センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第5部



「20年前のあの人から」

 「稔、手紙が来てるぞ」
 8月の半ばごろのある日、豪がそう言ってきた。
 「えっ、手紙?」との私の問いに対し、「ほら、これだ。ファンレターのようだぞ」と豪は私の目の前に封筒を差し出してきた。

 『東京の雪』『ふたたび…東京』をレコーディングするまでの経緯を書いてきたが、その2曲をひっさげて私がデビューを果たしたのは、1995年7月末日のことであった。
 5月で39歳になっていたとはいえ、新人歌手であることに違いはなく、売り出しのためのキャンペーンは若い人の場合と特に方式を変えることなく行ったとは、豪の言である。
 
 記念すべき、と言っては大げさかもしれないが、そのキャンペーンのスタート地点は、新宿であった。
 故郷の青森を後にして上京した私が、流しの歌手としての仕事場としたのがそこであったが、その縁あってのことである。
 まず新宿から始めようと発案した豪が、私を担当するマネージャーとして同行することになったが、その豪自身もまた、以前に私と組んで新宿を流していたのであるから、勝手知ったる土地という点でマネジメントがしやすいというメリットを考えてのプランだったわけである。

 ある広場の一角を借りて、キャンペーンが始まった。
 『テイトレコード新人 秋村稔』と大きく書かれた看板を掲げたステージを会場とし、挨拶のあと『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を歌ったのが、私のプロ歌手としての第一歩となった。
 そしてその翌日以降は会場を変え、渋谷や池袋といった東京の各所で歌っていくことになったのだが、2週間ほどそれを続けたのち、スケジュールの都合であろうか、一日休みができ、この章の冒頭部の話はその日のことである。

 豪の家で、彼から手渡された封筒に目をやると、『唱道興業 秋村稔様』との手書きの文字が表に、そして裏返してみると、差出人として『春日勝』とあった。
 はて、これは誰だろうと思ったが、とにもかくにも、歌手としての私宛てに来た初めてのファンレターであることに間違いはなさそうであったので、開けてみることにした。

 中の便箋には、次のようなことが書かれていた。

*******

 こんにちは。春日勝という者です。
 先日、私が勤務している銀座の会社の近くで、秋村様が新人歌手としてキャンペーンをしているのを昼休みに見かけ、CDを一枚買わせていただきました。
 
 ところで、秋村様におかれましては、私のことを御記憶でいらっしゃるでしょうか。
 あれは今からちょうど二十年前、一九七五年の四月のことでした。
 大学を卒業し、銀座のある会社に就職した私は、そこの親会社のある新宿にも仕事で出向き、昼の挨拶回りのあと、同行した私の上司らとともに、バーで飲むことになりました。
 その時、若い流しの歌手の方がふたり、ギターとアコーディオンを携えてお見えになり、「いかがですか」と私たち一団の前に挨拶されたのですが、アコーディオンの方が「秋村稔といいます」とおっしゃったのを覚えています。
 そこで私の上司が「この春日に歌わせます」と言い、私はとまどったのですが、大学時代に一応はコーラス部で活動していたこともあり、歌わせていただくことになりました。

 それから現在に至るまでの二十年、会社勤めをしてきましたが、今年の八月初頭、冒頭で申し上げましたように銀座で秋村様を目にし、「あっ、あの人だ」と驚きました。
 そしてCDを買う際、「私です、春日勝です」と名乗り出ようかとも思いましたが、それはあまりにもなれなれしいと躊躇し、日を改めてこの手紙を書かせていただきました。

 末筆ながら、秋村様の歌手としての御健闘をお祈りします。
                                                         春日勝

*******

 それを読んだ私は、「そうか、そういうことだったのか」と、驚きのあとの納得の表情になっていた。
 20年前の春に、歌がすごく上手な新人サラリーマンに会ったときのことは、以前に「歌のうまい男」の章で書かせていただいたが、その歌声はいつになっても私の耳に残っていたものの、なんという名前の人だったかについてまでは、多忙の生活の中、思い出せなくなっていた。
 そのため、手紙の差出人の『春日勝』という文字を見てもピンとこなかったのであるが、中身の文章を読んでやっと、声と名前が一致したのであった。

 なお、キャンペーンの時に売られた私のCDの歌詞カードには、「ファンレターの宛先」として唱道興業の事務所の住所が書かれており、CDを買った勝さんもそれを読んで手紙を送ったのであろう。

 ともあれ、デビュー後の歌手・秋村稔に来た最初のファンレターが、かつての流しの頃の私を記憶の底から地上へと呼び戻すことになったのは事実で、キャンペーンのさなかの大きな励みとなったのであった。


「往復書簡」

 私のことを覚えていてくれたのか──
 春日勝さんからの手紙を読んで、その感慨を抱いたが、それならば私のほうからもと、勝さんに伝えたいことは多々あった。
 
 とはいえ、デビュー後の歌手という立場からくる制約もいろいろと存在するであろうことは認識していた。
 例えば、私の息子の進について、「故人となっている兄夫婦の子供」という、事実とまったく異なる設定にしてしまったことは既に述べたが、そういう“捏造”と言ってしまえばそれまでの要素を身辺に持たざるを得なかったのも、これからいわゆる「一般人」とは異なる、プロ歌手という職につくためには仕方ないことだと覚悟を決めていた。
 そのため、勝さんへ返事を書く前に、とりあえずマネージャーの大月豪に手紙を見せて、アドバイスをもらおうと私は考えたのだった。

 「そうか、あの人、春日勝さんっていうのか」
 これが、私の報告を受けた豪の一言目であった。
 私と豪が勝さんに出会ってから二十年、私たちふたりは別々の道を歩んできたが、“春日勝”という「名前」はともに忘れてしまっていても、その勝さんの「歌声」は私と豪のそれぞれの耳の中で生き続けてきたというわけである。
 しかしよく考えてみれば、勝さんから来た封筒を私に渡す時、もし豪が「春日勝」という差出人の表記にピンときていたとしたら、なにかしら流しの頃の思い出話をする可能性が高くなるはずで、それをただ「ファンレターのようだぞ」としか言わなかったこと自体が、豪が勝さんの名前を忘れていたことを示す証拠だったともいえる。

 そして、手紙の返事をどう書くかについては、豪は「あまり気にすることはない。おまえの判断で、書いていいことかどうか考えればいいんじゃないか」と私に言ったのだが、方向としては「あくまで私信なのだから」ということでそういう答えが出たのだろうと思う。
 結局返事は、その豪からのアドバイスを聞いた翌々日ごろまでに、思わぬ形で再会できたことや、CDを買ってもらえたことの嬉しさなどを軸に文章をまとめ、便箋2枚ほどを勝さんにあてて送ることができた。

 それから一週間ほどした、8月も終わろうかという日、豪の右手が封筒を携えているのを私はまた目にした。
 「今度も春日さんからのようだぞ」
 そう豪が言うのを聞いて、その「返事の返事」の手紙を受け取った私だったが、そのあとも私と勝さんの間で郵便によるやりとりが続くことになり、あくまで私信であるのは承知の上で、内容をここで少々書かせていただくことにする。

 ただ、具体的な中身に入る前にひとつ触れておきたいのが、勝さんと私とでは手紙の文章量がだいぶ違っていたことである。
 私のほうは一回につき便箋2枚ぐらいが精一杯であるのに対し、勝さんの書くものはその2倍か3倍くらいはいつもあった。
 その差がどこからくるのか考えてみたこともあったが、私のほうに歌手という人目につく職業柄、書くのを控えたほうがよさそうな部分があったことや、中卒の私と大卒の勝さんでは文章力や語彙力にだいぶ差があるのかもしれないということが心の中で挙がっているのに気付いた。
 そうしたことから、往復した手紙の内容という点では、大部分が勝さんに関することであり、私のほうはそれに相槌を打つ程度にとどまっていたと極論もできる。
 よって、この往復書簡の内容について触れるのは、ほとんど勝さんの書いた文章だけを要約してとりあげるのに等しいのだが、勝さんのプライベートな話に関しては、掘り下げ方を十分に注意したうえで、ここに紹介させていただくことにする。

 前置きが長くなったが、勝さんの話は全体として、私や豪と出会ったあとの、会社員としての履歴を中心に綴られていた。
 まず、新入社員の頃は仕事を覚えることに目が回るほど忙しかったというような、一般的なことから話は始まっていたが、それをこなして入社二年目になってから、休日に音楽教室に通うようになったという。
 「大学で本格的にやっていた歌への未練は、たとえサラリーマンとして忙しくとも断ち切れなかった」と勝さんは手紙の中で述懐しているのだが、その音楽教室の講師である年上の女性に対して、勝さんの中で恋心が芽生えた。
 そして、「駄目でもともと」で彼女にプロポーズしたところ、あっさりと受け入れられ、交際から結婚へとつながり、のちに息子も生まれたのであった。
 
 その息子もこの1995年の春に高校に入学しました、と勝さんは書いているが、学校の名前は天河大学緑が丘高校で、それは私の息子の進と同じであった。
 となると、私と勝さんのそれぞれの息子が同級生として学校で顔を合わせている可能性も感じられたのだが、勝さんにその話をするのは思いとどまった。
 それは、歌手・秋村稔のプロフィールとしては、「独身で、子供はいない」とするのが所属事務所である唱道興業の方針であり、私信とはいえ他人に真実を明かしてしまっていいのだろうか、という考えからくるものであった。
 まさに、前述した「歌手という立場からの制約」にあたる事象なわけだが、結局手紙の中においては、言ってしまいたい感情を我慢して抑え切り、文章にはしなかったのであった。

 そこに歯がゆさもあったのは事実だが、外部に安易に事実を漏らさないという、芸能人としての職業意識を持たなければならないことも、自分なりにこの書簡の件から意識し学べたと私は思ったものであった。


「緑が丘のマイホーム」

 「稔がここに来てから、もうすぐ半年になるんだな」
 大月豪が私にそう言ったのは、1995年のカレンダーが9月に変わってすぐの日のことだった。
 その年の3月半ば、福岡の中学の卒業式を終えた息子の進とともに私は羽田空港に降り立ち、三鷹の豪の家に上がってそれからずっと同居していたのだから、来てから半年になろうとしていたのは事実であった。

 「そうえいばそうだな。けど、それが何か?」
 聞き返した私に対して、あたかも用意していたような口調で豪は言った。
 「いや、そのことなんだけど、俺のところにいて、なにか肩身が狭い思いをしていないかな、と思ってね」
 それに対して、そんな気持ちが全くないと答えたら実際のところ嘘になるのだが、そういったことへの説明のため、新人歌手という立場におかれていた私の身辺の状況を少々お話しさせていただこうと思う。

 豪の家に住み始めて間もないころ、私は唱道興業との雇用契約を豪の手引きで結んだ。
 契約年数など、いくつかの条項があった中で、当然給料に関する内容も含まれていたが、その額は新人としてはかなり高いものであったと後になってわかった。
 そうなった理由はというと、豪いわく「話をつけるための交渉は結構大変だった」とのことで、具体的には私の年齢が四十近かったことや、息子もひとりいることなどを材料として粘り強く押しまくったのが功を奏したらしく、そのような裏側があったことで、最終的に私にとって好条件での契約にこぎつけることが可能になったわけである。

 さて、そのような経緯をもって、4月より唱道興業からの給料が私のもとに入ってきていたのだが、豪の家に住んでいながら、家賃や食費などは同居の身にかかわらず請求されることはなく、小遣いを進にいくらか渡していたうえでも私自身は相当な貯金をすることができていた。
 
 そこへきて、豪の「肩身が狭くないか」との質問が何を意味しているのかと思っていると、「せっかく結構な給料があるのだから、この家を離れてどこかに移り住んではどうか」との話の続きがあったのだった。
 「それじゃ、どこかアパートでも借りようかな」と私が言ったところ、豪はこれまた準備をして待ち構えていたように「いや、実は、いい一軒家の物件を見つけていたんでね」と、私からすれば驚いてしまうような話を出してきた。

 その先は手順がとんとん拍子に進んでいき、10月半ばには新居に進とともに腰をおろすことになったのだが、場所はどんな基準で決まったのか。

 4月から進が通っていた学校は、既述のとおり天河大学緑が丘高校で、その名にあるように目黒区の緑が丘に所在しているが、そこから近い物件ということで豪が見つけてきたという。
 そのことに関して、豪は「『孟母三遷の教え』ってのがあるんでね」と話していたが、中国の故事であるそれは有名なので御存知かと思う。
 孟子の母は、最初は墓地の近くに住んでいたが、その時は息子が葬式の真似ばかりするので、これではいけないと他に移り住んだものの、今度は市場が近いことから息子は商売ごっこをするようになり、これまたよくないと思い、学校の近くに居を構えたことで、ようやく息子は勉強に打ち込むようになり、のちに孟子として大成した──という、教育に関する故事なのだが、豪はそれを持ち出してきたのであった。

 さらにその緑が丘の新居について特筆すべきことは、賃貸ではなくローンでの購入である点で、さすがに私も「なんでそんなことができたんだ?」と豪に聞かずにはおれなかったのだが、「何のことはない、俺のあの家を担保にしたんだよ」というのが答えであった。
 つまり、住宅ローンの保証人を豪自身が請け負ったわけなのだが、それだと私がもしローンを払えなくなった場合、豪も自宅を手放さなくてはならない。
 もしそうなってしまったら、との私の問いには、豪は「心配すんなよ、その時にゃ、また流しの時みたいにふたりでアパートで暮らそうや」と、まったく臆することのない構えで答えたのだが、確かに私の流しの歌手時代のはじめは、豪の四畳半のアパートで同居していたのだから、なんとかなるという心強さを感じたものであった。

 とはいえ、家のローンをこれから毎月払っていくとなると、いかに新人としては高い給料であろうとも、自由に使える金額は少なくなってしまう。そのことから進には、「小遣いは減ってしまうかもしれないが…」と言わざるを得なかったのだが、進はあわてることなく、「じゃ、僕はバイトをするよ」と明快な口調で返し、その言葉どおりに学校から程近い自由が丘の飲食店でのアルバイトを始めたのであった。

 「ヒット曲を出せば、返済を早めることもできるんだから、頑張れよ」という豪の言葉を胸に、当時築10年だった、さして大きくはない家の前で、歌手としての奮闘を心に誓った私であった。


「春日家の家長」

 「まあ、そう緊張しないで、気楽にいきましょう」
 その声は大きくはなくても、きわめて明瞭にして、なおかつ慈母のごとき癒しの力を持ち合わせたものであった。
 
 私が新宿で流しの歌手をしていた時に出会ったサラリーマンの春日勝さんとは、私のCDデビューがきっかけで20年ぶりの再会を果たして以降、手紙でのやりとりが続いていたが、勝さんはその中で、御自身の妻子についての話も書いていた。
 勝さんの奥様が音楽教室の講師であることは、往復書簡の中で述べられていたのだが、「ぜひ稔さんには私の妻に会っていただきたい」との旨を勝さんから伝えられ、1995年の秋からの住まいとなっていた緑が丘の自宅にお招きすることになったのであった。

 その春日緑さんと、応接間でふたり向かい合っていたのが冒頭の場面なのだが、緑さんに「緊張しないで」と言われたように、私はいささか硬くなっていた。
 それがなぜかというと、当時独身の男であった私が、文通するぐらいの親しさをもっていたとはいえあくまで他人様である男性の、その妻とふたりきりになっていたからなのは当然であり、季節が冬を迎えていたことから、「これではまるで『さざんかの宿』の歌のようではないか」と考えてしまっていたのであった。

 「あなた、今おいくつ?」
 そう切り出してきたのは緑さんのほうであった。
 「えーと、はい、今年で39になりました」と私がまだ硬さを残してぎこちなく言うと、「そう、私とはちょうど10違うのね」というのが、緑さんの口から出てきた言葉だった。
 十歳違いとはいっても、夫の勝さんが私との往復書簡の中で、今年から高校生になった息子がいるという話をしていたことから、緑さんが私より10若い29歳と言うのはありえない、よって私の十歳上の49歳ということなのだろうとは、すぐに察しがついたのであった。

 そのうえで改めて緑さんのことを見つめてみると、来年で五十歳になるとは思えないような若さがあることが実感として湧いてきた。
 緑さんの背丈は見たところ、150センチあるかないかぐらいの小柄な人で、顔つきとしても童顔というタイプだったのが若い印象を私に与えていたのかもしれないが、なにより顔の肌につやがあることや、声も年齢を感じさせない張りをもっていたことなどが、緑さんを私の目をして若く思わしめた要素ということになるのだなと考えたものであった。

 その年齢のことが突破口となり、話は緑さんの自己紹介的な内容に移っていった。
 「夫からお聞きになっているかもしれないことだけど…」と、私と勝さんの間で往復書簡があったことを踏まえた切り出し方であったが、緑さんは御自身の経歴について話しはじめ、それを大まかにまとめていくと次のようになる。

 ──都内の音大を卒業した私は、錦糸町の自宅マンションで音楽教室を開講したのだが、生徒の中に新人のサラリーマンがいて、彼はもともとかなり歌唱力があるのにもかかわらず、歌について人一倍ひたむきで熱心だった。その姿勢に私は惹かれ、彼が私より6歳年下という点も承知のうえで結婚に至った。子育てによるブランクの期間はあったが、目途がついてから場所を渋谷に移して教室を再会し、いまも講師をしている──

 その話の大まかな概要には、ある程度は勝さんとの手紙のやりとりで知っていた内容も含まれていたのだが、視点が反対側に入れ替わっていたこともあり、微妙な差異があったことは興味深かった。

 「ところで稔さん、甥御さんが今年からうちの息子と同じ高校に入られたそうで…」
 それを緑さんの口から言われた時、私はどきりとし、困惑した。
 勝さんと私との往復書簡の中で、春日夫妻の間に高校一年生のひとり息子がいて、名前を治ということは知っていたのだが、その高校が天河大学緑が丘高であるとわかっても、「私の息子もそこに今年から入った」とは私は明かしはせず、話題に出すことなく手紙のやりとりを続けていたのであった。

 ではなぜ、私が言いもしていないことを緑さんが知っているのかと、どうしても聞きたくて私が身を乗り出したところ、緑さんは説明をしてくれた。
 
 8月に勝さんが銀座のキャンペーン会場で私のCDを買って帰ったあと、妻の緑さんと息子の治にも見せて一家で聴いたのだが、夏休みが終わったあとに治が「これ、ちょっと借りるよ。学校に持っていくんだ」と言ってきたという。
 数日して治は「やっぱり、そうだった」と両親に話したのだが、何がやっぱりなのかというと、次のようなことだった。
 治のクラスに、そのCDの歌手名「秋村稔」と同姓の男子生徒がおり、治は「もしかしたら…」と考えたらしく、CDを「秋村進」に見せて、「これ、お前のお父さんか」と問いただしたとのことだった。
 聞かれた進は、「ああ、それは僕の父さんじゃなくて、叔父だよ」と、私のデビューにあたって作ってあった公式設定のもとに答えたのだが、ともあれ、歌手・秋村稔の身内がクラスメイトにいたという点で、治の推理は当たっていたのであった。

 「すいません、実は甥ではなくて、息子なんです」
 そう私は緑さんに謝った。
 「えっ、そうなの?」と緑さんにも少し戸惑った様子がうかがえたが、それが歌手としての私の表向きのプロフィールになっているいきさつを話したところ、納得してくれたようであった。
 私は勝さんに対しては、進のことは話題に出さなかったものの、それは別に嘘を言ったわけではないと考えていた。そのことがあって、緑さんにも事実と異なる話はしたくないと思ったし、立派な大人である以上、秘密として口外しないでいただけるであろうと思っての私なりの判断であった。

 ──つまるところ、勝さんの音楽の師匠が緑さんであるから、春日家では緑さんが家長のようになっているんだろうな、それなら私のところに緑さんが行くことを勝さんの考えだけで止めたりはせず、むしろ歌手と音楽講師という、ミュージックのプロ同士の理解を深める機会をと思って、ふたりを会わせたのだな──と、緑さんが帰ってひとりになった応接間で私は考えていたのであった。


「自主制作盤への楽曲提供」

 「稔、おまえたしか、もう1曲作ってたよな」
 大月豪が私の緑が丘の家に来てそう聞いてきたのは、1996年の4月の初頭のことだった。

 『東京の雪』と『ふたたび…東京』が私のデビューCDに収録された2曲なのだが、企画に際して私が作った歌は、両曲を含め、もともと3曲だった。
 結果的に不採用になった曲が『忘れえぬ街』であったことは、CD制作について話した際に少し触れたが、豪が言う「もう1曲」というのはそれを指していたのだった。

 「ああ、あの『忘れえぬ街』のことか。それがどうしたと」
 私のその言い方は、多少無愛想に豪には聞こえてしまったかもしれないが、豪はそれをは特に気にはしていない様子で答えた。
 「実はだな、稔、あの歌を使わせてほしいって話が来てるんだ」
 「なんだって、『忘れえぬ街』をか。で、誰が歌うかとか、テイトレコードからどんな企画があがってきたのか、豪」
 「いや、それがだな、話を持ってきたのは、あの春日緑さんなんだ」

 前章で、緑さんを私の家にお招きして、ともに一日を過ごしたことを書いたが、もちろんそれが私のマネージャーである豪の了承あっての行動だったのは言うまでもない。
 私がもし何らかの問題あるふるまいをし、それが表沙汰にでもなれば、責任は私自身だけではなく豪にも及んでしまうのだから、私の行動について多分の管理をする必要が豪にはあり、したがってあの一件についても、単に春日勝さんが私に「妻と会ってほしい」と言ったからというだけではもちろんなく、豪と緑さんの間でそれなりの話し合いをしたうえで、対面がかなったというのが実際のところと私は伝え聞いている。

 そのため、私に対する外部からの要望は、豪を通じてこちらに伝わるのであるが、緑さんはどんな意図をもって、私の作詞・作曲した『忘れえぬ街』を所望しているのか、それを豪に聞かずにはいられなかった。

 私の問いに対して、豪は言った。
 「緑さんの息子で、治くんっているだろ。おまえと会ったときそのことは緑さんは話したって言っていたよ。で、その治くんがCDを出すことになって、おまえが作った歌を歌いたがっているらしいんだ」

 確かに治のことは緑さんの話の中に出てきたし、私の息子の進も、治に『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲入りCDを学校で見せられ、これがおまえの父親かと聞かれたという話を私にしていた。
 とはいえ、その治は天河緑が丘高の一生徒にすぎず、特にCDを出すほどの音楽活動を学校で表立ってやっていたとは、私は進からは別段聞いていない。

 それについては、豪は次のように私に話した。
 「治くんは、母親が音楽講師、父親は大学時代にコーラス部のメインボーカルだっただけあって、歌については家庭でもかなり本格的に訓練されているらしいんだ。だけど勉強のほうは、緑が丘高には何とかぎりぎりで入れたようで、成績もあまりよくないらしく、緑さんは奮起を促すため、『定期試験で上位の点をとったらCDを出してやる』って治くんに言ったんだと。で、一年生の三学期の期末テストでようやく治くんはそれを達成し、緑さんは約束どおり、治くんのCDを作ってやることになったんだ」

 豪はさらに、なぜ緑さんが治のテストの褒美にCD制作の話を持ち出したのかについても、次のように私に説明した。
 「緑さんって、音楽教室の講師を仕事にしているけど、そういうところの生徒さんで、歌が上達してくると、CDを出したいと希望する人がよくいるらしいいんだ。もちろんCDとはいっても市販ものではなく、歌う人が費用を払う自主制作盤なんだけど、何度かそのプロデュースに、緑さんも吹き込みの指導や手続きなどを中心に関わったことがあるわけで、そのノウハウを持っていることから、治くんにも話を持ちかけたんじゃないかな。で、CDで聴いた『秋村稔』の歌を歌いたいと、治くんが緑さんに言ってきたと」

 豪のそれらの話で、事の経緯はだいたいわかったが、ここで私のほうから付け加えて説明させていただくと、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲は、すでにプロ歌手として私がCDを出し、その原盤も作られて存在している以上、制作スタッフや各方面での権利者の手前もあり、作者の私ひとりが許可しただけではカバーとして別の歌い手で出すことはできず、それならば、まだ音源制作の企画が立ち上がっていない『忘れえぬ街』を使うほうがよさそうだと豪は判断したのである。

 結果的には、その『忘れえぬ街』のCD制作には、私は単に楽曲提供者としてのみ関わることになり、それ以外のことは、豪と緑さんほかスタッフの方々に全てお任せしたのであるが、当時の私はデビューCDのキャンペーンの仕事もあったし、歌を作ったり唄えたりはできても、人様を指導する腕はなかったのだから、それなら音楽を人に教えるプロである緑さんや、マネージャーとして私が全幅の信頼をおいている豪たちに下駄を預けようと思ったのも、当然のなりゆきであった。

 なお、それでどんな自主制作CDができたかと興味を持たれた方がいらっしゃるかもしれないが、そのCD自体が市販されたのもではないため、説明するにしても多少長くなってしまいそうなことから、章を改めていつかお話ししようと思う。


「ドキュメンタリーでのテレビデビュー」
 
 私のCDデビューの翌年にあたる1996年は、前章で書いたように、自主制作CDへの曲の提供などもしたのであるが、そういったことはあくまで時間の空きを利用して行ったものであり、スケジュールは依然、新人歌手としてのキャンペーンに追われていたのが実際のところである。
 
 前年の1995年の7月31日、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲でデビューを果たした私だったが、その年の残り5か月の間は、キャンペーンの会場はもっぱら東京都内であった。
 初日が、流しの歌手だった時の仕事場であった新宿で、以降は春日勝さんの勤務先のある銀座など、東京23区内各所に出向いて行われ、年の暮れまでにはさらに郊外の市部なども歌い場所になってきていた。

 そして翌1996年の正月明け、飛行機で福岡まで飛んでそこで歌ったのだが、福岡といえば私にとっては、過去に全国12の年を転々としたときの最後の土地であり、大月豪との再会を果たした場所でもあるのだから、縁は深いものがあった。
 その福岡が皮切りとなって、あちこちの地方都市も私のキャンペーン会場として設定されていったが、件の12都市のうちで唯一、対象から外れたのは、私の郊外の青森であった。
 なぜその青森には行かなかったかというと、まずひとつ挙がるのが、「故郷に錦を飾りたい」という、私の感情の要素なのであった。
 もちろん、CDデビューを果たしたのだから胸を張って帰郷ができるではないか、と思われる方もいらっしゃるだろうが、そのことで私が考えていたのは、本当の意味で凱旋できるのはあくまで、歌がヒットしてある程度売れた時こそで、まだ時期尚早の感が1996年の前半では私の心の中に存在していた。

 結局その1996年は、春から夏そして秋という季節の移り変わりを私は全国各地で肌に感じていたのだが、10月になって間もないころ、豪が私にこう言ってきた。
 「稔、テレビに出ないか?」

 いきなりのことであったため、その豪の言葉に私は面食らったのだが、テレビ出演とはどういうことなのか聞きたくなり、私は言葉を返した。
 「テレビ? 歌番組に出してもらえるのか?」
 すると豪は首を横に振って、私との間に次のような会話が続くことになった。

 「いや、コンサート番組というんじゃなくて、ドキュメンタリーなんだよ」
 「えっ、ドキュメンタリーっていうと、俺のことをテレビで紹介するってことか?」
 「まあそうだな。キャンペーン中の新人歌手ということを中心に据えて、今までのおまえの生き方を追っていくんだ」
 「じゃあ、俺はそのドキュメンタリー番組で、何かしなければならないことがあるのか?」
 「うん、それなんだが、制作を仕切るのはテレビ局のスタッフで、俺もマネージャーとして協力することになってるから、むこうからの指示に従ってやっていけばいいんだ。心配しなくていいよ」

 そういう豪の言葉を信じて、番組制作に協力した私だったが、およそふた月を経て、その私の姿がテレビに映ることになり、そのときカレンダーは12枚目を残すのみとなっていた。

 そして、どんな番組となったか、という肝心なところについては、だいたい次のように説明できる。

 ──1995年7月31日、39歳にしてデビューを果たした歌手がいた。その名は秋村稔といい、時代が平成になって間もないころから、中卒で新宿の流しをしていた経験を生かして日本全国の都市を歌ってまわり、12番目の福岡で偶然再会した大月豪という唱道興業のマネージャーの力添えでデビューを果たし、いまは目黒区の緑が丘に居を構えてキャンペーンを続けている──

 そのような筋立てで番組が作られたのであるが、そこにおける私とはあくまで、歌手としての表向きの設定のもとにあり、事実と若干の差異も生じていて、「緑が丘の自宅に高校生の甥がいる」という話や、「いまに至るまでずっと独身できていた」などの説明、そして「名古屋の次は広島に住んだ」などがその例である。

 そして番組が放送されたのち、私をとりまく環境にも変化が生じることになり、なかでも特記すべきものとして、緑が丘の私の家を訪れる人が増えてきたというのがある。
 もともと、私についてのそのドキュメンタリーの中で、東急大井町線の緑が丘駅から秋村宅までの道順が、断片的とはいえ紹介されており、番組を見た人にとっては、たどり着くのはさして難しくなさそうだと私は思ったものであった。
 
 今ならそういった自宅の所在地などは、個人情報として守られるべきものと捉えられるだろうが、90年代半ばごろの時点では、まだインターネットなどが普及していなかったという面を含め、プライバシーに関して比較的緩やかだったことが番組制作の現場にあったことは確かだろう。
 その例として、ある人はこんな話を私にしてきた。
 「プロ野球の選手名鑑にも、以前は選手の自宅の住所まで載っていたんだ」という内容で、実際、平成元年の名鑑を見せてもらったところ、その通りのつくりになっていた。
 それゆえ私としても、自宅の場所が世間に知られても、たいして気にするはないだろうなと考えており、実際これといったトラブルも今日まで起きていないのであった。

 ともあれ、テレビに自分の姿が映るという経験を通じて、人に見られることを常に意識して歌手活動をしなくてはならないと、肝に銘じた私なのであった。


「春日治の弟子入り」

 応接間のふたりの間に、しばし沈黙が走った。
 1997年の3月終わりごろのその日、私は緑が丘の自宅にひとりの少年を招き入れていた。
 平日であったが、高校は春休みだったので彼は来れた。
 その少年とは、春日勝・緑夫妻の息子の、春日治であった。

 前々章で、緑さんが治の自主制作CDをプロデュースしたことについて少々触れたが、その現物がいま私の手許にあるので、もう少し詳しくCDの中身をここで紹介させていただこうと思う。

 楽曲は既述のとおり、私の作詞・作曲した『忘れえぬ街』で、その歌入りとカラオケの2トラックのみCDには収録されているのだが、歌い手として名前が出ているのは、春日治ひとりだけではない。
 治のほかに、私の息子の「秋村進」の名もあり、加えて「冬野巴」「夏木幸綱」と、あわせて4人おり、ユニット名は「TOYS」で“トイズ”と読むものがつけられていたが、これは4人の下の名前を「ともえ」「おさむ」「ゆきつな」「すすむ」と並べ、それらの最初の音をとったものである。
 また、伴奏は「天河大学付属緑が丘高校・ブラスバンド部」とあり、そのメンバーの氏名に加え顔写真も、トイズの4人と同様に載せられている。
 そして、編曲者として「春日緑」、企画者として「大月豪」という、このCD制作の中心人物である両人の名前も、ちゃんと見ることができるようになっているのだった。

 話を中身の音のほうに移そう。

 歌詞は別掲の通りだが、4行詞が4コーラスという構成で、各コーラスの3行目までが進・治・巴・幸綱のそれぞれのソロで、4行目は4人の合唱となる。
 ただし、最初の3行でも、2行目までが独唱であるのに対し、それに続く、例えば1番でいうと「あれはふるさと 俺らの故郷」の箇所は、バックに他の3人の「アー」という合いの手のコーラスを入れるといった工夫がなされている。

 そして、聴いてみた私の感想についても少々、述べさせていただきたい。

 まず、緑が丘高ブラスバンド部による伴奏のほうであるが、高校の部活の演奏としてはなかなか上出来であるとうかがえる。
 もともと、この『忘れえぬ街』のCD制作においては、伴奏はテイトレコードがスタジオミュージシャンを手配するはずだったのだが、その予定を変更して、緑高ブラバン部が行うことになり、春日緑さんの指導のもとでカラオケを作り上げたのだとは豪から聞いた話で、部員も期待に応えて頑張って成果をあげた様子が、音として私の耳にも伝わってきたものである。

 では、その伴奏に乗せる歌声はどうだったのか。
 こちらは輪をかけて、聴いた私が舌を巻く出来栄えであった。
 ただし、それはハーモニーの作り方がうまいというより、個々の歌唱力が相当なものだったと思ったのであって、実際、何度繰り返して聴いてみてもその印象は変わることがなかった。
 
 春日治・冬野巴・夏木幸綱の3人とは、私は吹き込みの前に初めて顔を合わせて、挨拶も交わしたのだが、その時の会話においても、彼等の声のよさには注目すべきものがあったことを覚えており、のちにレコーディングを終えてCDで聴いた時には、期待にたがわず高レベルの歌唱となって私の耳に届いたものであった。
 その3人に比べると、私の息子の進については、実力面では数段劣っているなというのが正直な感想であるが、もともと私は進を歌手にさせようなどと考えたことがなかったため、あくまで楽しませるつもりで、家では弾き語りをしてやるのにとどまっており、ボイストレーニングなどの特訓めいたことは別段させていなかったのだから、このCDについてもあくまで自主制作にすぎないと考えて、これはこれでよしと思っていたのであった。

 と、『忘れえぬ街』のCDについて大まかに説明させていただいたが、のちに緑さんから聞いたところでは、治は歌ったというだけでなく、制作にいろいろな点で関わったとのことであった。

 まず、本来は緑さんが治に対して、学校の成績の褒美としてCDを出すと言っていたのだが、他に3人加わって、4人のコーラスとなったのは、治の発案による人員補強であったという。
 進については、治の父親の勝さんと私が知り合いであることに端を発しているのだろうが、あとの2人は、その実力において、緑高のコーラス部に入らなかったのが不思議だったことから、治がなかば「発掘」に近い形で連れてきたといえそうである。

 また、伴奏についても、治は自校のブラバン部を引き入れたのだが、部でCDを出したいという案があったのを治が聞きつけて話を進め、母親の緑さんに紹介したということで、これまた手回しのよさが感じとれる事象である。

 これらのことから、治の交渉能力の高さは私のほうにも伝わってきていたのだが、高校で進たちとともに2年の3学区を終えたころ、緑さんから私に話があった。
 『忘れえぬ街』を歌った4人のうち、進・巴・幸綱がいずれも大学進学を希望しているのに対し、治だけは「高校を出たら、秋村稔さんの弟子になりたい」と言っているとのことであったが、緑さんや夫の勝さんはそれについて前向きにとらえており、あとは私の意思ひとつで決まるような状況にあるのがわかった。

 私自身は治については、歌唱力はなかなかのものがあり、プロ歌手になれる可能性は十分あると感じていたし、たとえそれがかなわなかったとしても、手際がいいから裏方に回っても食っていけるだろうと思っていた。
 
 そして治を私の自宅に呼んで意志を確かめようとしたのが、この章の冒頭の部分の描写なのだが、「どんなにつらい目にあわせてしまうかわからないし、デビューできる保証だって全くないが、それでもいいのか」と私が言ったあとの治の沈黙を、そこではとりあげた。
 
 その静けさが破られ、「お願いします」との張りのある声が応接間に響き渡った瞬間、“秋村稔の弟子・春日治”が誕生したのであった。


「四年ぶりの三人」

 ここ何章かにわたり、私がCDデビューしたことがきっかけで再会を果たした春日勝さんやその一家の人たちについての話を書いてきたが、同様に歌によって私がふたたび縁をもつことになった相手は、他にもいた。

 話は少しさかのぼるが、デビューからおよそ一年が経った、1996年の8月のことだった。
 キャンペーンで歌う場所が東京を中心として全国の各所へも広がってきた中、ファンレターのほうも勝さん以外からも来る数が少しずつ増えてきたが、その日、その一通の封筒が目にとまった。

 差出人の名前は「光村むつみ」──これは本書『三たび…東京』では既出の名である。
 私がかつて日本全国を転居してまわっていた時の出来事を述べた第4部の、前半と後半の分かれ目で、東京の浅草界隈が舞台となっていたが、そこで初登場している。
 私と息子の進と、そしてむつみの三人で、浅草演芸ホールで寄席を見た話があったが、「光村むつみ」の姓名を封筒の裏に見たとき、私の頭の中に即座に顔が浮かんだ。
 歌のうまいサラリーマンがいて、その声ははっきりと覚えているものの、名前はなんといったか忘れていたという春日勝さんの時の場合とは対照的ではあるが、むつみと会ったのが1992年の春のことで、まだそれから四年しか経っていなかったのだから、名前と顔が一致するのもそれなりに妥当ではあったと、私などは思っている。

 さて、手紙の文章のほうに話を移すが、達筆の楷書でたいへん見やすい文字のため、すらすと読み進められた中、まず触れられていたのが「有線放送」の話だった。
 そこで綴られている出来事は、むつみ本人というより、その父親を中心として展開しているのだが、ストーリーを簡潔に言うと次のようになる。

 ──むつみの父が、浅草のある店に飲みに行った時、『ふたたび…東京』という歌が店の中に流れているのを耳にし、その歌い手の名前が「秋村稔」ということもそこで知った。そして家に帰ってむつみにその話をすると、「四年前、うちに来たあの人でしょ」と説明があった──

 私が『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲入りCDをリリースした際、それらの歌をキャンペーンで歌うだけでなく、有線放送局などにも持参して、登録してもらえるように売り込みをしており、その結果受け入れられた局のひとつが浅草界隈にあったことが、前提としてまず挙げられることであった。
 そして登録後は、その歌を実際にかけてもらえるように電話リクエストをする必要があったが、私はキャンペーンのあい間で時間があるときは、頻繁に自宅・事務所・公衆電話などから相当数プッシュしており、それが一定の効果をあげたためか有線で流れることになって、むつみの父親の耳にもたまたまとまったというわけである。

 光村父娘が私たち秋村親子のことを覚えていてくれたのが手紙でわかって嬉しく感じられたが、それからふた月ほど経った1996年の10月、むつみが緑が丘の私の家に来ることになった。
 日付は進やむつみが高校生であることを配慮して、日曜日を面会日にしたのだが、むつみがインターホンを鳴らしたのはその日の午前11時ごろであった。

 そこで四年ぶりに目にしたむつみの姿は、私には以前にもまして眩しく見えた。
 むつみは中学1年だった頃においても、落ち着いた雰囲気をもっていて大人びた感じがしたが、再会してみると、それに磨きがかかったとでもいおうか、高校生に見える中学生だったのが今度は女子大生に見える高校生という表現が合う気がしたものであった。
 
 そのむつみを応接間に通して、私と進との三人での会話がはじまったが、まずは私が、東京下町をあとにしてからCDデビューに至るまでの経緯をむつみに明かすことが切り口となった。
 内容はほぼ、ここまでこの『三たび…東京』で書いてきたようなことをダイジェスト形式にしたものといっていいが、それを聞いているむつみが身を乗り出してくるのが二・三度にとどまらなかったことから、話の中にあるCD制作のくだりなど、かなりの興味を示しているのがこちらにも伝わってきた。

 そして「私のほうだけど…」と、むつみが話す局面に切り替わったが、高校が「灰原女子高」であることがその導入で出てきた。
 正式な校名を「私立灰原女子高等学校」というそこは、あとで調べてみたところ、東京の女子高の中でトップクラスの偏差値と進学実績をもっており、やはりむつみは雰囲気のとおりに相当頭がいいんだなと私などは思ったもので、中学一年の一学期だけ同じクラスだった進の口からのちに語られたいくつかのエピソードもその裏付けとして説得力をもつものがあった。
 
 そこから続いたむつみの話はさらに、高校の落語研究会で活動していることにも及んだが、中学一年の時に私と進との三人で浅草演芸ホールで観た寄席の思い出も詳しく語られ、私の記憶の底に眠っていた細かい事柄を引き出してくるだけの話の力量を感じるとともに、むつみ自身の行動の原動力ともなっている出来事なのだなと納得がいったものである。
 
 その後むつみは何度か私の家に来ることがあり、進ともそれなりの付き合いをしていたようであったが、これから高校三年になるという1997年の3月下旬、「受験勉強に専念します。大学に合格したら、その報告をさせていただきます」との言葉を最後に、私の家にはぱたりと姿を見せなくなった。
 けじめをつけるという点においての潔さもまた、私の目からのイメージ通りに持ち合わせているのだなと、玄関から出て行ったむつみの後ろ姿を思い出すたび感じていた、あの頃の私であった。


「8年ぶりの青森」

 大学入試の受験勉強への専念を理由に、光村むつみは私たち親子とは距離を置くようになったが、そのむつみと同じく高校三年になった息子の進のほうは、進路をどう考えていたのか。
 
 進のいた天河大緑が丘高校は、その名前のとおり天河大学の付属校であるが、一学年の生徒約200人のうち、推薦で天河大に進める人数は、当時はおよそ50人ぐらいであった。
 ただし、成績が上位で推薦に足るような生徒であっても、天河大より偏差値が高い外部の大学を受験するような場合もあり、進や春日治たちと一緒に自主制作CDに参加した夏木幸綱などはその選択をしたひとりで、第一志望は東大であったという。
 また、スポーツの面においても、天河大より充実している強豪校は多数あり、CD参加者のもうひとりであった冬野巴は、水泳部への在籍を含め、女子の運動部をいくつも助っ人的に掛け持ちしていた実績があったことから、やはり外部受験を考えていたのだった。

 そんな中にあって、当の進はというと、緑が丘高の一年生だった頃からその天河大への進学を志望していることを私にも話しており、入学して始めたアルバイトを続けるかたわら、勉強のほうにも励んでいた様子がみられ、入学当初は学年のほぼ中位であった成績をじわじわと伸ばしていき、二年の三学期の時点で、推薦をあらかた確実に取れるぐらいのところまで上がってきていたのだった。
 
 そのように進は、目標を天河大への推薦入学に定めて着実に歩を進めていったのだが、いわゆる一般入試のための受験勉強はしなくてよかったせいか、高校三年生としてはだいぶ学業面でゆとりがあった様子がみられた。
 ただ、それはそれで別に構わなかったものの、進の三年次に私のほうが驚かされた事象はあり、そのひとつの、進の高校最後の夏休みの様子をこの場で少々書かせていただこうと思う。

 7月の終わりごろのある日、進は特にどこへとは私に言うことなく、数日のあいだ出かけていったことがあった。
 そして進が帰ってきたとき、暦は8月へと変わっていたのだが、一日か二日いただけで、また姿を何日か見なくなるなど、とにかく緑が丘の家にはあまり居つかない様子がみられた。
 
 私のほうでも、進の様子が何やらおかしいと思い始めてきていたので、「進、ここのところよく出かけているようだが、どうしたんだ」と聞いてみたところ、進は一枚の紙片を出してきた。
 見ると、そこには「会いたい」とだけ書いている。
 それが何のことなのか、私にはさっぱりわからなかったのだが、進によると、次のようなことらしい。

 ──今年の春休みのある日、自宅の郵便受けにこれが入っていた。
 消印や差出人の名前などが全く書かれていない、不思議な手紙だったが、誰が入れたのかと考えてみたところ、小学校・中学校の時分に全国を転校してまわっていた頃に、その心当たりとなる出逢いが各地であった。
 青森で間借りしていた酒屋の安達妙子や、金沢の兼六園にいた保坂美由紀らを含め、考えられる相手は12人いる。
 そこで、高校最後の夏休みを使って、もう一度会ってみて、誰が出したのか、そして何のためなのかの真意を確かめたい──

 私は黙って聞いていたが、進の言っていることがにわかには信じられず、疑問ばかりが浮かんできた。
 なぜ、そんな手紙だけでそこまで想像がふくらむのか、第一、差出人の名前がないのを怪しまないのか、それにわざわざ出かけていかなくても電話で聞いてみればすむことなのではないか、と。
 
 ただ、各地で出逢いがあったという点については、一応納得がいった。
 私たち親子が全国をまわっていたころ、私が進のことを見ていると、どこの土地にいても、そのたび違う女の子と一緒にいる場面がちらちらとこちらの目に入ってきており、それなりの付き合いはあるのだなと感じていた。
 
 結局のところ、自分でバイトした金で出かけるのなら別にかまわないだろうと私は思い、「あまり無理はするなよ」とだけ言って、あとは進自身の判断に任せることにしたのだった。

 そうして夏休みの間に昔いたあちこちの土地を再訪していた進であったが、その様子を見ていて私も思うことがあった。
 「そろそろ俺も、故郷の青森へ行ってみようか…」

 進が「青森で安達家の人たちと会ってきた」と私に話してきたことがあり、妙子や母親の満壽美さんらの様子も聞くことができたが、私にとっても思い出深いそういった人達にまた会ってみたいという心が芽生えてきた。
 2年前のデビュー時に出した『東京の雪』『ふたたび…東京』のキャンペーンでは、「青森へ行くのは、成功をおさめてから」という思いから、昔住んだ土地の中でそこだけはあえて避けていたのだが、CDの売り上げのほうは、1996年12月に私のことがテレビのドキュメンタリーで紹介されてから、その効果もあってかだいぶ伸びてきており、「ここらで故郷の人たちに報告を…」との思いも私の心の中にあった。
 その話をマネージャーの大月豪にすると、「そうだな、いつまでも青森を避けていては巡業のスケジュールが組みにくいからな」と、待っていたかのように快諾し、「それじゃ、秋にでも(興業を)打つか」となったのであった。

 そして1997年10月、『秋村稔 帰郷ライブ』と題したイベントの開催で、8年ぶりに私が青森の土を踏むことになった。
 青森駅に着いてホームの階段を上り連絡通路に行くと、窓から白い橋梁が目に入ってきた。
 青森ベイブリッジは、着工から9年経った1994年に完成した総延長1993メートルの橋で、私が青森を去った1989年にはまだ建設途中だったため、全容を目にしたのはむろんこの時が初めてなのだが、 東京のような大都会ならともかく、さして高層建築が多くないこの青森市にあると、際立って巨大なものと感じられたのであった。

 さて、ライブの方であるが、故郷への凱旋などと意識すると「あがって」しまうと思い、あくまで東京や他の各地で開催されたキャンペーンと同じようなものと考えて臨んだところ、それなりの客席の盛り上がりにもかかわらず、緊張せず無難にこなすことができた。

 なお、この時はスケジュールの都合で、ライブ終了後はあまり長くは青森の街にいられなかったが、それでも実家と安達酒店の双方を訪れることはできた。

 実家のほうでは、母がドキュメンタリー番組の制作時に取材を受けたことを話してくれ、かつて青森を出る私に「名を上げるまで、こちらに手紙や電話をよこさないように」と言った件に関しては、あっさり許してくれたようであった。
 その一方、三味線の巡業に出ていてこの時不在だった弘についても、私が青森を離れていた時に結婚したと教えてくれ、家にいたその妻子とも会ったが、私の知らない間にいろいろあったことに驚かされた。

 かたや安達酒店では、満壽美さんが「進くん、来たわよ。立派になったわね。妙子も喜んでたわ」と店先で話してくれ、その気さくさは変わっていないのを感じた。

 どちらでも、会話をした時間は10分かそこらで、挨拶に毛が生えたぐらいのものにすぎなかったが、再会して励ましの言葉をもらうことができ、一応の義理を果たせたと私自身、胸をなでおろしたものであった。

 いずれまたこの青森に来て、みんなと長く語り合いたい──と、秋風の涼しい中を上りの列車に乗り込んだ私であった。


「バーボングラス」

 「おかげさまで、合格しました」
 そのよく通る声を、私はほぼ一年ぶりに聞くことができた。
 時は1998年3月の終わり、東京へ来てから四度目の桜が咲こうとしていた頃のことだった。

 1997年3月の下旬、光村むつみは緑が丘の私の家に来て、大学受験の専念を私と進に伝えたが、それ以来ぴたりと音沙汰がなくなっていた。
 むつみは進とは、1996年の8月に父親が有線放送を聴いたことがきっかけで同年10月の再会へとつながり、それから半年近くの付き合いがあったことになるが、進も翌年4月以降は「むつみとは会っていなかったし、電話もしなかった」とのことであった。

 「ところで、進くんはどうだったの?」
 私の家に来て、応接間で私と進との三人が一堂に会した席で、合格を告げたあとのむつみが、そう話を変えてきた。
 進は「うん、おかげで僕も合格できたよ」と、これが言いたかったという気持がはっきり表れている様子で答えた。
 天河大学への緑が丘高からの推薦枠には、進はそれに足る成績を維持していたゆえの合格であったが、夏休みが終わっても週末に昔いた土地に出かけていたにもかかわらず、推薦合格を果たせたのをみると、本人の「列車やバスの中で教科書を読んでいた」という話も本当だったのかもしれない、と私は思ったものだった。

 そして暦が1998年4月に変わって2週間ほど経った頃、私の家に一通の封筒が届いたのだが、差出人は「光村むつみ」と、本人のそれとすぐわかる達筆の文字で書かれていた。
 手紙の大意は、「この歌詞は私が書きました。よろしければお使いください」とのことで、別の便箋に一篇の歌詞が書かれて同封されていたのだが、これについてはその頃の私の状況を御説明する必要がありそうなので、以下でお話ししようと思う。

 1995年7月に私のデビュー曲として発売された『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲入りCDは、翌1996年の12月のテレビでのドキュメンタリー番組の放送の効果もそれなりにあったのか、1997年の一年間だけでもかなりの売り上げの伸びがみられたと、テイトレコードの関係者から言われたことがあった。
 そしてそれがきっかけとなったのか、テイトレコードの複数の歌手が参加するCDアルバムの企画に関して、私にもお呼びがかかったのだが、もちろん相応に歌手・秋村稔の実力が見込まれたようで嬉しくはあったものの、一方でそれ以上の困惑も私の心の中にあった。

 確かに『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲については、作詞・作曲をして歌唱もした時点において、それなりの自信作ではあったし、のちに売り上げの面でも評価されたといえるのかもしれないが、逆にそれが、「この2曲で出し尽くしてしまった」という懸念を内心感じてしまうようにもなった。
 アルバム企画自体は、1998年2月に私にもマネージャーの大月豪を通して話が来たものであったが、「新曲1曲で、とりあえず好きなように書いてもらってかまわず、もしアルバム内で他曲とイメージが被ってしまったりしても、それはその時に改変を検討すればいい」と言われており、制約自体はあまりなかった。
 そのように歌作りの自由度は高い企画であったゆえ、今考えると条件としてだいぶ恵まれており、それでも作れないのなら、まさに自分自身に実力がないとしか言いようがないのは今でこそわかるのだが、当時は私自身が自分に甘いところがあったと、振り返ってあらためて感じている。

 さて、そうした中で私あてに来たむつみからの手紙であったが、「進くんから、お父上が歌作りでお悩みのこととうかがいましたので」と書かれていたところを見ると、私が家で進に、アルバム企画について少々難航をぼやくような感じで話したのを、進がむつみに会ったか電話したかで伝えたようであった。

 そして肝心の同封の歌詞は、『バーボングラス』の題名で3コーラス構成になっており、1番は次のようなものだった。

   「おでかけですか」「おかえりなさい」
   言ってくれてた あの女今どこに
   ふたりで眺めた 星空が
   今でも変わらぬ マンションで
   ひとりグラスに 注ぐバーボン

 私がそれより前に手がけた『東京の雪』『ふたたび…東京』、そして進や春日治らが合唱した自主制作CDの『忘れえぬ街』などの作曲方法は、まず歌詞を何度も暗唱・音読し、その中で浮かんできたメロディーを五線紙に書き写していくというものだったが、この『バーボングラス』についても、同じ方法をとることにした。
 「おでかけですか」「おかえりなさい」…と何度か読んでいるときに、「そういえば、漫画でこんなセリフが出てきたことがあったな」と思い、「おーでかーけでーすか」と、アニメで記憶のある言い回しをしてみた。
 その瞬間、「これだ!」とひらめき、五線紙を出してキーボードの横に置き、そこに音符を書き込んだのであるが、私が思い浮かべた漫画作品が何であるか、皆様はもうおわかりかもしれない。

 2008年に亡くなった漫画家の赤塚不二夫先生は、いくつもの名作を遺しているが、それらの中でも特に有名なのが『天才バカボン』であることは、衆目の見るところとして一致するものと思われる。
 私自身、中学までの青森にいた頃に、「バカボン」の漫画・アニメは見たことがあるし、上京してからもタイトルに「元祖」が冠された続編がテレビで放映されていたのを覚えているのだが、私の息子の進と同い年のむつみは、どこでその「バカボン」を知ったのか。
 調べてみたところ、1990年の一年間、『平成天才バカボン』が放映されたことや、漫画の文庫版での復刻が1994年になされていたことなどがわかり、それらであれば、むつみが目にしていた可能性があるため、題材として作詞に結びつけることができたのだろうと納得がいったのであった。
 
 作曲のほうは、最初の「おでかけですか」のメロディーが決まってからの続きは、ほとんど読む速さで曲がついてしまったようだったことを覚えているが、1番につけた曲が2番・3番にも違和感なく当てはまるかを見るため、改めて歌詞全体を読むことにしてみた。
 そこで気がついたのは、1番の冒頭で「おでかけですか」だったのが2番では「ばかだばかだと」、3番だと「これでいいのだと」となっているが、いずれも「バカボン」で出てきた、よく知られている言い回しを使っており、そういう遊び心をむつみが持っていることに感心し、「俺ではこうは書けないな」と私は思ったもので、それで最後を「バカボン」をもじった「バーボン」にしているのも、うまくまとめたものだと脱帽させられたのであった。

 「これなら、4月末までの締め切りに間に合いそうだ」と思った私は豪の家に行き、歌詞と楽譜を見せたうえでギターでの弾き語りをしたのだが、豪は「まあ、これでいいだろう。それにしても、詞を書いたのがおまえじゃなくて光村むつみだというのは、なかなか期待がこれから持てそうだな」と、本人の姿かたちを見ていないこともあってか、興味津々の様子がうかがえたものであった。

 『バーボングラス』は、むつみの作詞第一作となり、テイトレコードのCDアルバムへの採用も決まったのだが、私とむつみの間の関わりということで考えると、とても言葉では表現しきれない価値のある作品となるのが、当時はまだ私にはうかがい知れていなかったのだった。


「進の行く道」

 天河大学への推薦入学が決まった進であったが、高校三年の夏休み以降も、昔いた土地を足しげく訪ねていたことについて、父親の私の目から見た様子をもう少し説明させていただこうと思う。

 もともと進が全国各地に足を運んでいたのは、緑が丘の家の郵便受けに入っていた、「会いたい」との書き置きに端を発していたと既に述べた。
 そして、もし書いたのが誰なのか知りたいのであれば、12人の女の子たちにひととおり聞いてみればすむ話ではないのかと私などは思うのだが、進によるとそうはいかなかったらしい。
 もし「違う」と言われたら、気まずくなるかもしれないというのももちろんあったかもしれないが、進が言うには、それにもまして大きい要素は、再会した時の彼女たちの様子だという。
 
 まず、書き置きを残していったひとりは、確かに進への好意を持っていたのだろうが、他はせいぜいひとりかふたりぐらいではないかと進は考えていたらしい。
 それが実際に会ってみたところ、度合いに多少の差はあるとはいえ、12人すべてが進との再会が待ち遠しかったような態度をしており、進のほうも一人たりとも無視するわけにはいかなかった、ということであった。

 そして夏休みが終わり、高校三年の二学期、さらに1998年に入ってもほぼ週末ごとに各地に出向いていた進であったが、3月初日の卒業式がすんで数日したある日、こんなことがあった。
 
 私がマネージャーの大月豪との仕事の打ち合わせをして夕方に帰宅したところ、ジャガイモやニンジンなど、両手の袋にやっと持てるぐらいの量の野菜が置かれているのを目にした。
 家にいた進に、「これ、どうしたんだ」と聞いたところ、そうなったいきさつを説明してきたのだが、状況を再現すると、だいたい次のようになるという。

 ──その日の午前中、自身の恋心の告白をしに行くと意を決して家を出ようとした進であったが、自由が丘駅まで自転車で行こうとしたところ、パンクしていた。
 それで仕方なく足で出向くことにしたのだが、時間的には急がないと電車に間に合わないようだったため、街なかを駆けていった。
 しかしその焦りもあったためか、八百屋の前にさしかかったところでつまづいて転び、その拍子に店頭の陳列棚に突っ込んで、野菜を少なからず路上に散乱させてしまい、売り物にならなくなったそれらを買い取って家まで持って帰ってきた──

 そこまでなら、進がどじだったで終わるのかもしれないのだが、この話には続きとオチがあった。
 進が店の人に謝って野菜を拾い集めていたところ、その八百屋より少し駅寄りの大通りの交差点のほうから、突然物凄い音がした。
 あたりが騒然となる中、それが大型トラックが歩道に突っ込んだもので、幸い怪我人などはいないとわかったのだが、事故現場は進が駅に向かうルート上にあたり、もし転ばずに足止めを食わなかったとしたら、進が巻き込まれていた可能性が高く、命拾いしたと思った進は、野菜の弁償にも素直に応じることができた、とのことであった。

 結局それで出鼻をくじかれた形になった進は、意中への相手への告白も取りやめたらしく、大学に進学してからも相変わらず全国各地へ足を運んでいた様子であったが、いつまでそんな生活を続けるつもりなんだ、と傍から見て私は思うようになってきた。
 そして、7月の進が不在のある日、『バーボングラス』の歌の制作において何度か顔を合わせている、やはり大学生となっていた光村むつみにそのことを話すと、こんな提案をしてきた。
 「進くんを、落語家に弟子入りさせてはどうかしら」

 むつみのその言葉を聞いた私は、しばし二の句がつげなかった。
 もちろん、むつみが落語好きなことは知っている。
 私と進との三人で、浅草の寄席に行った時のこともはっきりと覚えている。
 しかしなぜむつみは、自分がなりたいというのではなく、進を落語家にさせたいのか。

 とりあえず、むつみにその意図を聞くと、「こうでもしないと、進くんの今の生活に区切りをつけられないでしょうし、逆にあれだけの生活が送れるパワーがあるのなら、落語界に入っても十分やっていけると思うわ」ということであったが、もし入門したら大学のほうはどうなるのか。
 それについては、むつみから「大学在学中に入門して、前座生活と両立させて卒業もでき、いまは真打にまで出世しているような噺家さんも実際にいる」と説明があったため、思い切って進を入門させることに決めた。

 まず、むつみの小学校時代の落語クラブの顧問で、この時すでに定年退職していた先生に説明をした。
 この先生は教員時代から落語家の知り合いが多く、むつみの高校進学の際にも相談に乗ってくれたことがあるという人だったが、話を持ちかけてひと月ほどした8月半ば、「弟子をとりたいと言っている師匠がいて、進くんの経歴に興味があるから、そちらがよければいつでも来てほしい話があった」という返答が来たのであった。

 そして当の進は、「うん、やってみる」と入門に前向きの考えであったが、「その前に、父さんに頼みがある」と私に言ってきた。
 それは、全国にいるこれまで付き合いのあった女の子たちに、「息子の進が落語家になるので、出世するまでお待ち願いたい」と、しばしの別れを伝えてほしいということで、「自分の口からは言いづらいし、まさかむつみを行かせるわけにもいかないから、父さんにお願いしたい」と理由を説明してきたのだった。

 そのことに関して、地方営業のスケジュール次第で可能であると思った私は、マネージャーの大月豪に話を持ちかけたところ、1998年9月半ばからおよそひと月の間ですべての土地に行けるような日程を作成してもらえた。
 もっともそれは、はじめからある程度決まっていた予定に少し手を加えただけで作れたものであるが、全国の過去の私が転々としていた場所がおもに政令指定都市などの大きい街であったのが、それなりに功を奏していたのではないかという感覚があった。
 
 そして最初に出向いたのが、私の故郷である青森であったが、かつて私と進が二階に間借りしていた安達酒店の娘の妙子は、私の話には戸惑いつつも何とか納得はしてくれた様子で、「そうなの、私からは頑張ってとしか言うしかないし、やるからにはぜひ成功してほしいわ」と言ってくれた。
 その後、他の土地へも行くことになったが、それぞれの場所で進が出会った女の子たちの中には、高校卒業後に別のところへ移った人もいたため、私と進が昔住んだ土地すべてをまわったというわけではなかったものの、それでもほぼ全国を網羅している形にはなっていた。

 そうした中、彼女たちに会う算段に関しては、豪があらかじめ進から情報を聞いていたうえでのセッティングをしていたおかげで、だいぶスムーズにこなすことができたのであったが、私のほうから「どうか進を見守っていてください」と、ひとりひとりに対して頭を深々と下げてお願いしていった結果、その誠意を何とか認めてもらえたようで、反応はさまざまでありながら、一応の義理は果たせたという感覚は私の心の中に確かに生じていた。

 「進、こちらのできることはやった。あとはおまえ次第で道は開けるんだ」と、これから戻る東京に思いをはせてしばしの眠りについた私がそこにはいたのであった。


「むつみの耳によって」

 「あの…また…お会いしましたね」
 1999年4月下旬の日曜日、緑が丘の私の家の応接間に、少々緊張した様子のあるその声が静かに発せられた。
 私の目の前で、光村むつみと並んで座っている、眼鏡をかけたロングヘアーの女性が、声の主だった。
 そしてその言葉通り、私と会うのは初めてではないという、保坂美由紀がそこにはいたのであった。

 むつみとその美由紀が玄関に来た時に私に取り次いだのは、春日治だった。
 治が、父親の勝さんと母親の緑さんとともに住んでいた実家は中目黒にあるのだが、そこは緑が丘から三鷹の大月豪の家へ行く際の鉄道での途中の場所にあたる。
 高校卒業後の治には、在学中に私が弟子と認めたことの延長で、まずは少しずつ仕事を覚えさせていこうと私と豪との間で話し合いがあり、中目黒の家へ治あての呼び出しをたびたびかけ、治はその都度、緑が丘または三鷹へ出向いていた。
 その一方で、私の息子の進は結局、落語家の内弟子になることが決まり、師匠の家から大学へ通いながら修業することになったのだが、それにより空きになった進の部屋に治を住まわせるようにしたのが1998年の11月のことで、以降は私の家の用事を任せるようにし、来客への応対もそのひとつとなっていたのだった。

 さて、私が美由紀と会うのは数えてみると、この時が三度目であった。
 初対面は、私と進が全国を転々とした最中の1993年4月、金沢の兼六園でのことで、当時は美由紀と進は中学2年の同級生だった。
 そして時は流れ、進が落語界入りすることを伝えなければならない相手のひとりとして美由紀もいたのだが、彼女は大学進学の際に上京していたと進から私は聞いており、私と会って話をしたのは都内の喫茶店であった。
 そのような経緯があり、緑が丘の私の家でのこの時が、三度目の対面ということになったのである。

 「で、光村さんは保坂さんとは、どこで知り合ったの?」
 私はまずそれが知りたくて、むつみに聞いた。
 「美由紀ちゃんは、私と同じ大学に入ったんです」
 その答えに、私はすぐさま言葉を返した。
 「同じとこ? じゃあ、お茶の水か」

 むつみがお茶の水女子大に入学したことは、1998年の3月に私の家に合格の報告をしに来た時にすでに聞いていたのだが、一方の美由紀からは、私の家に来るまでは進学先についての話はなかった。
 では、喫茶店で会った時に、私も美由紀も話題にしなかったのはなぜかと思ったのだが、そもそもあの時に会話の場を設けた理由は、進の落語家への入門のことを私が美由紀に伝えるためで、おそらくふたりとも、進のことで頭がいっぱいだったゆえに美由紀の進学先のことが話にのぼらなかったのではないかと、そんな線であろう。

 「学科とかは、同じなの?」
 私の続けてのその質問に答えたのは、やはりむつみの方だった。
 「いえ、文教育学部なのは一緒ですが、私は言語文化学科で、美由紀ちゃんは人文科学科なんです」
 むつみの説明によると、学科はさらにコース分けされており、専攻はむつみは日本語で、美由紀は美術史であるとのことだった。
 それまでに落語好きなことを私が知っていたむつみが日本語のコースに行ったのは納得がいくのに対し、一方の美由紀が美術史を選んだのは少し意外な気がしたものの、実家が呉服店であることをかつて兼六園で会った時に進が教えてくれたという経緯を思い出すと、絵柄などに関する美的センスは鋭いのだろうなと、なんとなくだがわかる気がしたのであった。

 「学科も違っているのなら、接点はどこに…」との私の言葉に対しては、むつみは「実は、一緒にカラオケをやる機会があったんです」と答えたのだが、その話をもとに、いきさつを以下で申し上げようと思う。

 私自身は大学に行っていないので経験はないのだが、大学生になると、飲食を伴った会合がコンパという名でなされ、それが学科や学部、さらには学校の枠を越えるなどして行われると、「合同コンパ」、略して合コンになる。
 そしてその時は、カラオケボックスを借りての「合同カラオケコンパ」が催されることになり、もともと落語だけでなく歌も好きというむつみもそれに参加した。
 主催者の挨拶のあとカラオケが始まり、参加者がかわるがわる歌っていった中で、聴いていたむつみが「これはなかなかの腕前だわ」と思った女子学生がひとりいたのだが、その彼女は歌う前に「人文科学科・美術史専攻の保坂美由紀です」との自己紹介をしていた。
 むつみは後日、その記憶をもとに美由紀のところへ行き、「あなたに、会ってほしい人がいるの」と、一緒に緑が丘の私の家を訪ねるよう勧め、その結果、彼女たちと私の三人が顔を合わせることになったのであった。

 「でも、稔さんは美由紀ちゃんと知り合いだったんですか?」
 今度はむつみからその質問が私に来たのだが、それを聞きたくなるのももっともだと思い、兼六園での初対面や、進の落語界入りを告げる時の面会などが私と美由紀との間であったことをそこで、むつみに初めて打ち明けた。
 「そう、そんなことがあったんですか」と、聞いていたむつみは理解したようであったが、むつみと美由紀がそのカラオケコンパの時まで接点がなかったのも、意外といえば意外である。
 特に、私がむつみに進の「たびたび全国各地に出かけていた」ことへの対処を相談した時などは、「保坂美由紀」の名前が私の口から出てもおかしくはなかったのだが、結局は進の交際相手の名前までは話すことなく終わったため、それが後にむつみをして「私もそこまでは想像がつかなかった」と想定外のことと思わしめるようになったのであった。
 
 「じゃあ、保坂さん、ちょっと歌ってみてくれる?」
 ギターを持ち出してきた私がそう言うと、美由紀は「あ、歌ですか? いいですけど」と、緊張もだいぶほぐれてきた様子で答えた。
 元はといえば、むつみが「この子、歌がうまいの」と言って私の家に連れてきたのだから、私としてもそれが本当なのか確かめてみたかったのはもちろんあり、長い前置きを経てやっとたどり着いたという感があった。

 そしてこの時、美由紀が何を歌ったか、そして私が弾いた曲が何だったかまでは覚えていないが、どちらかというと物静かなバラードが選ばれたような記憶がある。

 ひとしきり聴いたところでの私の感想は、「なるほど、むつみは耳がいいな」というものだった。
 カラオケにはさまざまな機能が搭載されていて、それらの力を借りればだいぶうまく聴こえるようになるというが、そのカラオケなしで、生の声とギター一本の伴奏となった場合はどうなるのかと思っていたところ、美由紀は合格点がつけられる歌声で応えたのであった。
 印象として、言葉を大切にして丁寧に歌い上げているというのが美由紀の歌には強く感じられ、それが真面目な性格のあらわれなのだなと、納得がいったものであった。

 何度か会っていながら私が気付いていなかった、保坂美由紀の歌の才能を見出してくれたという点で、むつみはやはり私の人生の鍵を握っているんだなと、そう後に思うことになる出来事を今回は書かせていただいた次第である。


「アルバム企画『秋村稔の12都市』」

 「それじゃ、12曲作れということか?」
 三鷹の大月豪の家で、私はそう聞き返していた。
 世間を騒がしていた「2000年問題」が「大山鳴動鼠一匹」の肩すかしの感を残して終わってからそう日が経っていない、2月上旬のことだった。

 私がかつて日本全国を息子の進とともに転居してまわっていたことについては、豪と私との会話にもたびたび出てきていたが、それが1995年の夏に出した私のデビューCDの、特に『ふたたび…東京』のほうで、私自身の作詞・作曲という手段をもって歌に昇華したことは、既に書いた。

 発売から4年半が流れていた、両A面のもう片方の『東京の雪』を加えた2曲を、私はさまざまな場所での営業において披露しつづけていたが、歌っている私本人もそれなりの手応えを感じていたし、CDの売り上げも尻上がりに伸びてきていたという話を、豪や他のスタッフといった人たちからうかがっていた。
 そして、その延長線上の企画として、『ふたたび…東京』の歌の世界観を拡大させ、「秋村稔」が移り住んだ土地ひとつひとつにそれぞれ、一曲ずつ作っていくという企画が、私の所属事務所である唱道興業と、専属契約のあるテイトレコードとの両者の間で持ち上がり、豪が私を呼び出して告げたという次第であった。

 私がかつて住んだ土地の数について、現住所である東京を除き、故郷の青森を含めた場合に12となることは私は豪にも何度か話しており、この章の冒頭にあった私の言葉に対しても、豪は「そうそう、そういうことだ」と落ち着いて返答したのだった。

 「でも、作るとなると、どういうふうに?」
 私は豪にすぐ、そう質問をした。
 確かに私は、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を自力で書き上げたのだが、作曲はともかくとして、こと作詞については、自分の持っているものすべてを出し尽くしてしまったような感覚を抱いており、私が歌ううえでそれら以上に適しているような作品はもう作れない、というのが正直な考えであった。

 そう思っていたところに、豪は冷静に言った。
 「それなら、光村さんがいるじゃないか。あの『バーボングラス』を書いた…」

 豪は「光村むつみ」の名を覚えていたのだが、それは『バーボングラス』の歌詞を見た時に作者名として私から知らされていたというのが経緯としてあった。
 「じゃ、むつみが作詞をして、俺がそれに曲をつけると…」
 そこまで私が話したところで、豪は「その通りだ。まあ、唱道興業の中でも、あの歌詞はけっこう評判はよかったし、『それならば、この光村むつみって子の腕に賭けてみてもいいんじゃないか』ってなことになって、テイトレコードに話を持っていったところ、合意の方向でまとまったんだ」という説明をした。
 つまり、『バーボングラス』の作詞で見えた、むつみの才能の片鱗が本物であるか、試してみるべく立ち上げられたのが今回の企画ということになるわけだが、「それじゃ、とりあえず4月いっぱいぐらいまでに、12曲作ってみてくれよ」という、意外なほどあっさりした豪の言葉で、打ち合わせが終わった。

 その数日後、私はむつみを自宅に呼び出し、豪から受け取っていた、『秋村稔の12都市』との表題がある企画書を見せながら説明をしたのだが、むつみの「大体わかりましたが、そのことで、ちょっとお見せしたいものがあるんで、日を改めてまた来ようと思います」との言葉を受け、話の続きをする日を取り決めた。

 そして2月下旬、私の家を再度訪れたむつみは、4枚のCDをたずさえていた。
 「秋村さん、これ…」と言われるままに目をやると、『にほんのうた デュークエイセス』とあり、第1集から第4集までの表記がそれぞれにされていた。
 「へえ、CDになってたのか」というのが、その場で発せられた私の言葉だったのだが、このデュークエイセスによる『にほんのうた』の企画については、私は存在を知っていた。
 
 昭和40年代、歌謡界において「御当地ソングブーム」が起こり、まだ上京する前で青森にいた私も、その系統のいろいろな歌を聴き、三味線やギターでの弾き語りも趣味でやっていたのだが、「日本の都道府県すべてについて歌を作る」というコンセプトの“『にほんのうた』シリーズ”に関しては、「これ、面白い企画だな」と子供ながらに思っていたものだった。
 
 『にほんのうた』のレコードアルバムは、1966年から1969年にかけて4枚が出されたが、むつみが持ってきたCDのほうは1992年7月発売となっており、二十年以上を経ての復刻ということであった。
 私は、「中学1年の夏休みの、進くんたちと一旦別れてからひと月ぐらい経った頃でしたね、これを買ったのは」というむつみの回想を聞いたのち、カレンダーでおよそ十日ほど先の、私の予定が空いている日に「そこにしましょう」との言葉に従い丸をつけ、むつみから「それまで、これ、お貸しします」との言葉と、4枚のCDを受け取ったのであった。

 次のむつみの来訪までの間、私は用事のない、家にずっといられる日ができると、その『にほんのうた』のCDを歌詞カードと首っ引きで一日中、聴くことにした。
 都道府県ごとに1曲ずつ、というのが『にほんのうた』の基本方針ではあるものの、実際は47曲ではなく、それより3曲多い50曲が、第1集に14曲、第2集から第4集までのそれぞれに12曲ずつ、という形で分けて収録されていた。
 これは、東京に『君の故郷は』『明日の故郷』の2曲があり、北海道だと『ホッファイホー』『ボーイズ・ビイ・アンビシャス』『ベリョースカ(白樺)』の3曲が作られていることによるのだが、区切りがいいということで50曲という形にしたのかもしれない。

 また、曲の演奏時間は、4枚それぞれの1曲あたりの平均をとってみると、どれもちょうど3分ちょうどぐらいで、オリジナルのレコードで出た頃ならいざしらず、平成時代の流行歌と比較するとだいぶ短いという感覚がある。
 しかし短いぶん、歌詞や曲に無駄な部分はほとんど感じられず、コンパクトにまとまっているように思え、それが50曲という膨大な曲数のシリーズであるにもかかわらず、どの曲にも一定のインパクトがあって覚えやすく、うまく個性を発揮させることができているのではないか、という感想を私は持ったものであった。

 もちろん、別に娯楽でというわけではなく、あくまで私が仕事として12曲を作るための肥やしとして聴いているという意識は忘れていなかったのだが、そのことで留意すべき点も少なからず存在していた。
 私がこの企画について豪から受けていた注文として、「秋村稔という男が住んでいた“12の街”を舞台にする歌を」が最重要のものとして強調されていたが、それぞれの道府県のどこでもいいというわけではなく、都市単位で合致していなくてはならないのであった。

 もっとも、それは作曲というより作詞に対しての制約であって、「秋村稔」より「光村むつみ」が強く意識しなければならない問題ではないか、と思われるかもしれないが、実際には私にとってもかなり大きな命題であったという、そのことについても次章では触れようと思う。


「全体を見渡しての歌作り」

 数枚のレポート用紙に書かれた文字は、本人のそれとすぐわかる達筆の楷書であった。
 「一応、このように書くつもりです」との説明の声に従い、私は一枚目から目を通していった。
 2000年3月初頭、緑が丘の私の家にほぼ十日ぶりに、光村むつみが姿を現していたのだった。

 2月下旬にむつみが私の家に置いていった、『にほんのうた』の4枚のCDを、何回ぐらい聴いただろうか。
 通して聴くと2時間40分ぐらいかかるのだが、休みの日などは、午前と午後の2回それぞれ、最初から最後まで続けてかけたりもした。
 そのようにして、50曲分の歌詞とメロディーを目と耳にしみこませたうえで、むつみが再訪する日に私は臨んだのだった。

 むつみが手渡してきた紙には、大月豪から『秋村稔の12都市』として伝えられていた企画に沿った、12曲のひとつひとつについての構想が書かれていた。
 それらの概要を簡潔に言うと、次のようになる。

[札幌]雪祭りを一緒に見ようと、札幌の女に会いに行った男だったが、女が人妻になっていることを知り、失意のうちに札沼線に乗り込んだ──
[青森]秋口に青森へ帰郷し、幼なじみたちと再会した主人公。八甲田方面へも足をのばしたのち、正月休みにまた来ると言い残して東京へ──
[仙台]八月の七夕祭りを彼氏と楽しむ女。七月七日は梅雨のさなかだったため見えなかった星も、今度は満天に散らばっている──
[横浜]日本丸と氷川丸、白と黒との二隻の船は、横浜の港を今日も見守ってくれている──
[金沢]上野と金沢を結ぶ夜行急行・能登号で、東京在住の主人公が恋人に会いに行く──
[名古屋]男女の恋の「終わり」の様子を、「尾張」名古屋の街を舞台として描き出す──
[京都]東京の男と福岡の女が、両都市の中間点の京都でようやく会うことができ、永遠の愛を誓う──
[大阪]ひとりで道頓堀の街を歩いている男。さまざまな看板を見るたび、いろいろな思いが心に湧く──
[高松]香川の彼女と過ごした日々を東京で回想している男。小豆島のオリーブ畑や、屋島それに琴平なども思い出の舞台となっている──
[広島]平和公園へは何度来たかわからない主人公だが、来るたび涙がこぼれる。辺りにいる数多くの鳩を眺めて物思う──
[福岡]屋台が立ち並ぶ中洲で、ギターの弾き語りをしている男。後にしてきた故郷を思いつつも、夢は大きくメジャーデビューをと──
[長崎]若い男女が日曜日のデートを、長崎の街で朝から夜まで満喫する──

 一読したのち、「なるほど、ここまで考えてあるのか」とむつみに言った私は、「これが設計図で、そこから歌詞を作っていくわけだな」との言葉とともに、紙をテーブルの上に静かに置いた。
 するとむつみは、「あ、それなら、ひとつは作ってありますので」と、手元からさらに一枚の紙を出してきた。
 見ると、タイトルを『港の守り神』とした、一篇の歌詞がそこには書かれていた。
 全体は2ハーフの構成で、1番で日本丸、2番で氷川丸を描き、最後のサビでは「港…港の ああ 守り神」と締めている、横浜が舞台の詞であった。
 「先日、横浜へは行ってきました」とのことだったが、確かに東京からは、12都市のうちでも横浜は群を抜いて近く、日帰りでむつみの住む墨田区からでも街歩きに訪れることができるような場所なので、むつみがすぐ行動に移したというのも、私にはうなづける話である。

 「じゃ、ひとつはもうできてて、あとの11曲分はこれからなのか」との私の言葉に、「はい、それについてですが、お聞きしたいことがいろいろありまして…」と、むつみは待っていたかのようにいきさつを私に話してきたのだった。
 
 『秋村稔の12都市』の歌詞の構想を12曲分ひととおり作ったあと、むつみは舞台のそれぞれの土地について、自宅のある墨田区の公立および、在学中のお茶の水女子大の図書館などで資料を収集してきたという。
 この2000年の時点では、私もそうだったが、むつみもまだ自宅にパソコンがなく、インターネットはしていなかったとのことで、データ集めは書籍が中心だったのである。

 「いろいろ調べたんですが、それでもわからなかったことがありますので…」と、むつみは土地のことをいくつかに整理した形で質問してきたのだが、私は逐一、知っている限りのことは積極的に答えていった。
 私はそれぞれの土地については、かつて全国を移り住んでいた時のことだけでなく、デビュー後にキャンペーンなどの営業において訪れていた経緯からくる知識も持ち合わせていたので、時期のずれなどを考慮して総合的に回答をしていったのだった。
 ただ、私が知らないことに関しては、先々で作詞者としてのむつみに恥をかかせたくなかったので、知ったかぶりをすることなく、「それはわからないな」と正直に話し、むつみも「そうですか、それなら今一度調べなおしてみます」と言い、そういった質問と回答のやりとりで、この日は終わった。

 それからひと月経った4月初頭、むつみは12篇の歌詞を作り上げて、私の家に持ってきた。
 前回会ったときの質問で私が答えられなかった点については、再度の文献の読み直しや、さらには実際に現地に足を運ぶなどして補完をしたとむつみは話していたが、その結果としてひととおり作り上げての持参となったのである。

 それら12篇のタイトルは、以下のようなものであった。

 ●札沼線(札幌)
 ●秋風の青森(青森)
 ●七夕夜曲(仙台)
 ●港の守り神(横浜)
 ●急行能登号(金沢)
 ●名古屋エレジー(名古屋)
 ●ふたりの京都(京都)
 ●看板の街(大阪)
 ●讃岐のひとよ(高松)
 ●ああ広島に鳩が飛ぶ(広島)
 ●中洲のギター弾き(福岡)
 ●ふたり・長崎・日曜日(長崎)

 むつみからざっと説明を受け、「ありがとう。じゃ、曲をこれからつけてくよ」と努めて落ち着いた様子で答えた私は、その翌日から作曲にとりかかった。

 マネージャーの豪から言われていた締め切りは「4月いっぱい」だったので、残されていた日数は二十日あまりだが、早めに余裕をもって完成させると決めて、まずは12篇の歌詞を繰り返し読むことから始め、そしてメロディーが浮かんできたものからひとつずつ、キーボードを弾いたうえで楽譜に書きとめていった。

 12篇にひととおり曲がついたのは、4月半ばごろのことであったが、「これとこれがちょっと似通っているな」と思ったもの同士には微調整を加え、結果的に全体としてのバランスまで考慮したうえでの完成日を迎えると、月の残りが一週間ほどまで減っており、その作業においては特に、『にほんのうた』シリーズが大きなヒント、よい手本になった。

 シングル一枚の中でのカップリングならまだしも、12曲という数において全体を見たうえでのメロディー作りを何とかこなすことができたという点で、売り上げなどの結果としての成否はまだ出ていなくても、ひとつの達成感を得ることができた私であった。


「カップリングは廃墟の歌」

 「ええっ、俺じゃない…だと!?」
 私は開いた両手をテーブルにつき、腕を伸ばして立ち上がりそうになっていた。
 それは2000年4月の終わりごろの日、三鷹の大月豪の家での出来事だった。

 アルバム企画『秋村稔の12都市』の12曲の楽譜を清書し、光村むつみの書いた歌詞とともに豪に見せた私であったが、「なるほど、できているな」との言葉のあとに、豪はこう続けた。
 「実はだな、この12曲の歌い手は、こっちでこれから選んでいこうと思うんだ」

 それは私にとっては、全くもって寝耳に水の話だった。
 私が作るメロディーは、基本的に「歌詞の内容を的確に表現できるもの」を目標としているが、そこに、歌手である私自身が歌いやすい形のものという一面も加わっているのは確かである。
 そして、『秋村稔の12都市』についても、私が歌うものと信じて疑わずに作曲していたのだが、それが単なる勝手な思い込みにすぎなかったのを、豪が私をなだめるような形でしてきた説明の中の言葉で気付かされることになった。
 「だってさ、企画書の中で、おまえが歌うなんて一言も書いてなかったじゃないか。これ、もう一度見てみろよ」

 そうして、豪から渡された紙を改めて丹念に読んでみると、確かにその通りであったのだが、まだ腑に落ちない様子がありありだった私に対して、豪はきっぱりと言った。
 「いいか、これはテイトレコードの意向で決まった方針なんだ。そこのところ、わかってくれ」

 その言葉で私は引き下がらざるを得なかったものの、12曲の歌詞のほうを書いたむつみは、私が歌うのではないということを果たして知っていたのか、それが知りたくて5月初頭のゴールデンウィークのさなか、私の家で聞いてみることにした。
 
 するとむつみは、「ああ、やっぱりそうですか。そんな気はしてました」と、全く動じていない様子で答えてきたのだが、その言葉には続きがあった。
 「確かに企画書には、秋村さんが歌うとはどこにも書いてなかったし、それでからこそ私の作詞のほうも、12都市が舞台であること以外は、自由にやっていくことができたんです」
 そう言われて歌詞を改めて読むと、『札沼線』『ふたりの京都』などの、東京の男と他所の女の間に展開する話や、『七夕夜曲』『看板の街』『中洲のギター弾き』のような、その土地に住む主人公の独白があったりするなど、設定がさまざまであることに気付かされ、なるほど確かに、「秋村稔」という人間が歌うという決め付けはしないで書いてあるなと、はっきりわかったのであった。

 結局、この『秋村稔の12都市』の12曲は、レッスンは各曲の編曲担当者がそれぞれの歌の歌い手を相手に行うことになったため、私がそれ以上深く制作に関わる場面はあまりなく、ところどころで確認をこちらに取りに来るスタッフがいたぐらいだったが、「CDで次に俺が歌うのはいつになるのか…」という思いを持ちつつ、私は歌手を続けていくことになった。
 
 その私のもとに新たな吹き込みの話が来たのは、およそ2年が過ぎた2002年7月初頭のことだったが、それはシングルの2曲のうちの片方だけだと、豪からの説明があった。
 「じゃあ、もう1曲は誰が歌うんだ」と私が尋ねたところ、「いや、それはだな、前にお前が歌ったやつの音源をそのまま使うんでな」と豪は話したのだが、それはつまり、次のようなことだった。

 1998年の4月、お茶の水大に進学したむつみから送られてきた『バーボングラス』の詞に、私がメロディーをつけて歌い、それが複数の歌手によるCDアルバム企画の中の一曲として収録されたことは既に書いたが、その『バーボングラス』が、有線のほうでリクエストが増えてきたという。
 そこで、「これはシングルカットしても売れるのではないか」ということになり、「もう一曲を作ってカップリングにしたうえでの発売をとテイトレコードの制作会議で決まり、そのための書き下ろしの新曲が私に求められた、というわけである。

 「あ、歌詞ならもう、光村さんかが作ってあるから。これだ」
 そう言って豪は一枚の紙を私に渡してきたが、歌作りの話が私より先にむつみに来ていたのには、理由があった。

 2002年の3月に大学を卒業したむつみは、その2年前に『秋村稔の12都市』の歌詞12篇を書き、CDアルバムの制作に関わっていたことが縁となって就職先が唱道興業に決まり、この時には新人の事務員として配属されていた。
 会社側としては、むつみを社員として抱え込んでおくという意図があったのだろうが、それならば詞先の歌作りをする場合、むつみに私より先に企画の話がいくのも、ごく自然であるといえるのだった。

 そして紙を見ると、『夏草ホテル』のタイトルで、4行ずつ4コーラスの歌詞が書かれていた。
 1番で、そのホテルには「ふたりで行った」ことがあると言っているが、今は「車降り立つ」のが「ひとりの身」だという。
 2番の、「看板の文字 欠けて落ち」「見上げる窓の 割れガラス」といった表現からは、なるほどこの歌のテーマは「廃墟となったホテルを見て、昔を偲ぶ男」なんだなと気がついた。
 
 私はかつて全国を移り住んでいた時分、レンタカーで息子の進を乗せてドライブをした際などに、歌詞のようにそこで車を停めることこそしなかったものの、道の脇にそういった廃墟があるのを目にしたことは実際にあり、あくまで外観だけとはいえ、詞から建物の様子が頭の中にすっとよみがえってきたのであった。

 ではむつみがそのような歌詞を書いた動機は何なのか、それを聞きたくて7月半ばの週末に本人を私の家に呼んだところ、「実は、これなんです」と、一冊の本を差し出してきたのだが、表紙には『廃墟の歩き方』というタイトルが書かれていた。
 のちに私は、借りたその本を読みながらの『夏草ホテル』の詞への曲付けをすることになるのだが、本の内容は、日本全国の四十数件のさまざまな廃墟を写真つきで紹介しており、発行が2002年5月となっていたことが、むつみの「新刊を本屋で見つけた」という話を裏付けるものと思えた。
 
 『夏草ホテル』の詞の中での廃墟の描写が、その本を参考にしていることはわかったのだが、「ホテルを題材にして男女のストーリーを作ったのはなぜか」と続けてむつみに聞いたところ、「それは、あの『バーボングラス』のカップリングですから」と答えが返ってきた。

 『バーボングラス』の歌詞の主人公は、結婚か同棲かはさておいて、女性と暮らした日々を、残ったバーボンから思い出している男なのだが、住んでいたのは「マンション」であることから、特に貧乏ではなく、どちらかというと生活水準は高いのではないかと思わせる描写がされている。

 そのことに関して、むつみは今回の『夏草ホテル』の歌詞作りは、「『バーボングラス』と同じ主人公という設定で書いてくれないかと、大月さんから注文があったんです」と明かしており、それは豪がむつみに力試しの課題を与えたということなんだろうなと、私は思ったのであった。

 なお、「光村さんは、こういう廃墟には実際に行ったことがあるの?」との私の問いには、むつみはきっぱりと「全くありません」と答えたのだが、廃墟の建物のみならず敷地に関しても、立ち入ることは「不法侵入」という立派な犯罪になってしまうことや、物理的にも命に関わるようなさまざまな危険が潜んでいることも、その『廃墟の歩き方』の本には書かれており、むつみが節度を守る性格であることが垣間見えたものであった。

 むつみが『夏草ホテル』を書いた意図が、本人の説明でだいぶわかってきた私は、豪に言われた、7月いっぱいという締め切りを守ろうと、作曲にとりかかることにしたのであった。


「むつみと一緒なら」

 「稔さん、これからおでかけ?」
 緑が丘の自宅を出る時にそう声をかけられることにも、だいぶ慣れてきた。
 作詞・作曲で一緒に歌を作ったふたりが、ひとつ屋根の下で暮らすようになってから、一年二年と時が流れた。
 その女(ひと)の本名は、光村むつみから、秋村むつみへと変わっていたのだった。

 CDアルバム『秋村稔の12都市』は、「テイトレコード若手による」の副題つきで2000年9月に発売されたが、作詞のむつみと作曲の私のところに最初の印税が入ってきたのは、翌2001年の暮れのことだった。
 
 歌が売れても、その印税が振り込まれるまでには少なくとも丸一年は待たなくてはならないのだが、この『秋村稔の12都市』の件では、むつみは受け取るのをだいぶ躊躇している様子であった。
 むつみの作詞者としてのデビュー作『バーボングラス』の印税が振り込まれたのは1999年のことだったが、その時のむつみは、「これ、いただいていいんでしょうか。曲のおかげで詞も売れたと思いますので…」とのためらいがあったものの、私の「親御さんに孝行しなさい」というひとことで、ようやく受け取る運びになった一幕があった。

 それが『秋村稔の12都市』の場合は、「『バーボングラス』の時と違って、作詞の段階でだいぶ秋村さんに頼りましたから」とむつみは言うのだが、そういった面は確かにあることはあった。
 12篇の構想を立てたあと、むつみは私の家に来て、それぞれの土地についての質問を私にしてきたうえで、その聞き書きした情報を歌詞に盛り込んだのだったが、「それがなければ書けませんでした」と本人は強調して語っていた。
 
 結局その時も私は、むつみを説得するのにそれなりに骨が折れたものだったが、歌を作ることが共同作業であるという認識は、『秋村稔の12都市』のアルバム企画によってそれぞれの心に深く刻み込まれたのは事実だといえそうである。
 そして結果的には、そこで生じたわだかまりを解消するために、「一緒になろう」とお互いに呼びかけての結婚ということになったのだが、その意味でも、『秋村稔の12都市』という一枚のアルバムが、私とむつみの運命を大きく揺り動かしたのであった。

 さて、リリース後の『秋村稔の12都市』は、売れ行きはなかなか順調であるという話が私の耳にも入ってきており、振り込まれる印税のほうも、2002年に暦が変わった2度目以降、着実に額がアップしていった。
 私はあくまで曲を書いただけにすぎなかったのだが、それがテイトレコードの歌手たちによってCDに吹き込まれたり、さまざまな場で歌われることで、私の収入になっていると改めて思うにつけ、支えて下さる人たちへの感謝の念に全くもって堪えないものであったし、今でもその初心は忘れてはならないものと肝に銘じている。

 また、その『秋村稔の12都市』の売り上げは、さらなる波及効果をも生み出した。

 まず、私のデビューシングル『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲が、それまでもそこそこ売れてはいたのが、5年あまりを経て急カーブの上昇をしだした。
 それらはいずれも、私の過去の経歴を題材として描いた歌であったが、だからこそ『秋村稔の12都市』の人気と密接に連動して売れていった要素があったのだと思われる。
 というのも、『秋村稔の12都市』の歌詞カードには、「唱道興業マネージャー」の肩書きで、大月豪による解説文が載せられており、上野公園での出逢いから流しの歌手としての生活、そして十数年ぶりの博多での再会などが述べられていたが、その文章のおかげで、改めて秋村稔という男に対して興味を持たれた方々も少なからずいたのではないかとも、私は考えている。

 一方、テイトレコードのアンソロジーアルバムからのシングルカットとなった『バーボングラス』に、書き下ろしの『夏草ホテル』をカップリングしたCDのほうは、2002年9月に発売となってから、あまり時を待たずして、好調なセールスを示した。
 その理由について、「どうしてだろうな」と豪やスタッフたちと意見を交わした中でいろいろと説が出たのだが、両曲の個々の内容から見ていくと、次のようなところに落ち着いた。

 『バーボングラス』はもともと、有線で人気が出たことからシングル化への道が開けたのだが、それは酒場でよくかけられたからのようで、バーボンという酒の名前をタイトルに使っていることが功を奏したのかもしれない。
 
 『夏草ホテル』の方はどうかというと、むつみが『廃墟の歩き方』という本を読んで詞を書いたことは既に述べたが、その『廃墟の歩き方』が火付け役になって、00年代の半ばにかけて廃墟ブームが巻き起こり、その流れに『夏草ホテル』の歌もうまく乗ることができた感がある。
 また、詞を私に見せた時にむつみは、「この『夏草ホテル』を書くとき、『荒城の月』や『古城』がだいぶ参考になった」と言っており、そういった不朽の名曲の流れをくみ、自然の中に埋もれていく建造物を題材にとったことで、歌謡曲のファンからの支持をつかむことが可能になったのであろう。
 
 そして、『バーボングラス』の主人公と同一人物でという注文を受けて『夏草ホテル』が書かれたことを考えると、その経緯からくる2曲の整合性の高さという点が、売れ行きの決め手になったのではないだろうかということで、議論がまとまったのであった。

 『バーボングラス』『夏草ホテル』のシングル発売の翌2003年の4月に私とむつみは入籍し、次の2004年の8月には長女も生まれたが、その新婚生活の経済面での支えとなったのが、それら一連の歌たちであったのは言うまでもなかった。

 そして2006年の春、緑が丘の自宅のローンも払い終えることができた。
 そこはもともと、私がデビューして間もない1995年の10月、豪が自分の家を担保にして、私が唱道興業からの給料のうちから払う形での返済をするということで買わせたものであったが、10年半での返済は当初の計画より数年早まっていた。
 もちろん、それは私の歌が売れたという幸運あってのものなのだが、最後の支払いをしてきたあと、豪の「稔、よくやったな。これでこの家は本当の意味でおまえのものになったんだ」という言葉を耳にした私の目には、見上げる空が一層青く晴れわたったものに映ったのだった。

 それから間もないある日、豪が「ちょっと話がある」と、私を三鷹の自邸に呼び出してきた。
 「おまえ、本山プロに移ってくれないか」
 豪のその言葉は、私にとってはどう反応していいのか、しばし策がみつからないものだった。
 本山プロといえば、芸能の世界では大手事務所として知られているのだが、そこへ私が移るというのはどういうことなのだろうか。

「それは、むつみも一緒でか?」と、とにかくそれだけは豪に聞きたかったのだが、「そうだ」との答えが返ってきたとき、「ならいける。大丈夫だ」と私は心の中で低音の声を出し、両手の拳を握りしめていたのだった。



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