で自分がよく怒鳴られたりぶたれたりしたのは、いわゆる継母と継子の関係だったことによるのではないかと、子供心に初めは思っていた。
 それが、母の実子である弘を横目で見ていると、私の場合とさして変わらず、厳しくしごかれているがわかり、「なんだ、弘もつらそうだな」と、共感や連帯感を抱くようになっていったのだった。

 「厳しくされたことで、今の俺たちがあるんだな」と、それぞれ民謡奏者と歌手兼作詞家という、音楽の世界で生きていけているふたりの姿を顧みて、私は弘に語ったのだが、長じて私が東京での流しの歌手の仕事を辞めて青森に帰っていた時も、私の心に刻まれた、母との思い出の場面はあった。
 
 父が亡くなってから、私が「進を連れて全国をまわる」と言い出した際、「ものになるまで、一切連絡はするな」という事実上の絶縁の言葉を母は投げかけてきたのだが、もし「いつでも帰ってきていいから」などと言われていたら、はたして今の「十二都市を移り住んだ男」のキャッチフレーズで活動している私はあったのだろうかと思うと、冷たく突き放されたことに逆に感謝の念がひとしお湧くものであり、それが私の音楽生活のエネルギーの源となっていることをはっきり実感しているのである。

 そして迎えた秋が深まり、青森では初雪というニュースを聞いたころ、新聞で訃報を目にした。
 「音楽家の七瀬徹さん死去 77歳」

 私は七瀬さんには、1992年の夏に平和祈念コンサートの臨時スタッフで参加した際に出会って以降、いろいろと目をかけてもらっていた。
 『東京の雪/ふたたび…東京』でデビューした私について、七瀬さんはメディアでたびたび推薦のコメントをしてくれたし、その後も私の音楽活動への援護を有形無形で行っていただけたのだが、その七瀬さんについての思い出のエピソードのひとつを、ここではかいつまんで語らせてもらいたい。

 2000年、テイトレコードの企画『秋村稔の十二都市』の際、12曲のうちのひとつの広島編の作詞で、むつみが「戦争の時のことについて書きたいんですけど、どなたか体験者がお知り合いでいたら…」と私に相談してきた。
 それを聞いた私の頭にはすぐ、戦災孤児だった七瀬さんのことが思い浮かび、連絡をつけてむつみを広島に行かせることにした。

 午前中に着いた広島の街をめぐったむつみは、夜のビジネスホテルのベッドで、『ああ広島に鳩が飛ぶ』と題した詞を書き上げた。
 翌日、七瀬さんの自宅を訪れたむつみは、御本人に原爆のことを中心に取材したのだが、それによって詞の中の一行を書き換えたという。
 2番の4行目が、当初は「あの人たちの 生まれ変わりか」となっていたのを、「親父 おふくろ きょうだいたちか」に変更したのであるが、読み比べてみると印象はだいぶ異なってくる。
 つまり、前者だと原爆投下がいささか他人事のような見方になってしまうのに対し、後者では明確に身内に降りかかったという表現になる。
 よって、『ああ広島に〜』の歌詞のモデルが七瀬徹さんであることを浮き上がらせる、額縁のような役目を担っている一行の修正といえるのではないかと、私は思っているのである。

 その七瀬さんの晩年にも、何度か会って話をしたが、「私にとって、戦後は生きているだけで儲けもの。だから、何事にも臆しはしないと肝に銘じていた」との言葉に加え、「私ももう長くはないかもしれないが、その時が来たら、家族にあの世で会えると思っている。ひとりだけ老人の姿になっちゃったけどね」と静かに微笑んで私に語ったのが印象に残っている。

 七瀬さんが天国に旅立ったあとに残された、やはり音楽家で私と年代の近い奥様は、故人の遺志を継いで平和祈念活動や海外公演に関わっておられ、また一人娘で、私の息子の進と同い年にあたる優さんが旅行ライターとして活動しているのを御存知の方も多いと思うが、そのお二人の姿をメディアで見かけるたび、私もほっと安心することしきりなのである。

 「母も七瀬さんも、あの世から自分のことを見守ってくれているのだから、しっかり力強く生きていこう」という気持ちで来年のことに思いを馳せていた、2010年の暮れの私あった。


「驚天動地の出来事」

 「あの時、あなたはどこで何をしていましたか?」
 アメリカで人にそう聞くと、2001年9月11日の同時多発テロの時にどうしていたかを答えてくるという。
 つまり、突発的な大事件を知った時の記憶は誰しも鮮明に残るもので、特にそれが国民的規模のものであれば、多くの人々に共有されるということを表している話である。
 では日本で同じ質問をしたら、いつのどのような出来事についての答えが返されるであろうか。
 私の場合のそれを、以下ではお話ししようと思う。

 その日、本山プロ事務所での仕事の打ち合わせが終わったのは、午後2時半ごろのことだった。
 同席の関係者に挨拶をし、数分ののちにビルを出て、そこから少し離れた地下鉄の最寄り駅に向けて足を進めた。
 駅の出入口が見えてきた、その時だった。
 足元が大きく揺さぶられたのを感じ、地震だということがすぐにわかった私は、腰を心持ち低くしてふんばり、倒れまいとした。
 揺れが続いた長さは2〜3分ぐらいだったそうだが、おさまったところで辺りを見ると、どのビルからも大勢の人が外に出てきていた。
 これはただごとではないと思った私は、歩いてきた道を引き返して事務所のビルに戻り、階段をのぼっていった。
 見ると、部屋には書類や用具が散乱しており、揺れの大きさがうかがえた。
 そしてテレビで、震源が宮城県の沖合だと知ったのであった。

 携帯回線のパンクを尻目に、意外なことに公衆電話からは緑が丘の自宅につながった。
 出たのは、内弟子の春日治であった。
 「おやじさん、こっちはみんな無事だ。家もとりあえずは特に壊れていないようだから」
 それでひと安心した私は、鉄道が軒並みストップしていることから、普通に歩けば2時間ぐらいのところを、同様の徒歩帰宅者で道が混雑しているために倍ぐらいかけて、家にたどり着いたのであった。

 なお、その時に家にいたのは治のほか、家事担当の安達妙子に、私の長女のあわせて3人で、妻のむつみは講演会の仕事で不在だった。
 私が唱道興業から本山プロに移った際に、家庭に入っていたむつみも作詞業に復帰したのだが、そのときにマネージャーの工藤麗子からむつみに、「講演もやってみない?」と話があった。
 むつみが幼いころから落語に親しみ、高校まで落研にいたことは私から麗子が聞いていたため、その経験を見込んでの提案となったのだろうが、以降のむつみは作詞のかたわら、講演もスケジュールに入れるようになっていったのだった。
 
 そして3月11日、むつみが来ていたのは都内の会場だったが、その時のむつみの様子を同行のスタッフが見ていたので、彼の話をもとにここで再現してみることにする。
 
 講演は午後2時から始まり、1時間の予定となっていた。
 むつみは自らが親しんでいた落語の展開を応用し、枕から入って本題へと順調に話を進め、後半に入り、いよいよ佳境へというところだった。
 寄席で落語の最中に地震が起きたとき、演者が「本当に危なかったら、私が真っ先に逃げ出しています」と言って、笑いとともに客席に落ち着きを与えることがあるらしいが、この時はそういう洒落が通じないほどの揺れであったという。
 演壇のむつみもそれを自覚していたらしく、「係員の指示に従ってください」と基本どおりの呼びかけをしたのだが、あわせて「私は最後までここにいます」と、その場を動こうとしなかったのだった。

 幸い、その会場ではひとりの怪我人も出なかったのだが、スタッフの話が私の耳に入ってのち、むつみにその時のことをそれとなく聞いたところ、「講演会の話し手は、船でいえば船長のようなものだから」という答えが返ってきた。
 つまり、船が事故で沈みかかったとき、真っ先に逃げるようでは船長として失格であり、船と運命をともにする覚悟がなくてはならないというのを、会場と演者の関係にあてはめてむつみは言ったのだった。
 そして、その心境を裏付けるかのように、スタッフは「あの時のむつみさん、本当に落ち着いてましたね。男の僕なんかでもあわててしまってたのに」と語っており、自分が及びもつかないほどに腹の据わっているむつみのことを見直した私なのであった。

 さて、その「311」以降の世相の混乱は、読者の皆様におかれても御記憶が鮮明のことと思うが、そうした中において、作曲家として自分に何かできることはないのかという思いが、私の心の中でふくらみつつあった。
 実際、私の弟で青森市在住の弘は、復興支援の民謡演奏会への参加などの活動を比較的早く開始していたのだから、自分も何かしらしなければという考えが私にも生じたのは確かだった。

 そして5月の初頭、麗子から「今回の震災についての歌を書いてほしい」と、私とむつみに話があったのだが、私はそこで「歌うのは、うちにいる弟子の春日治にしてくれませんか」と主張した。
 まだ高校生だった治が私に「弟子にしてください」と言ってきて、それを受けて門下生としてから既に十年以上が経ち、しかもこの前年の2010年には父親の勝さんが先立ってCDデビューを果たしているのだから、「そろそろ治にも機会を…」と思っていたのを意見として麗子に述べ、さらにはそのためのプランもざっと私は話したのだが、なんとか了承は得られ、企画が動き出した。

 まず、被災地でのボランティア活動のうちの、7月の1ヶ月というものに治を参加させた。
 治はもともと、音楽のほかにサッカーも得意としており、地元ではそれなりに名が知られていたそうだが、それゆえに体もなかなか鍛えられていた。
 結果的には、背があまり伸びなかったことから、志向が音楽のほうに傾き、高校に入ってから私と出逢ったことで進路を芸能方面に決めたのだが、確かに162センチと小柄ながら、50メートル走で6秒2の測定値を高校時代に出していたなど、体力面では問題ないとこちらが判断するに足る要素は十分にあった。
 かくて7月初頭、私はむつみと一緒に、、「頑張ってこいよ」と緑が丘の自宅から治を送り出したのであった。
 
 1カ月が過ぎ、真っ黒に日焼けして戻ってきた治を迎えて以降、むつみが治と長い時間にわたり話し込む場面が多々みられた。
 そして8月末、「書けたわ」とむつみが私に差し出したのが、『ふるさとは…』と題した一篇の詞だった。

 そのころ、震災の復興支援と銘打った歌はすでに多数出ていたが、傾向としては「前向きに進んでいこう」という意識を前面に押し出しているのが全体的にうかがえた。
 そうした中で、『ふるさとは…』の詞はやや方向を異にしているともいえるが、治が被災地で実際に触れた事象をむつみが聞き取ったという、地元の本当の声という点で、今回の件でむつみと私、それに歌い手の治が送り出せる歌としては、これが全力を込めたものであり、これ以上のものはできないというのが正直なところである。

 私による作曲、しかる後に治による吹き込みを経て11月にリリースした『ふるさとは…』は、収益を復興のために寄付したことで、微力ながら世に貢献できただろうか、もしそうならこれほど心にしみることはないと、私は思ったのであった。

 日本を揺るがしたあの日があった、2011年という年をどのように私が生きたか、それを今回は書かせていただいた次第である。


「進の幸運な出世」

 「父さん、来年、真打になることが決まったよ」
 電話の向こうからそう言ってきたのは進だったが、聞いていて、声量や明瞭さが数段アップを遂げているのは十三年間の修業の賜物であろうか、とあらためて思った。
 日本の大地が揺れ動き、それにより生じた諸問題がいくつも未解決のまま、2011年という年が暮れようとしていた頃のことであった。

 進が落語の世界に入ったのは、既述の通り、元はといえばむつみの発案によるものだった。
 全国各地にいる、昔知り合った女の子たちに大学進学後も会いに行っていたのを、ひとつの区切りをつけさせようとして落語修業の話を持ち出してきたのがむつみだったわけだが、各地に直接行って、会って断りを入れる役目は父親の私がやることになった。
 地方巡業と組み合わせたスケジュールを全員分こなしたのは、1998年の10月半ばのことで、それが片付いてようやく、翌11月に進の入門と相成ったのであった。
 
 落語家の内弟子となった進は、師匠の家から大学に通いながら、見習いを経ての前座修業にいそしみ、大学卒業から1年半後の2003年9月の二つ目昇進を機に、アパートでのひとり暮らしをはじめた。
 その時に名前も、前座名から「南風亭旅助」に変え、それが世間で広く知られているものとなって今日に至っているが、たとえその名前で有名になっていようが、私にとっては表向きは甥、その実は息子の「秋村進」であることに変わりはなく、この文章でもその進という呼び名で話を続けさせていただく。
 
 そして時は流れ、2012年に真打になれるとの報が進のもとに入ってきたのだが、だとすると進が二つ目でいた期間は、9年かそれを少々下回ることになるな、と私は思った。
 入門した落語家が前座から二つ目、そして真打と昇進していくのにかかる期間は、正確な平均値ではないにしろ、前座五年・二つ目十年という言葉があるそうだが、それだと進の場合は前座はほぼ標準であるのに対し、二つ目については一年以上短いことになる。
 となると、進は前座のときより二つ目になってからのほうが順調だといえ、人気が一気に伸びたことを世評で私も目にしているのだが、そのきっかけを作った観のある男の名をひとり挙げておきたい。

 大相撲に、八甲山という幕内力士がいる。
 八甲田山に由来したその四股名が、彼が青森県出身であるのを表しているのは知られているが、本名の保谷大吾については、本人が小学生だった頃から、当時東京から帰郷して青森市に住んでいた私は耳にしていたものだった。
 その大吾が力士としての全盛期にあった時、マスコミからの取材に対してコメントしたひとつに、次のようなものがある。

 「落語でいま二つ目なんですけど、南風亭旅助ってのがいるんですよ。彼は青森の小学校で俺と同じクラスだったんですが、ガキ大将で敵なしだった俺とケンカして、ただひとり互角にわたり合った男なんです。今でも、相撲という競技の枠でなくて本気で戦ったら、こっちが負けるかもしれませんね」

 当時大関の地位にいた者の発言だっただけに、結構話題になったのを私も覚えているが、それがもとで「南風亭旅助」こと進も注目を俄然浴びるようになり、「一見温厚そうだが実はすごい人」というイメージが定着して人気がブレイクし、結局そのことが真打昇進を早める要因になったという世間の見方はある意味正しいと、私は思っている。

 なお、大吾がいう進との喧嘩の場面は、本人が話していないことを補足する意味で、やはり青森出身の、長じて緑が丘の私の家で家事担当となった安達妙子が述懐する内容をまとめると、次のようないきさつだったらしい。

 進は青森にいた時、私と一緒に安達酒店の二階に間借りしていたのだが、小学校の登下校は、酒屋の娘の妙子といつも一緒だった。
 それを同級生から「安達夫婦」などと冷やかされることもよくあったようだが、ある日学校で、ガキ大将の大吾と子分が、黒板に妙子と進の相合傘を大書きして二人をからかった。
 その書き込みを見てむきになった妙子が、文字を消した勢いで黒板消しを大吾にぶつけ、カッとなった大吾が妙子に飛びかかろうとした瞬間、進が大吾の前に躍り出て、取っ組み合いとなった。
 当時から体が大きく、しかも長じて大関になるような大吾である。そんな相手に向かっていった進も、命知らずの無茶をしたものであるが、体格差にもかかわらず、意外にも勝負は五分五分で、駆けつけた担任に止められて一件落着となった。
 そして、私と進が青森を去るのは、実はその数日後のことだったのだが、大吾との喧嘩の日の帰りに、進は妙子にそれを打ち明けたとのことだった。

 もっとも、このような細かい説明がなくとも、現役の大関が「あいつは強い」と言っただけで、充分に言葉に重みが生じるのは確かで、進もそれを「南風亭旅助」のキャラクターの方向性の確立のきっかけとして利用した面も多分にあるといえるのかもしれない。

 そんな中、人気者になった進は、テレビなどにも出ることが多くなったのだが、そうなると寄席の定席への出番に時間を割きにくくなるのは仕方のないことで、独演会をはじめとする落語会を時々開催する方向に切り換えていった。
 ちなみに、私が進の高座姿を見たことがあるかというと、実は会場に私が行って直接聴いたことは今に至るまで一度もないのだが、これは客席に私がいるとすると、進のほうが気になってしまって話に集中できないのではないか、それに親子の関係を叔父と甥と偽っていることの発覚につながってしまうかもしれない、という私なりの判断に基づいてそうしてきたのである。

 さて、進の真打昇進の内定に伴い、私とむつみにも歌作りの依頼がまわってきたのだが、マネージャーの麗子によると、進のデビューCDは、本山プロと、進の所属事務所との共同原盤という形で作られるとのことだった。
 落語家でも、テレビなどで落語以外の仕事をするような人の場合は、落語協会や落語芸術協会などの、寄席に出るための団体のほかに、タレントと同様の芸能事務所にも所属することになるのが一般的なのだが、進の場合もそのケースだった。
 なお、進が私の本山プロに入らなかったのは、本山側にとっては落語は得意分野でないことや、私と進が同じ事務所だと、その間柄が特殊であるためにやりづらくなりそうだと私が麗子に言っていたこと、それに進のほうでも同様に本山プロ入りは避けていたらしいという事情があったからである。
 少々横道にそれたが、共同原盤の場合は、販売による使役が分割される一方、制作費用のほうも各々で分担するためリスクが少なくてすむ利点があり、むつみと私の作詞作曲コンビがいる本山プロと、歌い手となる進のいる事務所とで話し合ったうえで契約がまとまったということである。

 そして、進にはシングル1枚2曲を提供することになったのだが、メイン曲のほうとしてむつみが持ってきたのが、『春夏秋冬・江戸ばなし』と題した詞だった。
 落語には、季節が設定されている噺も数多くあるが、その四季折々の風景が描かれているものの中でも、江戸を舞台としたものを春夏秋冬それぞれで取り上げて歌にしてみようというむつみの作詞意図が、一読して私にもわかった。
 春の『長屋の花見』、夏の『たがや』、秋の『目黒のさんま』、冬の『時そば』のそれぞれの噺の導入部である前半の4行はテンポよく進め、サビの「それからそれから どうなるか」で盛り上げ、「お付き合い 願います」とつないで、最後の行でしっかり締めくくる──という流れはわりに速く浮かんだため、作曲にはさほど時間を要さなかった。

 もう一方の詞は、落語家として笑いを提供するという進の仕事柄、こちらもコミックソングがいいだろうというのと、CDの発売が2012年の4月の予定なのをむつみが鑑みたのであろう、『今日は四月一日です』というもので、作曲は付点リズムを中心にした軽妙な感じに進めていき、こちらも仕上がるのは比較的早かった。

 まだまだ世相に重苦しさは残っているが、進よ、どうか少しでも明るくしてくれ──という思いを込めて、むつみの詞心を受けとめて曲付けをした、2012年の年明け間もないころの私であった。


「ドラマの虚構と現実」

 「秋村さん、おかげさまで撮影も無事終わりまして、10月からの放送に間に合いそうです」
 そう挨拶された私の目の前には、結城拓馬と沢村雅也という、ふたりのスターが立っていた。
 例年になく遅かった東京の桜ももうだいぶ散った、2012年の4月半ばのことであった。

 2011年3月11日の、あの「揺れ」が来る直前、私が本山プロ事務所で仕事の打ち合わせを終えていたことは既に述べたが、そのとき取り決めをした内容は、昔日の私を題材としたドラマ企画についてのことであった。
 タイトルは、歌手・秋村稔のデビュー曲の題名を使い『ふたたび…東京』、放送は2012年4月からの半年──などが、その場で私が知らされた事柄だった。
 放送開始までまだ一年以上あるのに、もう企画が動き始めているのか、などと私はその時思ったのだが、実際にドラマの制作はそれぐらい早くから行われるものだと関係者から教えられて、いろいろと大変なのだろうなと納得したのだった。

 そして、そのドラマ『ふたたび…東京』に特に深く関わるのが、冒頭で出てきた結城拓馬と沢村雅也の両名なのだが、すでにスターダムに登りつめていて世間に広く知られていることではあるものの、ここで少々彼等の略歴を書かせていただく。

 拓馬が芸能界に入ったのは、1979年生まれの彼がまだ中学生の頃で、私のCDデビューより前のことである。
 当初、女性向けのアイドルとして芸能生活をスタートさせたのだが、そのかたわら鎌倉の高校に通い、出席日数が微妙ではあったものの、無事卒業できたという。
 その後、ルックスと演技力を生かして俳優の道に進み、二十代から多数のドラマや映画への出演で作品のヒットに貢献し、CMへの起用などとも相まって、地位を確固たるものにしたのだった。

 一方、雅也は拓馬と同じく1979年生まれではあるものの、デビューは高校2年時の1997年2月のことだった。
 曲名に『約束の坂道で…』とあるそのCDには、作詞・作曲・歌に「沢村雅也」とクレジットされているものの、ジャケットに写っているのは風景のみで、本人の顔かたちは一切出ていないのだが、かえってそれが謎めいた存在として功を奏したのか、発売後半年を経ずしてミリオンセラーになった。
 2年後の1999年に出した『ビワの木』もやはり同等の売り上げを記録したことで、音楽シーンにおけるスターの地位を固め、シンガーソングライターとして名曲を多数、世に送り出し続けて今日に至っている。

 この拓馬と雅也を本山プロにスカウトしたのが、のちに移籍してきた私の担当マネージャーとなった工藤麗子なのであったが、その新人ふたりの売り出し戦略は、ほとんどが麗子の発案だったと事務所関係者からうかがっており、世に敏腕マネージャーと謳われただけのことはあるなと私も感心させられたものだった。
 
 なお、私が本山プロに来たのに伴い、麗子は拓馬と雅也への直接のマネージメントからは離れ、後任には彼女の直属の助手を長く務めた斉藤昭介が指名されたのだが、その引き継ぎはどうやら成功したとみていいようである。

 さて、話をドラマ『ふたたび…東京』に戻すが、私がその同名のデビュー曲を出した時の事務所が唱道興業であったことは、これまで述べてきた通りである。
 そのため、本山プロがそれを題材としてドラマを作るのであれば、唱道興業のほうにも伺いを立てなくてはならないところなのだが、両事務所が古くから提携関係を結んで、業界内で共存共栄の姿勢にあることから、ドラマ企画のほうも、本山プロ・唱道興業の共同制作としてクレジットされているのであった。

 そしてストーリーは、次のようなものだった。

 ──青森市内の安田酒店の二階に間借りしている男、名前は秋山稔。彼は民謡歌手の家に生まれたが、中学卒業後に上京、新宿で流しとなったものの、レコードデビューを果たせぬまま失意のうちに帰郷していた。家出同然だったことから、実家に戻ることを許されずに、他所に住まざるを得なかったのだが、酒屋の仕事を手伝いながらも、東京で知り合った流しの相棒・大沢豪のことが忘れられずにいた。
 昭和が平成に変わるころ、その稔の父親が亡くなるのだが、子供の頃と帰郷後にも、稔は民謡の巡業に父に連れられていたことを思い出し、その中で言われていた言葉の「歌を演じるには、いろいろな事物に触れることが一番大事なんだ」を胸に、単身全国を移り住んでみようと決めた。そして仙台を皮切りに、札幌・大阪・京都・名古屋・広島・長崎・金沢・横浜・高松を転々とするのだが、そこには流しやクラブ歌手としての恋と別れが常にあった。
 ほぼ半年ごとの転居を繰り返してやってきた福岡は博多の地で、「こういうものです」と差し出された名刺には、『唱和興業マネージャー 大沢豪』と書かれていた。会うのがほぼ十年ぶりとなるふたりはモツ鍋をつつき、お互いに自らの履歴を語ったのだが、そののち豪は稔に「CDデビューしないか?」と持ちかけ、「おまえ、曲もつくってみろ」と言われた稔は試行錯誤の末に『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を書き上げ、東京のスタジオでの吹き込みに臨んだ──

 話中で、私の分身となる「秋山稔」を演じるのが拓馬で、大月豪にあたる「大沢豪」は雅也が務めることになったのだが、クレジットとしては「主演・結城拓馬 音楽・沢村雅也」とあり、雅也はこのドラマのBGMにも携わっている。
 もちろん、作中の曲でも、『東京の雪』『ふたたび…東京』については、作詞・作曲とも私の名前になっているのだが、それを除くとすべてが雅也の担当という形である。
 ではなぜ私にBGM作りがまわってこなかったかというと、まずもともと、麗子が出演者兼音楽担当として雅也をあてることを決めていて、それに沿っての宣伝プランを組んでいたことがあったようであり、その遠因として、私が麗子に「むつみの詞が先にないと、私は曲が書けません」と日頃から話していて、麗子のほうも私のインスト作りが無理であるとわかっていたことも挙げられる。

 そして前述のストーリーが、半年の26回に分けて放送されることになるが、中盤の仙台から高松までの10ある土地については、一話ごとに舞台を変え、序盤の青森と、終盤の博多および東京では、それぞれ8話ぐらい使っていたと記憶している。

 それらの各々の土地でのロケも当然必要となったが、時代を十数年さかのぼってのストーリー設定であることから、当時と変化のあるような風景については、CG処理などに頼った面が多々あり、その技術には私も感心したものであった。
 また、例の東日本大震災に関しては、ドラマに出てくる土地で直接大きな被害があったのは仙台だけだったものの、事後の節電推進などに伴うさまざまな制約が生じたことから、2011年の後半から始めた撮影も、先に震災の影響の少なかった西日本のほうからとりかかり、時間をある程度経てのちに東日本へと移行したのであった。
 
 ストーリーに話を戻すと、現実はどうだったかというのは、私が当書『三たび…東京』でこれまで書いてきたのがそれにあたり、事実通りのものも確かにあるが、相違点も多々あるのがお分かりいただけるかと思う。
 「秋山稔」が結婚歴のない独り者として設定されていることや、名古屋の次に直接広島に行っていて、間に実際にあった東京の浅草近辺での暮らしをはさんでいないことなどをお気付きになられるかと思うが、タイトルの『ふたたび…東京』に話を収束させるためには、それも仕方がないことだろうと、私は自分に言い聞かせたのであった。

 ともあれ、秋村稔という一芸能人に対する世間一般からのイメージ、その定着に最も寄与することになったドラマ、それがこの『ふたたび…東京』であるのだろうと、私自身は考えているのである。


「私とむつみ、治と美由紀」

 「このたびの企画にあたりまして、マネージャーに就かせていただくことになりました、安達純です」
 目の前で頭を下げてきたその青年は、私とは初対面ではなく、たどれば二十数年さかのぼる。
 続けての言葉が、それを裏付けるものであるといえた。
 「秋村さん、青森ではいつも民謡を聴かせていただいて、ありがとうございました。まだ小さかったですけど、うちの酒屋でのことは母から聞いています」
 私が青森で間借りしていた安達酒店、そこの息子として純が生まれたことは以前書かせていただいたが、長じて本山プロの社員になった姿を、このとき私に披露したのであった。
 そして純は私の手を握り、力強く言った。
 「大役を任ぜられまして、不慣れではありますが、どうぞ御鞭撻のほど、よろしくお願いします」

 2012年のゴールデンウィーク明け、私とむつみの夫婦のほか、門下生にあたる春日治と保坂美由紀のふたりの、あわせて四人に本山プロ事務所から呼び出しがかかった。

 そのひと月ほど前、私の人生をモデルにした連続ドラマ『ふたたび…東京』の撮影を終えた結城拓馬と沢村雅也が私のところに挨拶に来たことは前章で触れたが、それがあった2012年4月は、企画当初においては放送開始の予定月となっていた。
 しかるに実際には、半年遅れた10月からの放送となったわけだが、やはり前年の東日本大震災の影響で、撮影のスケジュールが全体的に想定外の時間を要して延び延びになっていたことが、大きな理由として挙げられる。

 また、「南風亭旅助」の名で落語の二つ目だった、息子の進の真打昇進披露は3月半ばにあったが、昇進が決まったとの話を進が私にしてきたのは、前年の暮れのことだったものの、披露興行の準備には実際のところ半年以上はかかるそうなので、段取りとしてだいぶ進んできてから私に報告をしてきたのだろうと思われる。
 そして、むつみの作詞と私の作曲で進に提供した歌の『春夏秋冬・江戸ばなし』のCDは、興行の翌月の初日の発売となったが、これはカップリング曲である『今日は四月一日です』のタイトルにあわせてリリース日を決定したものだった。

  私の身辺がそのような様子だった中で、事務所から声がかかったのだが、それは歌作りの際には以前から毎度あったことなので、「今度はどんな注文があるのだろうか」ぐらいの、いつも通りの考え方で、自宅最寄りの緑が丘駅から電車に乗ったのだった。

 「今回の新曲は、競作を計画しています」
 会議室で工藤麗子の声が響いた。
 ひとつの同じ歌を、複数組の歌い手が昔ならレコード、今ならCDとして吹き込みリリースするのが競作の意味なのだが、その時はてっきり、治と美由紀か、あるいはその他の誰かも、むつみと私の作った歌をそれぞれソロで歌うのかと思っていた。

 「そして、作ってもらうのは、デュエット曲です」
 麗子はそう話を続けたのだが、ああそうか、ならば治と美由紀がふたりで歌うのが、競作の一組目ということになるんだなとわかった。
 では他に誰が歌うのか、それは本山プロ以外の事務所の歌い手さんなのかな、と思っていたところに、さらに麗子の言葉が投げかけられた。
 「春日治くんと保坂美由紀さんで一組、そしてふた組目は、秋村稔さんとむつみさん夫婦が歌い手です」

 私が本山プロに移籍する前にいた唱道興業では、デビュー曲『東京の雪』『ふたたび…東京』以来、私自身が吹き込んでCDとして出したのはいずれも、作曲を自分の手でしていた歌だった。
 それが本山プロに来てからは、『秋葉原のブルース』の玉野俊男をはじめとして複数の歌い手に曲を作ったものの、私自身の歌唱でのCDは一枚も出していなかった。
 その点については、移籍当初からマネージャーの麗子に「歌い手を育てるために、稽古をつけてやってほしい」と頼まれており、レッスンに専念していた結果だともいえるのだが、吹き込み自体にはブランクはあっても、未経験のことではないと考え、心配しないように自分に言い聞かせた。

 一方、作詞の道に邁進してきたむつみが、初めて歌い手として指名されたことに関しては、その決定を下した麗子がかねてよりアイデアとして持っていたものだったという。
 本山プロに私とともに移ってきたむつみは、作詞のかたわら講演もするようになったのだが、その聴衆を相手に時おり歌を織り交ぜて話を進めるようなことがあったと私は伝え聞いているし、麗子のもとにも、「むつみが歌を披露すると、客席が聴き惚れるのがしばしばだった」という情報が加わったうえで話が届いていたらしい。
 そのため、「秋村稔のエスコートがあれば、デュエットのボーカルをむつみが担うことができる」と麗子が判断したというのが、実際のところだと思われるのである。
 
 かたや、治と美由紀についてであるが、まず2009年に美由紀が『あなたが選んだ反物』で先にデビュー、その2年後には治が震災復興支援としての『ふるさとは…』で世に出ることとなった。
 両曲とも、売れ行きの点では、新人としては一応の及第点というレベルにとどまっていたのだが、歌唱力のほうはそれなりに好評価を得られており、どこかで生かす場面はないかと模索がなされていたところに、このたびのデュエットの件で白羽の矢が立った次第とのことらしい。

 さて、私とむつみ、治と美由紀という二組がデュエットの競作をすると決まったのち、それぞれにマネージメントの役割を担う者をつける必要が出てきたのだが、麗子が「治くんと美由紀ちゃんは私が担当するから、秋村さんのほうには私の助手をひとり回すわ」と言ったのちに私のところに来たのが、安達純だった。

 1987年3月生まれの純は、青森の高校から進んだ都内の大学を2009年春に卒業し、就職先となったのが芸能事務所の本山プロだった。
 その2年前の2007年に、麗子は自らの育ててきた結城拓馬と沢村雅也のマネージメントを、直属の助手の斉藤昭介に委ねたのち、私の担当に移ってきていたのだが、本山プロ入りした純は昭介の部下として配属され、なかば拓馬や雅也の付け人のような役として、マネージャーの修業をしていたとのことである。

 麗子からは、「純君はなかなか優秀な人材だけど、まだ経験は浅いから、秋村さんが指導してあげてね」と言われていたのだが、体つきや話し方がしっかりしているのは感じとれたので、手を握ってきた純に「よし、頑張ろうな」と信頼をもって応えることができたのだった。

 デュエットか、どういう歌になるのかな──と、五月晴れの空を見上げながら思い、とりあえずはむつみの詞を待つことになった私であった。


「無題の詞」

 「実家のほうにも、顔を出してくるわ」
 むつみはそう言って、緑が丘の家の玄関を出た。
 むつみの実家は墨田区内のマンションにあるのだが、そこの隅田川をはさんで反対側が浅草の街となっている。
 緑が丘駅からその浅草へは、東急大井町線の中延で地下鉄都営浅草線に乗り換えて行くのが一番楽だが、そのルートで普通に行くと、むつみは出発前に私に言っていた。
 本山プロから呼び出しがかかり、デュエット曲の制作の注文を受け、それから十日ほど経った、2012年5月下旬の頃のことであった。

 ──秋村稔と光村むつみ、それに春日治と保坂美由紀という二組のどちらにも合うような楽曲を──

 会議でマネージャーの工藤麗子が出してきた要求をごく簡潔にまとめると、そうなる。
 作詞担当のむつみは、その会議の中で、麗子にいくつか質問をしていたが、題材について制約はなにかあるのかというものについては、特に枠は設けないという回答を得ていた。
 そして納期に関しては、作詞・作曲の両方をあわせて、2ヶ月半先の7月末までがリミットという話が出ていたのだった。

 本山プロ事務所から自宅に帰って何日かは、むつみが常に考え事をしている様子が見てとれたが、食事の時などの会話の際、昔に私や進とはじめて会った時のことについて言及するようになってきた。
 むつみが進と同じ中学に入り、寄席で私たち親子と偶然に知り合うことになった、その話が出てくるのを耳にした私は、むつみの作詞の構想が少しずつ進んで、舞台を浅草に決めて書こうとしているのを感じ取ることができた。
 そうした中、ある夜、「明日、出かけてくるから」と夕飯の折にむつみが言い、翌日の午前8時ごろに家を後にしたのだった。

 夕方に帰ってきたむつみは、実家の両親に会ってきたという報告をしたあと、雷門あたりは相変わらず人が多かったなどの所感から、浅草界隈を散策したことに話を移していった。
 「ちょっと間があいてたけど、仲見世あたりを歩くと、ああ帰ってきたんだなと少し懐かしかった」などという感想もむつみは語っていたが、あくまで作詞という仕事の題材探しであることは忘れていない様子で、「なんとなくだけど、方向性は見えてきた」との言葉も出てきていたのだった。

 本山プロでの会議のあと初めての、むつみの浅草への来訪はそのような形でなされたが、5月中と6月初めにも、やはり同じように足を運ぶ日が何回かあった。
 浅草は東京の中の観光地のひとつとして位置し、見どころという点では一日いても飽きないなどといわれるが、「なにか歌になるものは…」と、むつみが目をこらしている様子が私の頭の中に浮かんでいたのも事実であった。
 というのも、一度目の浅草行きのあとにむつみが話した歌詞の構想は、「1番で浅草寺、2番で花やしき、そして最後の3番では浅草演芸ホール」であったが、その三つの場所をそれぞれ丹念に観察するようにしたらしく、例えば演芸ホールなどは、昼の部の初めから夜の部の終わりまでおよそ9時間あまりいたという話もむつみはしており、それまでの作詞にもまして気合いがはいっているのを私の目からもうかがうことができたのだった。

 なお、歌詞の舞台とするその三箇所の順番については、むつみは次のように説明していた。

 ──まず、浅草寺が1番なのは、寺社は朝の早い時間から境内に入って参詣することができることからきている。
 2番の遊園地の花やしきは、入場時間は午前10時あるいは11時から午後6時までと、昼間が主であることからその位置になる。
 そして3番の演芸ホールは、夜の部は9時半ぐらいまで行われ、それほどに遅くまでいられることから、最後にもってこれる。
 つまり、朝・昼・夜に[浅草寺][花やしき][演芸ホール]を割り当てるという、観光客やカップルのデートという観点から構成した結果、そうなった──

 そして、制作会議からちょうどひと月が経った6月半ば、私はむつみに「ちょっといいかな、まだ時間はあるけど、どんな感じになってる?」と、中間報告の意味で聞いた。
 歌全体の納期は7月末だが、むつみの詞ができたあとに私が曲をつけるのにも、それなりの時間を想定しておく必要があった。
 そのため、「6月いっぱいをめどにして書いてほしい」とあらかじめ言ってあったのだが、私の問いに対して、むつみは「今のところ、こんな感じね」の言葉とともに、一枚の原稿用紙を出してきた。

 そこに書かれていたのは、次のような詞だった。

  
  久しぶりよね ふたりして
  雷門と 仲見世抜けて
  ここは浅草 浅草寺
  人でにぎわう 境内で
  肩を寄せるも そのままに
  今日からは 二人いつまでも

  家を突き抜く コースター
  怖いさそりゃあ 背が伸びたから
  ここは浅草 花やしき
  手と手取り合い よみがえる
  遠いあの日の 君と僕
  今日からは 二人いつまでも

  それじゃ最後は 思いきり
  噺をきいて 笑っていこう
  ここは浅草 演芸ホール
  望む幸せ 来るように
  ともに笑顔で 身を寄せて
  今日からは 二人いつまでも

 
 確かに、むつみが構想として話していたように、浅草寺・花やしき・演芸ホールの3つの場所がスリーコーラスに割り振られたつくりになっている。
 また、各コーラスを見比べると、字脚は3番の「演芸ホール」の一箇所を除くと、ぴたりと合っており、歌詞としての形はできている。

 「で、タイトルは?」
 私はむつみに聞いたが、歌詞の上に書かれているべき題名がそこにはなかったからである。
 
 「タイトルは作品の顔である」とは歌作りにおいてしばしばいわれる。
 「タイトルのない詞をもらうのが一番不愉快なんです」と話すディレクターもいる。
 歌詞の公募でも、たとえタイトルがついていても、それがつまらなければ、詞の内容がよくても落とされる場合があり、まして無題では採用率はゼロといっていい、との話もある。
 そのことを、これまで数多くの作詞を手がけてきた光村むつみが知らないはずはないのだが、「一応、候補はあるんだけど…」と、いくつかのタイトル案が書かれたメモを出して説明に及んだ。

 「ふたりの浅草」「ふたたび…浅草」「いつまでも…浅草」「浅草の休日」と四つの言葉がそこには並んでいたのだが、一応、詞の内容に沿ってつくられたタイトルなのは理解できるものの、どれもいささかアピール力が足りないというか、印象として弱いと私には感じられた。
 その感覚を、むつみも私と同様に抱いたからこそ、歌詞の原稿にタイトルとして書き添えることができないのだろうと思ったが、歌作りがそこで止まっていてはいけないので、私はむつみに持ちかけた。
 「とりあえず曲をつけてみるから、そのあとでタイトルを考えることにしよう」

 こうして、無題であったその浅草が舞台の詞をもとに、私が作曲にとりかかることになった、梅雨のさなかの一日のことであった。


「メロディーの降臨」

 「久しぶりよね ふたりして…」
 何度繰り返して、声に出したろうか。
 むつみが「まだ途中だけど…」と言っていた、その6行・スリーコーラスの詞の原稿用紙が私の手にあった。
 2012年の前半最後の6月という月も、もう残り十日ほどになった頃のことである。

 ──メロディーをつけることで、タイトルも出てくるかもしれない──
 その思いのもとに、私は詞を引き取ったのだが、詞と曲がともにあってはじめて成り立つような題名というのは、歌謡曲の世界においても枚挙にいとまがない。
 「タンゴ」「ビギン」「マンボ」「ルンバ」「マーチ」など、リズム体がタイトルに詠み込まれている歌は、皆様におかれても、いくつかすぐに思い浮かべられるものと存じ上げるところであるが、この詞にはそのような形式の題名をつけるしかないと思って、私は作曲にとりかかったのであった。

 もともと、この歌詞の企画には、デュエット曲をというのが前提としてあったため、男女の掛け合いソングとして成立するような構成が必要とされ、そのことを肝に銘じたうえで、むつみの書いた詞を読み、曲につなげていくよう努めることにした。
 
 ──6行構成の最初の2行は、導入として風景描写がなされているが、1番は女、2番は男、3番では女→男とボーカルがあてられそうだ。
 3行目は歌の舞台の浅草の各名所が指定されるところで、男女で歌って最初の盛り上がりとする。
 4・5行目はつなぎの箇所で、女→男と1行ずつソロで歌うことになる。
 そして結びの6行目は、デュエットゆえに当然のごとく男女の合唱で歌を締める──
 
 そのような考えのもとで、最初の曲を書き上げるのには、1週間ほどを要した。
 ワンコーラスが20小節で、テンポは100前後、そしてコードは長調というつくりになったのだが、「男女の幸せをうたうのなら明るい曲にすべきだ」という私の考えをそこにもってきたのだった。

 これで一応は歌ができあがり、まだついていなかったタイトルの模索に入ろうかとも思ったのだが、提出期限の7月末までひと月あまりあることを鑑みて、いま一度、曲付けに戻ってみることにした。
 今できている曲は保険とし、もっといいメロディーを求めていこうという、与えられた時間を無駄にせずに最大限に生かす考えがそこにはあったのだった。

 せっかくだから発想の転換を、との思いで試みたのが、拍子を変えることだった。
 先ほどの曲は普通に4拍子で作ったが、今度は3拍子でもやってみようと考え、「ズン・タッ・タ」と心の中で刻みながら、これまで通りにキーボードを前にし、詞を再度読みはじめた。

 そのときであった。
 「ひーさーしーぶりよーねー」と、リズムに言葉が乗るのと同時に、音がついてきた。
 しかもそれは途中で止まることなく、すらすらとつながって進んでいく。
 まさに、「メロディーが空から降ってくる」状態に身が置かれ、2分か3分ぐらいで、最後の「今日からは 二人いつまでも」まで駆け抜けることとなったのであった。

 そうしてできた走り書きの楽譜を視界に入れ、もういちど鍵盤を叩いた。
 ──これだ、これなんだ。自分が探していた「曲」というのは──
 その感情の根拠は、音符ひとつでも外したら、途端に明らかに違和感を生じてしまうことだった。
 つまり、メロディーラインが確固たる一筋の道となっていて、少しの揺るぎをも許さないものである、ともいえようか。
 
 ここにおいて、腹は決まった。
 先に作ったほうの曲とふたつを提出して選んでもらうなどしない。
 さっきのは没で、今度のほうだけに絞る。
 そして、見せてどう言われようが、これしかないと押し通してみせる、と。

 そういえばタイトルをまだつけていなかった、と思ったことに関しては、曲が3拍子で舞台が浅草なら、簡潔に「浅草ワルツ」でいいなと、つい数日前までむつみと私とで考えをめぐらせていたのが嘘のように、あっさりと決まったのだった。

 さて、曲はこれでいい、題名もできたことだし、とあらためて提出の準備を考えた私だったが、そこにむつみからの「待った」がかかった。
 「6月が終わったばかりで、まだひと月使える。それを利用して、最初の2行を再考したい」との物言いだったが、もともと6月半ばの時点でむつみから詞を受け取ったのは、「どんな進み具合か」と私が聞いてきたのに対して、「こんな感じ」とむつみが出してきたものだった。
 結局、その時なかったタイトルをつけるための作曲への移行という流れであり、むつみとしては詞はまだ完成とは考えていなかった、との事情がそこに含まれていたのが実際のところだった。

 そして、むつみが再検討の必要を感じているという問題の頭2行であるが、改めてそこに注意して詞を読むと、「そういえば…」と、確かに私もひっかかるものがあった。
 「今日からは 二人いつまでも」と最後の行で締めているように、男女の再会がテーマとなっている詞であるが、その点がもう少しわかりやすく出てきてほしい、と思った。
 では件の各コーラス頭の箇所の難点は、と見ていくと、ストーリー性がいまひとつ弱いのは、舞台の具体的な描写にとらわれていることが原因で、それはおそらく、むつみ自身が浅草に足を運んで取材したことで、かえって気負いすぎているのではないか、と私は考えた。

 もともと、この歌詞の男女のモデルが息子の進とむつみであることは、私も詞想の段階で聞かされていたが、そのことをもっと掘り下げる形での表現が欲しいと言うと、「分かったわ、考えてみるから」とむつみは承知したのであった。

 ギターの伴奏と私の歌が入ったMDを、むつみが何度聴いたのかはわからないが、字脚が3・4・5/4・3・7となるところに言葉をはめこもうと考えている姿は、それまでのむつみの作詞の折にはなかったような苦吟の表情がうかがえた。

 そして7月20日だったと思うが、「できたわ、これでどうかしら」と、一枚の原稿用紙を携えて、ようやく笑顔が戻ったむつみの姿を目にすることができた。
 1番は「きっと合わせて 下さいと かけてた願が いま叶ったわ」、2番で「流れ流れた 僕だけど 帰れるこの日 夢見ていたよ」、3番では「思いこがれた せつなさも 笑って言える 今お互いに」と変えてあるのを見て、これなら物語として人の心をつかめそうだ、いけるぞ、と私は直感したのだった。

 歌作りに与えられた時間を、これほどまでに有意義に使えたことはなかったと、この『浅草ワルツ』の件では今なお思っている私である。


「待っていたひと言」

 「なるほど、『浅草ワルツ』ね。ちゃんとデュエットの形はできているし、あとは曲を聴かせてもらおうかしら」
 工藤麗子は紙をテーブルに置くと、MDのほうを手にとり、CDラジカセにセットした。
 2012年の7月末、梅雨明けの暑い中を本山プロ事務所へ訪れた日のことであった。

 7月20日前後に、その『浅草ワルツ』の楽曲の完成にこぎつけたあと、歌作りの通例として、事務所に提出する見本用音源の制作に進んでいくことになるが、今回のケースがこれまでと違うのは、デュエット曲であることと、さらには[私と光村むつみ]と[春日治と保坂美由紀]のふた組の競作になることであった。

 ちなみに、私は唱道興業でのデビューから本山プロへの移籍後においても、レコード会社のほうはテイトレコードの専属のままであったため、今回のむつみとのデュエットも、それまで通りにお世話になることになったのだが、一方の治と美由紀の所属は、日本クロップであった。
 2009年5月の美由紀のデビュー曲『あなたが選んだ反物』、それに2011年11月に震災復興企画として治が歌った 『ふるさとは…』のいずれも、クロップから発売されているため、こちらのふたりのデュエットにも、その専属契約が生きることとなったのだった。
 
 では『浅草ワルツ』ができたころ、このプロジェクトの歌い手として指名された私たち4人がどうしていたか、少々説明させていただく。

 私とむつみが『浅草ワルツ』を作った過程については、前々章と前章で紹介させていただいた通りなのだが、それと平行して治と美由紀のふたりにも、先を見越した動きがあった。

 治の『ふるさとは…』は、売上の寄付というチャリティー要素をもっての発売となったCDだったが、この歌を治がテレビやステージといった場に出演して披露する機会はなく、歌声はマキシシングルでのみ聴けるものに、結果的にはなった。
 その『ふるさとは…』のCDジャケットを見ると、歌い手である治の姿はないのだが、形式としては1997年2月に、同じ本山プロの新人である沢村雅也のデビュー曲『約束の坂道で…』と類似するものの、それぞれの持つ意味合いとしてはかなり異なっていると思われる。
 雅也の場合、顔を出さないことでミステリアスな雰囲気を演出する意図があったとは麗子からのちに聞いた話であるが、一方の『ふるさとは…』については、その歌は被災者の方々のみならず、日本人全体で共有すべき内容という自負が私を含む制作スタッフ一同にあり、春日治というひとりの男だけのものではないとする考えがジャケット写真にも反映されたのであった。
 そして、なかば覆面歌手という形で『ふるさとは…』を歌った治は、そのまま流れとして、公の場に姿を出すこともなく、私の付き人としての仕事に携わっていたのだが、「次にCDを出すときは、堂々と顔を載せてやるからな」と私のほうから一応、言い含めておいたのも事実である。

 一方の美由紀は、『あなたが選んだ反物』のリリース後も、会社員としての勤務は続けており、歌手としての仕事は土日に入れるように麗子がスケジュールを組んで、両立がなされていたのだが、2年経ちこのデュエット曲の競作企画が言い渡されて間もない5月下旬、私に相談を持ちかけてきた。
 どんなことだろうと聞いたところ、「今度のプロジェクトは大がかりなものらしいですが、会社の仕事をしながらでもできるでしょうか…」とおそるおそる美由紀は話し始めた。
 美由紀の生真面目な性格は私も十分把握していたが、彼女のその意識が、会社勤めと歌の双方に強く働きかけて支配しているものだったこともまた、こちらからうかがい知り得るところであった。
 それだけに、「今回の曲ができあがったら、会社のほうは休みをもらって、稽古に専念してほしい」などとは、会社勤めがそう甘いものではないという実情にも照らし合わせて、その時は美由紀に私の口からは言えなかった。
 結局、「とりあえず吹き込みまでは、今まで通りの形でいけるように工藤さんに頼んでおくよ」と話すのにとどまったのだが、美由紀の意気込みに応えるべく、いい曲を書いてやりたいとこちらも気合いが入ったとは、ここで述べさせていただく次第である。

 そして7月22日、美由紀を緑が丘の家に呼び、『浅草ワルツ』の本山プロ提出用MD作りに向けて動き出した。
 
 まず最初に、むつみ・治・美由紀の3人を前にして、私が男女パートをひととおり、ギターの伴奏で歌って聴かせ、このとき3人それぞれの手には、歌詞と楽譜を見開き一枚のコピーにしたものを持たせてあった。
 3コーラス歌いきったのち、これをデュエットにするとどうなるかを治と美由紀に教えるため、作り手である私とむつみのふたりでの歌唱へと段階を進めたが、むつみにはその前日までに私が個人レッスンの形で歌を教えてあり、ちゃんと見本としての役目を果たせる水準の歌唱力がむつみにあったのが、私の知るところとなっていたゆえである。
 最後に治と美由紀には、あらかじめ作っておいた、私のギターのメロディーと、私とむつみの歌が入ったMDを渡して、その日は解散となった。

 その次の週末、治と美由紀のそれぞれの練習の成果を聴いてみることになったが、私の家に住み込みの治と、ひとり暮らしの美由紀とでは同時に歌う機会はなかったはずで、相手に合わせての歌い方ができるかという点に注目した。
 そして歌わせてみたところ、特に問題はなくデュエットの形ができていたことから、提出用のMDの吹き込みも短時間ですませて、翌日の本山プロ事務所への出社に備えたのであった。

 麗子と会うのは、少し間があいていた。
 歌作りを私とむつみに託して、自主性に任せたという面があったのかもしれないが、今回の『浅草ワルツ』は、私としてはそれまでになかったほどの自信を持つことができる、既述のように「降臨」した曲なのだった。

 そしてこの章の冒頭で書いたように、歌詞と楽譜が見開きで載った紙を麗子に渡したのであるが、その場にはほかに、私の側にはむつみ・治・美由紀もいて、麗子サイドには本山プロの他の関係者も姿もみられた。
 MDの再生が始まると、私の背筋はぴんと伸びた。
 それは私にとって、これ以上の曲はそうそう書けそうにないもので、たとえ何らかの批判があろうが、全力で守り抜いてやりたいと思わせる要素を持っていた故であろうと判っていたからである。

 「やるじゃないの」
 再生を終えての麗子の言葉は、これだった。
 文字にすると短くとも、私にとってはそれに勝るものはない、ひとことであった。
 認めてくれたのか。
 これでいける、ようやくだ。
 そう思った私の肩から、なにか重い荷物がひとつ消えた気がしたのだった。

 「じゃ、この歌で企画を通すわ」と続いた麗子の言葉が耳の奥でこだましていた、帰り道の私であった。


「四人の吹き込みまで」

  「美由紀ちゃん、おつかれさま。これで四人分、そろったわ」
 工藤麗子がドアの前でそう声をかけた横には、日本クロップのディレクターのほか、私や光村むつみ、それにデュエットのパートナーである春日治も立っていた。
 2012年の秋も深まった11月下旬、都内のレコーディングスタジオでのことであった。

 7月30日に、私は『浅草ワルツ』のデモMDをマネージャーの麗子に渡したのだが、そのMDにはメロディーのみのものと、私とむつみの歌入り、それに治と美由紀の歌唱という、3つのトラックが録音されていた。
 その日は本山プロ関係者のみでの会議だったため、とりあえずどのような楽曲なのかを伝えるという目的に沿ったMD作りをしておいたのだが、この『浅草ワルツ』の競作企画の主導権を本山プロが握っていたことについても、ここで説明させていただく必要がありそうである。

 テイトレコードと日本クロップという、ふたつのレコード会社からそれぞれ[秋村稔と光村むつみ][春日治と保坂美由紀]のデュエットCDが発売されることが、この『浅草ワルツ』のセールスポイントのひとつなのだが、両バージョンとも、原盤権に関しては本山プロが持つことが企画の前提としてあった。

 もっとも、その点においては『浅草ワルツ』に限らず、私が本山プロに来てから手がけた数々の楽曲についても同様で、所属タレントのCD制作における本山プロの基本方針といってもよいものである。
 ちなみに、その前の唱道興業時代については事情が異なっており、原盤権は私の楽曲の場合、テイトレコードがもっぱら担っていたのだが、だからこそ当時のアルバム『秋村稔の十二都市』が、「テイトレコード若手による」との副題で出せたともいえるのだろうと私は思っている。
 
 余談ながら、本山プロはほかに、楽曲そのものの権利を管理する音楽出版社としての機能も自前で持ち合わせており、そのため私の場合、唱道興業時代にお世話になっていた隅田音楽出版への楽曲提供は終了することになったのだが、その挨拶をしに浅草まで行った際、「秋村さん、数々の名曲を作って下さり、どうもありがとうございました。これからも頑張ってください」とねぎらいの言葉をかけられ、わだかまりもなく先に進むことができたという思い出も、ここで記しておきたい。

 さて、原盤権を本山プロが持つとはいっても、CDの発売元であるテイトレコードと日本クロップにも、『浅草ワルツ』の楽曲を紹介する必要は当然あり、MDを編集してそれぞれにデモ音源として渡したのだが、しかる後に両社それぞれとの取り決めが必要だった点として、「カップリング曲をどうするか」というものがあった。
 もちろん、競作曲としての『浅草ワルツ』がメインであることはテイト盤とクロップ盤のどちらにも共通なのだが、歌謡曲のシングルCDの通例として、もう一曲を付録的に収録するするのも企画の中で私にも伝えられており、その点について具体的に検討する段階が来たというわけである。
 そうした中、「私と秋村が作ってきた楽曲の中から、デュエットにできそうなものを使ってみては…」との案をむつみが麗子に進言したのだが、実際のところ、『浅草ワルツ』以前にむつみと私の作詞・作曲によってできた曲の中には、男女のデュエット物はひとつもなかったため、そのアイデアにかなう曲というのはどれなんだろうかと、私はしばし思いをめぐらせた。

 「『ふたり・長崎・日曜日』と、『春夏秋冬・江戸ばなし』ってあったでしょ、あれよ」
 それがむつみの答えだったのだが、両曲については一応この文章で以前触れているので、あらためて少々説明を加えさせていただく。
 
 『ふたり・長崎〜』は、唱道興業時代の前出のアルバム『秋村稔の十二都市』の中の、長崎編として作られた歌であったが、その時はソロで歌われたとはいえ、作詞のむつみは、本来はデュエットのつもりで書いたと後に述懐している。
 結局、テイトレコード側や当時のマネージャーの大月豪らから、この企画は一曲ひとりを原則としての十二曲という指示が下っていたために、『ふたり・長崎〜』もソロ曲になったのだが、むつみとしてはデュエット案を捨て難かったらしく、その機会が『浅草ワルツ』のカップリング探しにおいて巡ってきたことになったのである。
 なお、ソロからデュエットに変えるにあたり、ただ単に男女のパートをつけるだけでなく、歌詞の内容の一部変更もむつみが申し出たのだが、それは3番にあった、長崎の歴史の悲しい一面の話がデュエットでは重苦しくてふさわしくないことから、2番までと4番をつなぐように、男女の日曜日のデートの話の一環としての詞に変えたことであった。
 それに伴い、ソロバージョンの3番だけが短調になっていたのを、1・2・4番と同じ長調にすることも決まったのである。

 一方、『春夏秋冬〜』は、落語家・南風亭旅助になった私の息子の進のために、他事務所ながら私とむつみが書き下ろした楽曲だったが、むつみはその詞に男女のパートを書き込んで私に見せ、「こうすれば、デュエットになるでしょう」と説明をして、こちらも納得がいったのだった。

 そしてMD提出からひと月半ほど経った9月中旬、テイトレコードの私とむつみ用の『ふたり・長崎〜』のカップリング付き、ならびに日本クロップの治と美由紀用に『春夏秋冬〜』が併録されているという、ふたつの『浅草ワルツ』のカラオケが私のもとに渡され、歌い手の私たち四人はそれを流したうえでの歌唱の練習に新たに取り組むことになったのである。

 吹き込みの予定日も、同時に告げられた。
 10月中旬に私がまず先陣を切る形で行い、下旬にはむつみがその上に被せることでテイト盤は完了、ついでクロップ盤は11月中旬の治が先で、下旬に美由紀が重ねるというスケジュールである。

 「素直に、いい声を生かすようにしてください」
 ヘッドホンからは、たびたびそのような指示が耳に入ってきた。
 私自身がスタジオでレコーディングをするのは、本山プロ移籍後はこれが初めてという事実はあるにせよ、練習では十分に歌えていたと思っており、それなりの自信はあったつもりだった。
 にもかかわらず、テイトレコードのディレクターからのダメ出しが何度も来るのに私はやや不機嫌になったものの、「それだと、カラオケで歌う人にとっては難しくなってしまいますから」という言葉から、真意がようやく少しわかってきた感じがして、「素直に」の感覚もつかめ、午前から始めた吹き込みが、夕方近くなってOKを出されたのだった。

 そののち、デュエット相手のむつみの時はもちろんのこと、さらにはクロップ盤の治と美由紀の吹き込みに際しても、私は作曲者としてスタジオに立ち会っていたのだが、ふたつのレコード会社のディレクターとも、技巧を凝らそうとしていじりすぎる歌唱をした場合には特に手厳しく注意を下してきたのが、横にいる私にとっては印象的であり、それは歌の原点に立ち返ってみることの必要性を示しているのではないか、と思ったものである。

 美由紀の吹き込みが終わると、もう11月も残りわずかとなっていたが、冬が来る前に、ひとつの区切りのところまで来れたとの安堵が、私にはあったのだった。


「競作キャンペーンのスタート」

 「東京に帰るのは、ひと月ぶりか…」
 羽田行きの飛行機の中で、私はそう思いをはせていた。
 両隣の席には、光村むつみと安達純の姿もあった。
 2013年の8月の、終わりごろのことだった。

 『浅草ワルツ』のCDが完成したのは、その2013年の1月下旬であった。
 私とむつみのテイトレコード盤と、春日治と保坂美由紀の日本クロップ盤のふたつをどのように売り込むかについては、完成前から会議を数度重ねていたのだが、その大まかな外枠は次のように固まってきていたのであった。
 
  まず、テイト盤チームには、マネージャーとして本山プロの若手スタッフの安達純がつき、おもに関東以外の、東京から遠く離れた土地での巡業を打ってまわることとなる。
 そして、もう一方のクロップ盤チームを率いる役は、純の上司にあたる、本山プロ・チーフマネージャーの工藤麗子が担うこととなり、こちらはライブを東京を拠点として首都圏に限って行うほか、在京のテレビ局へも出演のために足を運ぶ機会を持つ、という絵図が描かれたのだった。

 つまり、キャンペーンを関東内外に棲み分ける形で行っていくことが基本方針といえるのだが、それはCDの発売元が二社であっても、原盤権に関して、いずれも本山プロが所持していたからこそできるものだといえた。

 そして、CDのリリースが4月初頭というのも、年明け間もないころから予定として知らされていたことだったが、その発売開始の時期に関しては、やはり本山プロ絡みでの意味がこめられているものだった。
 というのも、テレビドラマのほうで、本山プロと、私の旧事務所である唱道興業との共同制作である、私のCDデビューまでの生きざまを描いた『ふたたび…東京』が、前年の2012年の10月から放送されていたのだが、半年の期間をもって最終回を翌3月に迎えることとなっていた。
 そこで丁度、時期としてバトンを手渡されるような形で、新曲『浅草ワルツ』の発売とそのキャンペーンの開始となるのだが、いかにしてドラマの余韻を生かしていくかというのが大きな課題として、検討が重ねられていたのだった。

 実際、ドラマ『ふたたび…東京』に関しては、いずれも私と同じ本山プロ所属の、主演の「秋山稔」役の結城拓馬と、音楽担当兼「大沢豪」役の沢村雅也が、それぞれ演技力や歌唱力のスキルについて高い評価を得ていて、視聴率も好調なものであったため、なんとしても『浅草ワルツ』のキャンペーンにもつなげようという事務所側の意気込みが、私にも肌で感じられたものであった。

 そのような視点で、競作となる両チームの行動計画に目を移すと、そこにこめられた本山プロの意図が浮かび上がってくるのもまた、事実であった。

 特に、私とむつみのテイト盤陣営に関しては、ドラマの中で「秋山稔」が青森を皮切りに全国をまわった、その足跡の残る土地をキャンペーンでたどっていくことが大きな売りといえるだろうと考えられていた。
 現実に、アニメやゲームの世界においても、作品の舞台となった土地への来訪、いわゆる「聖地巡礼」はしばしば行われているというが、それは実写のドラマの視聴者も、同様に行動に移すことがよくあると聞いているため、その効果に期待できる面が十分にあるのだった。
 それでは、どのように全国をキャンペーンしていくか、その順番についても発売前にたびたび打ち合わせがあったが、基本は「夏は北、冬は南」の言葉で表される方針だった。
 実際のところ、私自身も振り返ってみると、その言葉に基づくような行動をしていたことが思い出されたのだが、例えばCDデビュー前に全国を移り住んでいた時期の、札幌から大阪への転居が10月だったというのもそのひとつと思えるし、デビュー後の地方巡業も、スケジュールの上で大まかにいえばある程度、当てはまっていたのであった。
 そういったことを思い返してのキャンペーンの中で、スタートの4月から6月ぐらいまでは、中部地方以西が主な開催場所だったのを、7月には東北に移し、8月はさらに北海道へのぼっていく形となっており、この章の冒頭は新千歳空港からの帰途のひとこまを描いたものであった。

 その一方、治と美由紀のクロップ盤サイドは、東京から近い場所でのライブのほかに、テレビ番組の出演の機会も多かったのだが、出番は歌番組だけに限られていたわけではなかった。
 2013年の3月末をもって、ドラマ『ふたたび…東京』が放映終了したのち、拓馬と雅也の両者を中心に据えたバラエティーの冠番組がスタートしたが、そこへの出演者として、治と美由紀のふたりも含まれることとなった。
 番組自体は、バラエティーとしては音楽的要素が比較的強いものといえたが、最も肝心なところである視聴率についても、『ふたたび…東京』の主役級のふたりで安定した数字を引き出せそうだという読みがテレビ局側にあり、そこに治と美由紀を絡めることを、本山プロが提案して、話がまとまったのであった。

 こうして、『浅草ワルツ』のキャンペーンは動き出したのだが、むつみと私の作詞・作曲コンビにとっては、競作相手の治と美由紀のクロップ盤も、印税の点から勿論多く売れてほしかったものの、それでも枚数では自分達のテイト盤のほうが上回ってみせるとの意気込みで臨むものとなったのであった。


「進の婿入り」

 2013年の4月から始まった、『浅草ワルツ』のキャンペーンであったが、デュエットとしての競作のひと組である私とむつみの身辺では、歌とは別の大きな出来事もまた起きていた。
 今回は、そのことに関しての裏話を中心に、少々説明させていただこうと思う。

 「落語家の南風亭旅助さん結婚 一般女性と」
 そう報道があったのは、浅草ワルツのCDの発売から半年が経った、10月半ばのことだった。
 南風亭旅助が表向き私の甥である進で、実際は私の息子だという話は、本書の中でここまでたびたび述べさせていただいた通りであるが、その進の置かれていた状況を、時間をさかのぼって見てみる。
 
 2012年の3月半ば、真打昇進披露を行った進だったが、その頃は、二つ目になって師匠の家への住み込みから独立後、数度の転居を経て、都内のあるマンションに落ち着いて三年ほどの時が流れていた。
 その進のマンションへは、昇進後、会う用事のできた時にむつみを何度か行かせていたが、そこに家事担当の安達妙子を伴っていたことも、場合によってはあった。
 
 初めのうちは、妙子は緑が丘の私の家で作った料理をタッパーなどに入れて、進のもとへむつみとともに向かっていたのだが、次第にひとりで行くことが多くなり、それに伴い、進の家のキッチンを借りて、そこで一日がかりで調理をしてきたという報告を、妙子本人から受ける機会も増えた。
 それで何を作ってきたのかとの、私やむつみの問いに対しては、「味噌汁を」と答えが返ってくることが最も多かったが、自身の好みについて進は、青森で妙子の実家に間借りしていた頃から口にしており、味覚の原点になっていた。
 そして、「妙子の味噌汁がいつでも飲めれば──」との進の思いが、「来年あたりには式を…」と発展していったことは想像に難くないのであった。

 結婚披露宴は2013年の10月初頭に行われたのだが、その会場は東京ではなく、先んじて秋の深まった青森においてであった。
 私の実家と、安達家の両方がある土地での挙式だったわけであるが、そうした理由はというと、少々説明がいるかもしれない。

 この『三たび…東京』の第2部で、安達家が代々女系家族で来ていたという話に少し触れたが、そのことが妙子と進の間柄についても当てはめられるものとなったのが、まずひとつ挙げられる。
 女系ということでは、入り婿と生まれた男子のいずれも、酒屋とは別の仕事を外でするのが安達家の家訓になっているのだが、実際に妙子の弟の純が本山プロに入って、『浅草ワルツ』の私とむつみの陣営のマネージャーとなったのも、それを実証しているといえる。

 そのため、進の場合も安達家に籍を入れる形となり、現在の本名も「安達進」となっているのだが、進がそれを承知することができた背景については、本人の以前のある発言による裏付けがある。
 進は二つ目で人気が出てきたころ、インタビューで結婚観についての質問を受けているが、それについて、「子供が生まれても、芸能人にはさせたくないですね」と答えた記事が残っている。
 その発言の意図としては、自身が落語界に入ったのが、むつみの提案による全くの成り行きでそうなってしまったのにすぎず、「継がせるようなものでもない、一代限りの仕事」と進がとらえていたのが実情としてあり、それゆえ自分の姓が変わるのにも抵抗はさほどなかったということだと思われるのである。
 
 一方、進のその落語界入りの経緯を振り返ってみると、当時の進が、かつて全国を私とともに転居してまわっていた頃に出会った女の子たちとの交際を続けており、それに区切りをつけようとしたむつみの意図によると以前書いたが、この点についても、今回は詳しく見ていく必要がありそうである。
 
 私と進が東京以外のところに住んだ、その都市の数は12であったが、そこには妙子の青森と、私の弟子で『浅草ワルツ』の競作相手である保坂美由紀の出身地の金沢が含まれており、それ以外は10都市ということになる。
 そして、その10都市でも進は、つごう10人の彼女を作っており、交際は高校最後の春休みから大学1年の夏ごろまで、進のほうが地方に行く形でなされていたのだが、その女性たちはどのような進路をとったのか探ったところ、下記の職についたことがわかった。

 ──乗馬インストラクター、アナウンサー、大学講師、文筆業、詩人、陸上選手、実業家、ロック歌手、バラエティタレント、クラシック奏者──

 もちろん、彼女たちの実名をここで挙げることは避けるが、息子の進の落語界入りに際して、私はその10人それぞれと顔を合わせ、進の出世をお待ち願ったという事実があった。
 その後は、私自身が彼女たちと会う機会はないまま今日に至っているのだが、一方で私の妻となったむつみは、進となかば入れ替わるかのように、10人の女性との交流を始め、仲をすこしずつ深めていったようであった。

 また、緑が丘の自宅のローンを払い終えた後の話であったが、私はむつみに「作詞の印税は家に入れなくていい。むつみの好きなように使って構わないから」と言っていたものの、見たところむつみの衣食などは、それまでと同様に質素で通していたふうだった。
 私がそのことを聞くと、「人を育てたいから、それにお金を注ぎ込んでいる」とむつみは答えたのだが、それは玉野俊男や春日治といった弟子のみならず、件の女性たちをも対象にしていたのであろうと、のちに私は感づいたのだった。
 
 具体的にいくら使ったか、などという話は野暮だが、結果的には生きた金をむつみは投じたことになったと、夫の私は納得がいっているのである。

 話を進と妙子の結婚式に戻すと、妙子が家業を継ぐことから、進のほうが安達家の籍に入ったところまでは述べたが、それに伴って「安達妙子・進」の夫婦の家は青森市内ということになった。
 もちろん、進は落語家という職業柄、東京を主な仕事場にする必要がそれまで通りにあったのだが、その件については、「進の、青森から東京への単身赴任」という形式で説明がつけられるものであった。

 また、私とむつみの間に生まれた長女は、多忙だった私とむつみのかわりに、妙子の手により育てられて小学三年生になっていたが、私たち夫婦にはなつかず、妙子のほうを母のように慕っていたことから、この長女に関しても、「青森に連れていって育てたい」という妙子の意志を重んじて後を任せたことを、ここで付け加えさせていただく。

 なお、マスコミへはこの結婚式を事後報告する形になり、印象としては「南風亭旅助としての知名度に似合わず、ひっそりとしたもの」と世間には受け取られたようであったが、そのように行われた理由としては、新婦の妙子が一般人であったことや、私と進の間柄が「実際には叔父と甥ではなく、父親と息子である」という話が表に出ないようにとの配慮などが含まれており、私が『浅草ワルツ』のキャンペーンによる多忙さを口実にして式を欠席したことも、事情としてはそこにつながっていたのだった。

 「私は私、進は進」という割り切りができなかったために今章の話が書かれた、とも言えなくはないのだが、「実の親としては、触れずに済ますことがなぜできようか」との思いを込めて申し上げた次第である。


「ミリオンセラーの要因」

 「…それでは、百万枚達成を記念いたしまして、乾杯の音頭をとらせていただきます」
 工藤麗子の声が、都内のそのパーティー会場に響いた。
 2015年の2月、暦のうえで春が来たころのことであった。

 『浅草ワルツ』の発売から1年半経った2014年10月、私はその報を受けた。
 9月末までで、『浅草ワルツ』のテイトレコード盤が41万枚、日本クロップ盤が62万枚の売上を累計で記録したという。
 両者の合計枚数が、この時に至って百万を突破したことになったが、なぜミリオンセラーにこぎつけられたのか、それを各方面の視点からさぐってみようと思う。

 テイト盤を吹き込んだ私と光村むつみのコンビは、キャンペーンの主体が地方公演だったが、そのさなか、私の心の中によみがえってきた思い出があった。

 あれから、もう18年経つのか──

 1995年の夏、『東京の雪/ふたたび…東京』でデビューした私は、年内は東京都内が主であったキャンペーン会場を、年明け以降は地方都市へと移していった。
 街から街へ、移動につぐ移動だったあの頃、運転手役は当時在籍していた唱道興業のマネージャーで、十代からの流し仲間でもあった、大月豪が買って出てくれた。
 そのさなかの1996年5月、私は不惑の四十を迎えたのだが、今思えばスケジュールとして無茶なほどに詰まっていたのを、あの頃は勢いで乗り切れたものだと、振り返ってあらためて感じられるのである。

 そして時は流れ、『浅草ワルツ』のリリース。
 地方回りのマネージャーを務める、本山プロの安達純は、2013年に私の息子の進と結婚した安達妙子を姉に持つ。
 10月の挙式の際に純は、私が巡業から東京に戻ってしばしの休みになったのを利用し、青森に帰省しての参加となったのだが、その彼のことを私は緑が丘の家であらためて思い返していた。
 スケジュール進行など何につけても、てきぱきと手際よくこなせているな、というのが印象としてあった。
 私が青森で間借りしていた安達酒店、そこで産声をあげた赤ん坊もいまや偉丈夫となり、車のハンドルを握るさまも堂に入っている。
 光陰矢のごとし、私も五十代の半ばを過ぎ、昔日のような無理もきかなくなってきただけに、純のもつ若い力には本当に助けられていると、忙中閑ありのひとときに考えている私であった。
 
 さらに、デュエットの相方のむつみに関して。
 むつみと私は、『浅草ワルツ』の作詞・作曲のコンビでもあることから、もし夫婦でなかったとしても、密接な間柄に変わりはないのだろうが、そのことをキャンペーンでは改めて感じさせる場面が多々あった。

 ステージで『浅草ワルツ』を披露するとき、歌だけでなく、前後のトークでもお客の興味を引きつけなければいけないことは私も十分承知だったが、それを主導したのは8:2ぐらいでむつみの側だったように思う。
 『浅草ワルツ』の企画が始まる前、むつみは作詞のかたわら、高校までの落語研究会での経験を話の中に活かした講演をたびたび開催していたのだが、それをさらに応用しての、お客を飽きさせない姿勢には私はかなり助けられたものだった。

 また、終演後のCD販売とサイン会においても、あたかもライブの延長戦のような、むつみのお客ひとりひとりへの、サービスの満点を目指す様子が見てとれたが、キャンペーン先の地元テレビ局などへの出演との連動という点から、40万枚突破の売り上げへの貢献度はかなりのものがあったようだった。
 それゆえ、このテイト盤の主役は私ではなく、あくまでむつみであると改めて思ったものであった。

 一方、競作のもうひと組、春日治と保坂美由紀のクロップ盤にはどのような販売戦略があったのか、そちらに話を移したい。

 2013年4月から放映開始された、同じ本山プロ所属である結城拓馬と沢村雅也を主役に据えた冠番組『たくまさやレコード店』に、助演的役割として治と美由紀のふたりも出演することになった。

 まず治のほうであるが、どのようなキャラクターで売り出すか、それを考えるところから始まった。
 主役のふたりは、拓馬はクールガイ、雅也は温厚というイメージが確立していたが、そこに絡めるには治をどういうタイプにするか。
 結局、治の地に近い、威勢のいい江戸っ子の路線でいくことが決まったのだが、小柄で機敏という特性も相まって、拓馬や雅也たちとの対比の構図でいけそうだという見通しが立ったのだった。

 かたや美由紀は、この『たくまさや──』の中では、レギュラーとしては紅一点の役割を持つことが見込まれていた。
 『浅草ワルツ』の吹き込みをした2012年秋の時点では、美由紀はまだ会社勤めをしていたが、キャンペーンが始まるのに合わせ、2013年3月末をもって退職した。
 美由紀のデビュー曲『あなたが選んだ反物』の時は、本山プロ側に申し出ていた「OLと平行しての歌手活動」が可能であったが、今度はデュエットで相手がいることから、中途半端な姿勢をとらずに歌一本に絞るという決意をしたと、彼女本人から私も聞いていた。
 そして番組が始まると、男三人に守られるような形で、進行の一翼をまずは無難にこなせたのだった。

 治と美由紀は、『たくまさや──』の収録のほか、首都圏でのライブも多数こなしたが、60万枚を超えるCD売り上げは、やはり番組効果が大きかったというのはその通りだろうと、私は感想として持っているのである。
 さて、私とむつみ、治と美由紀といった、歌い手の観点で『浅草ワルツ』を見てきたが、そのほかにも、ヒットの要因として見逃せないものは少なからず存在している。
 特に、現代社会においてなかば不可欠なものとなったインターネットの世界、そこでの『浅草ワルツ』にまつわる話にも、触れることにする。

 ネット上で視聴できる無数の音楽コンテンツ、その動画の中のひとつで、[浅草ワルツ 鏡音リン・レン]というものを目・耳にした方は、それなりにいらっしゃるだろうと思う。
 ボーカロイド、といえば最も著名なのは初音ミクであるが、これは「歌わせることができる」のが女声のソロなので、『浅草ワルツ』のようなデュエット曲の場合は、「ミク」の後発ソフトの『鏡音リン・レン』のほうが適している。
 
 その「リン・レン」を用いての『浅草ワルツ』の動画が「神調教」、つまり出来がいいものとして話題になったが、それを作ったのは、私の門下の歌手の玉野俊男が正体だと、ここで明かさせていただく。
 俊男は『秋葉原のブルース』でのデビュー以来、「オタク歌手」として売っていたが、コンピューターに関しても、私などとてもついていけないほどの豊富な知識を持っており、それを活かして、編曲家の協力を仰いだうえで、『浅草ワルツ』のボーカロイド版をネット上にUPし、歌の話題に一役買ったのである。

 とはいえ、この『浅草ワルツ』の企画全体についての世評として、「本山プロが大手だから、事務所の力によるもの」という声があるのは確かで、私などもその恩恵を多大に受けられて運がよかったと本心で思うが、舞台裏では今回書いたような多くの人たちの努力、そして何よりもCDを買って聴いて下さった方々のおかげで、競作でのミリオンが達成できたと、感謝の念に堪えない私なのである。


「『浅草ワルツ』の恩人たち」

 「うちの息子をここまで出世させていただき、改めまして、どうもありがとうございました」
 『浅草ワルツ』売上百万枚突破記念パーティーの席で、そう言って私に頭を下げてくださった男女がいた。
 その御二方が春日勝さんと緑さん、つまり治の両親であることはあらためて御説明するまでもないが、当時の春日夫妻が日ごろどうしていたかも、ここで少々触れさせていただこうかと思う。
 

 2011年の秋、緑さんは、治の育児期間をはさんで長いあいだ経営していた歌謡教室を閉じた。
 私よりちょうど十歳年長の緑さんは、その年の8月に65歳になっていたが、年齢的にひと区切りつけようと思ったとは御本人の言で、指導者としての技量の潮時と考えての引退とみるのが妥当なものと思われる。

 そして翌2012年夏、夫の勝さんが会社を60歳で定年退職したが、再就職の口を探すことはせず、それまでの貯えに年金をプラスしたもので生活する方針に沿い、緑さんともども第二の人生に入ることとなったのだった。

 音楽講師と会社員という、緑さんと勝さんの長きにわたる共稼ぎであったが、仕事を辞めて時間に余裕がだいぶ増えてからは、息子の治の歌手活動をさらにバックアップしたいという心持ちで、『浅草ワルツ』のキャンペーンの手助けを夫婦して手がける様子が、私の目にも映っていたのであった。

 例えば緑さんにおいては、ライブやテレビ出演などで疲れていたであろう治と、デュエットの相方の保坂美由紀のふたりを、自宅にて手料理などでもてなして、くつろぎのひとときを与えることがしばしばであった。
 
 一方の勝さんは、2010年6月に発売されたデビュー曲『おふくろの金ダライ/私の勝手でしょ』を中心に据える形でのライブを開催するようになり、その中で、『浅草ワルツ』のキャンペーン中の治のことについてもアピールを欠かさなかったのである。

 そうした両親の支援の甲斐もあって、治のほうの『浅草ワルツ』は60万枚を突破したのだが、共唱相手の美由紀に関しても、緑さんと勝さんが大いに感謝をしていたのはもちろんで、「ゆくゆくは息子のお嫁さんとして迎えたい」という気持ちで、交際の続いているふたりを見守ってきて、今日に至っているのである。

 『浅草ワルツ』のキャンペーンを陰ながら支えた人物ということでは、前章で触れたように、ネット上で楽曲を広めた玉野俊男もそのひとりで、彼の音楽活動の道筋の話も、ついでながらここでさせていただこうと思う。

 2007年8月に『秋葉原のブルース』でデビューして以来、独自の「オタク路線」に沿って歌い続けてきた俊男だったが、自身のオリジナル曲以外の、既成のスタンダードナンバーをそのオタクならではの視点で論じることもしばしばあった。

 例えば、古賀メロディの数ある名曲のひとつ、『影を慕いて』について、「この曲はオタクの心を歌っている、とも今なら解釈できるんですよ」とトークの中で触れていた。
 つまり──「まぼろしの 影を慕いて…」という冒頭の歌詞は、現実にいる相手ではない、いわゆる二次元のキャラクターへの恋をあらわしており、3番に進んでの「…永遠に春見ぬ わがさだめ」と、決して叶うものではないとの自覚からくる哀しみにつながっていく──といった話の内容である。

 俊男はこの『影を慕いて』の楽曲を気に入っており、ステージやテレビでも披露する機会が多いが、きちんと歌い上げられる実力があるからこそ、トークのネタにしても、聴き手の方々に十分説得力をもって受け入れられているのではないかと、そう感じられるのである。

 また、オリジナルの持ち歌のひとつの『磨く剣が』についても、原作となった小説に関して、「これは和魂洋才」との持論を展開している。
 こちらは、原作はいわゆるファンタジーRPGタイプとでもいおうか、西洋の中世風の「剣と魔法の世界」であるのだが、そういった世界観をもつ数々の作品は、どれも中身に日本人的感情が取り入れられていると、俊男はいうのである。

 それは、かつての日本映画で一大ジャンルを築いていた「任侠路線」が源流にあり、中核のその任侠道精神を中世ヨーロッパ風の舞台設定というオブラートで包むことで、日本の作品としての「剣と魔法の世界」が確立されたのではないか──という話になる。
 あくまでマーケットの場が日本である以上、たとえ西洋風に見えても、思想を日本の伝統的なものにしたうえで、日本人に受け入れられなければならない、そういう精神のもとで醸成されたのでしょう、とも俊男は語っている。

 ちなみにこの話を俊男は、むつみとの共著の対談本の中で述べているが、むつみと俊男のいずれも、それぞれ多数の著書を手がけており、それらを読むことや、あるいは直々のアドバイスがこの『三たび…東京』を書くうえで大いに役立ったことも、ここで記しておきたい。

 しかしながら、『浅草ワルツ』のヒットに関わった面々ということでは、これまで書いてきたような本山プロ関係者やその身内にとどまらず、外部にあたるところにも、忘れてはならないような特筆すべき人物が別にいるという、その話に移りたい。

 私が所属事務所を本山プロに変えたとき、入れ替わる形で私の古巣の唱道興業に夏木幸綱と冬野巴が移ったことは既に述べたが、ふたりの担当マネージャーとして大月豪がつき、彼のもとでの心機一転しての音楽活動を幸綱・巴ともどもスタートさせた。
 
 その行方はというと、唱道興業の売りとなっている歌謡曲路線の水が両者とも合ったのか、移籍後ほどなくして、ヒットをコンスタントに出すようになったのだった。
 それを本山プロのマネージャーの立場で外から見ていた工藤麗子は、事務所同士が共存共栄精神で提携していて、豪とは旧知の仲でありながらも、よきライバルとしての対抗心がかきたてられた、と述懐している。
 「向こうがヒットの連発なら、こちらはホームランを」ということであろうか、麗子はむつみと私の作詞・作曲コンビに目をつけ、まずは芸大卒の逸材の玉野俊男のプロデュースを小手調べに、複数の歌い手への楽曲提供とレッスンをたびたび命じてきた。
 そして同じ本山プロの主力タレントである、結城拓馬と沢村雅也を中心に据えたドラマ『ふたたび…東京』の放映の完了にあわせ、一年近く時間をかけて作られた『浅草ワルツ』のキャンペーンをスタートさせ、それが総売上げ百万枚突破という形で、場外ホーマーに例えられるものとなったのだった。

 麗子の唱道興業への対抗心から生まれた企画、という見方で『浅草ワルツ』はとらえられるのだろうが、もともとの彼女と幸綱・巴との関係についても、少々注目してみたい。

 治や私の息子の進が高校在学中にプライベート盤で作った『忘れえぬ街』の歌唱に、幸綱と巴も参加していたのだが、コーラスグループ『TOYS』としての彼等四人と、伴奏の同校ブラスバンド部員に人数分のCDを頒布したのち、残りは豪が預かる形にして、業界の面々に配ってアピールしたという。

 そして豪がCDを手渡した相手のひとりに麗子がおり、のちに幸綱と巴が本山プロにスカウトされるきっかけになったといえるが、マネージャーふたりの、好敵手としてお互いに認め合う間柄が、「元・流しの歌手としての実演技能の高さ」と「聴き手に徹した的確な判断能力」というタイプの相違を越えて存分に成果をあげた、とも見ることができるのである。
 
 そうした中、本山プロでの『浅草ワルツ』のキャンペーンが行われているのを横目で眺めるような形で、幸綱と巴は2014年10月の挙式・入籍を果たしたのだが、今年・2015年の6月に妊娠を発表した巴がどのような母親になるのかも、遠くからではありながら私も見守っていきたいものである。

 ともあれ、前章に続いての『浅草ワルツ』周辺の人間模様を描いてみて、「自分が生きている限り、心からの宝物として持ち続けなければならない」という思いを新たにした楽曲、それに他ならないと感じる私なのであった。


「真実を明かすCD」

 「秋村さん、カラオケで『浅草ワルツ』を、妻とよくデュエットしてますよ」
 春日勝さんから、そう言われたことがあった。
 『浅草ワルツ』は、2013年4月のCD発売後、ほどなくしてカラオケにも入ったのだが、競作の合計でミリオンセラーとなったそのCDの売れ行きに対して、どれほどの効果を与えたのだろうか。
 もちろん、本山プロのバックアップによって、歌い手の私たちが本来の実力をはるかに上回る結果につなげられたというのもあろうが、その『浅草ワルツ』は、純粋に楽曲として見た場合にどのようなものだったか、カラオケという視点も加味し、少々考察してみたい。

 そもそも、『浅草ワルツ』は音楽ジャンルとしては、どこに属するものなのか。
 一般的な論調としては、この曲を演歌に分類する向きが多いように感じられたが、それは作曲し歌った私こと「秋村稔」が、世間では演歌歌手とみられていたからではないだろうか。
 実際に『浅草ワルツ』を楽曲として分析してみると、演歌の特徴のひとつとされる「こぶし」を使うような箇所は、1番でいうならサビの「浅草寺」のところにぐらいしかなく、その点からいっても、演歌的色彩はあまり強くない。
 もっとも、近年は昔と比べて、分野としての「演歌」の範囲は広くとられるようになっているから、『浅草ワルツ』を演歌に含めるのも、それはそれでありかもしれないが、ここはかつての流行歌の呼称として広く用いられていた「歌謡曲」としておけばいいのではないかと、私は思うのである。

 そうした中で、『浅草ワルツ』のメロディーをもう少し見ていくと、テンポは速からず遅からずのミディアム、そして題名どおりのワルツこと3拍子で、音階は四七抜きのメジャーとなっているのだが、私の周囲や、一般の音楽ファンの方々からの感想として多かったのが、「歌いやすい」との声だった。
 私がこれまで作ってきた曲の中でも、会心の出来といえる数少ないもののひとつであると、『浅草ワルツ』については思っているのだが、それがひとりよがりの感想にはとどまっておらず、世間の支持をも十分得られ、私は胸をなでおろしたのだった。

 また、「結婚式で『浅草ワルツ』を歌いたい」という要望がだいぶあるという話も耳にしていたが、これはメロディーの明るさや歌いやすさのほか、歌詞としても、「今日からは 二人いつまでも」という締めくくり方が、祝いの席にふさわしい、めでたいものであるという点によるところ大といえそうであり、その意外な効果に私も思わずうなったのである。

 さて、デュエット曲はソロ曲にくらべて、テレビやステージではオリジナル歌手によって歌われる機会がさほど多くないともいわれるが、これはおもに男女ふたりのスケジュールを、共演できるように調整する必要があり、それが特に大物同士の場合は難しくなるからというのが、理由のひとつとして存在している。
 それは『浅草ワルツ』の私とむつみ、治と美由紀にあてはまるものではないかもしれないが、歌手があまり歌わないぶん、楽曲そのものが世間にひとり歩きしていくケースが、デュエットでは多いといわれている。
 実際、デュエット曲が命脈を保つ場として、スナックやカラオケボックスといった、素人が歌うところが挙げられ、例えば『東京ナイトクラブ』や『銀座の恋の物語』などの、レコード発売からすでに半世紀が流れているような楽曲が今でもしばしば歌われることがその証左だと思われるものである。
 そして、一介のデュエット曲である『浅草ワルツ』も、スタンダードナンバーとして歌い継がれていくのを、その作者という立場から切に願いたいと、この場を借りて申し上げることとする。

 と、ここまで長きにわたり、『浅草ワルツ』の話を書かせていただいたが、シングルCDのミリオンセラーという結果を出して一段落した感があるそれに続き、私がどのような音楽活動をこれからしていくかに、話を移したい。

 『浅草ワルツ』を目玉にしたアルバムを出す──というプランが、私が専属契約しているテイトレコードの関係者から、かねてより出されていた。
 そのアルバムのコンセプトとして、「秋村稔が全国を転々とした、その真の履歴を明かす」のが挙げられていたが、どのような曲を収録すれば表現が可能になるかを考えるところから、計画が開始された。

 まず候補として出されたのが、私の所属事務所が唱道興業であった時分に制作されたアルバム『テイトレコード若手による 秋村稔の十二都市』の収録曲の、札幌の『札沼線』から南下していく計12曲で、そこに東京が舞台の私のデビュー曲『東京の雪』『ふたたび…東京』をプラスすれば、『浅草ワルツ』と合わせて15曲となり、アルバムとして不足のない数となる、という話である。
 そして曲順は、トップを『東京の雪』、ラストを『ふたたび…東京』にし、両曲のあいだに『〜秋村稔の十二都市』を転居順に入れていき、さらに扇の要である8曲目に『浅草ワルツ』を入れる、と話が落ち着いたのだった。

 そう決まったところで、レコーディングに移ったのだが、『〜秋村稔の十二都市』のうち、『浅草ワルツ』のシングルのカップリング曲になっていた、むつみとのデュエットバージョンの『ふたり・長崎・日曜日』は音源をそのまま使うことにし、残る11曲を新録音するという話になった。

 そこで、今回のアルバムの題名が『秋村稔・光村むつみが唄う 十二都市、そして東京』に決定していたのを受けて、11曲をむつみとふたりで分担して吹き込むことになったが、むつみが私より1曲多い6曲を担当したのは、『東京の雪』『ふたたび…東京』が私のソロであることから、アルバム収録曲全体でみると逆に私のほうが1曲多くなるという、バランスを考えてのものである。

 また、歌詞カードの併記文章として、むつみと私という、作詞・作曲者それぞれによる解説が載ることになったが、私たちふたりがそれを書くのに際して、かつて大月豪が『〜秋村稔の十二都市』でしたためた紹介文を参考にした点も、ここで申し上げておきたい。

 さらに、この15曲入りのアルバム企画とならび、むつみと私が臨んだ仕事に、私の息子の進の、「南風亭旅助」としてのシングル新曲の作詞・作曲がある。
 こちらは狙いとしては、『〜十二都市、そして東京』で表現した「秋村稔の真の履歴」を応用する形で、進の過去についても同様に真実を明かし、私と実の親子である点も、はっきりと世間様に御披露するというものである。

 ちなみに、安達家に入籍した進のその後について書かせていただくと、結婚から1年と1ヶ月を過ぎた2014年11月に生まれた長男は、妙子が青森で育てているが、私とむつみの間の長女も妙子になついたため、やはり青森におり、結果として姉弟のような間柄になっているとのことである。
 進の仕事は東京が中心であることから、結婚してからは単身赴任の形式になっているが、たまに青森に帰っているとも、また伝え聞いている話なのである。
 
 そして進のシングルの曲であるが、タイトルは『僕が暮らしていた街よ』『遠い街のあの娘』といい、いずれも進の実際の経歴がもとになったストーリーを、むつみが詞にしたものである。
 進のこれまでの表向きのプロフィールは、「秋村稔の、早世した兄夫婦の息子で、中学卒業まで青森で暮らし、東京の高校に進んで叔父の稔の家に同居していた」であったが、「実は稔の息子で、一緒に全国を転々としていた」のが『僕が暮らしていた街よ』で明かされることになる。
 一方、進が高校三年から大学一年の時分にかけてしていた遠距離恋愛、そちらはカップリングの『遠い街のあの娘』で描かれ、いずれも進の真実を述べた歌となっていることが、セールスポイントといえるのではないかと思う。

 アルバム『〜十二都市、そして東京』と、シングル『僕が暮らしていた街よ/遠い街のあの娘』は、2015年10月に当書『三たび…東京』と同時発売の予定だが、いささか宣伝になってしまうものの、三点揃えて御購入いただきたいと、ここで切にお願いする次第である。


「終章」

 「秋村さんのデビューって、95年のことだったかしら?」
 マネージャーの工藤麗子が私にそう聞いてきたのは、2012年3月のある日のことだった。
 「そうそう、その年の夏のことでね…」と答えた私に対し、麗子は静かに言った。
 「じゃあ、あと3年あるわね。二十周年までには」
 そして続けて、「どう、今から少しずつ書いていけば、その2015年に本が出せそうだけど、いかがかしらね」との提案をしてきたのだった。

 そのようなことから自らの過去を見つめなおして書き始め、『浅草ワルツ』の企画に携わるかたわら綴ってきた文章が、いまようやく完結にこぎつけられそうな所まできており、「間に合った…」との安堵の気持ちに私はひたっている。

 さて、私のデビューを振り返ってみると、『東京の雪』とともにCDに吹き込んだ曲に、『ふたたび…東京』があった。
 このときは歌詞も私が書いたのだが、放浪の末に十年ぶりに東京に戻ってきた男、それが主人公であるというストーリーに対応すべく、自らのプロフィールまでも、事実と異なるものにして発表した。
 
 その結果としてまず、全国を転々としていた中で、浅草に近い墨田区の一角に住んでいた頃があったという経歴が伏せられたのだが、私が光村むつみと初めて逢ったのが当時のことだったのは、既述の通りである。
 のちに私と作詞・作曲のコンビを組み、ついには私の妻にまでなったむつみはしかし、私との出会いが表向きは「『バーボングラス』の歌詞の持ち込みの時」とされ、そのことに対するわだかまりを晴らしたくて、『浅草ワルツ』の詞に想いをぶつけたのではないかと、私はみている。

 しかし、そのむつみにもまして影響を大きく受けたのは、私の息子の進で、『ふたたび…東京』のイメージを守ろうと、私とその周囲が動くなか、「秋村稔の甥」ということにされてしまった。
 進は大学在学中に落語界に入門し、「南風亭旅助」として今も活動しているが、表立っては私の息子だとは言えないままで今日に至っており、この本が出ることでようやく、私と進は本来の父と子の関係に戻れるのかもしれない。

 とはいうものの、『ふたたび…東京』が、デビュー曲として私の運命を切り拓いてくれたことは重々承知だし、現在に至るまでの音楽活動の礎となっている、大事な曲であるのに変わりはない。
 それならば、『ふたたび…東京』という言葉を自らの看板にして二十年間やってきたのを、本書の上梓を機に、題名どおりで事実であるところの、『三たび…東京』の男に切り替えて、残りの音楽人生を全うしよう──そう決意をしたところで、筆を置かせていただくことにしたいと思う。

 最後になったが、私がこれまで出会いお世話になった方々、そして、ステージやテレビ・ラジオ、それに有線やCDなどを含め、いかなる形であれ、私の歌を聴いてくださった方々すべてに向けて、この場を借りて感謝の念を申し上げたい。

                                                            2015年白露の日、これを記す

                                                                      秋村稔



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