センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第4部



「友情のモツ鍋」

 鍋からたちのぼる湯気が、視界を少しさえぎっていた。
 その向こうにある顔は、昔見慣れたはずのあいつ──と親しみを込めて私が言える数少ない男である。
 季節は晩秋、所は博多・中洲のモツ鍋屋、そしてその男とは大月豪であった。

 前日に豪から名刺をもらった時、言われていたことがあった。
 「明日の夜、どこかで一緒に飯でも食おうかと思うんだけど、いい店があったら教えてくれ」
 その頃は、私が高松から福岡に移り住んでからふた月あまり経っていたのだが、毎晩のようにクラブなどで歌っているうちに、こと中洲という街に関しては自分の庭のように詳しくなってきていた。そのことを踏まえて、次のように答えた。
 「そうだな、せっかく博多に来たんだから、モツ鍋なんかどうだ。うまい店をそれなりに知ってるぞ」
 モツ鍋は当時すでに福岡の名物であったが、鍋物なら、食べながら話すのにも合うだろうし、豪もなにか私に聞きたいことや言いたいことがあるようだったので、勧めてみた。
 そして、私が一番気に入っている店に翌日の予約を入れ、明日また会おうと言って、その日は別れたのだった。

 「稔、お前なんで博多にいるんだ?」
 鍋をはさんでの二人の会話は、豪のそんなひとことから始まった。
 確かにそれは、まず豪が私に一番聞きたいことであったのは当然であろう。なにせ15年以上の間ずっと会ってなかった相手が、かつて一緒に流しの歌手をしていた東京ではなく、はるか離れた九州の地にいたのであるのだから。
 
 とはいえ、私が博多に来るまでの経緯となると、ひとつひとつ話していくと際限のない長さになってしまうのが目に見えていたので、どこまで簡略に言えるのかと自分に問い、そのうえで答えた。
 「…あのあとだな、7、8年ぐらいして俺の故郷の青森に帰ったんだ。そこでまた3年ちょいいたんだが、思うところがあって日本のあちこちに移り住んで、今は博多にいるんだと、ま、そういうことだ」
 それを聞いた豪の顔が、少しこちらに乗り出してきた。
 「へえ、そうだったのか。だけどどれくらいの範囲というか広がりがあって、何回ぐらい引っ越したんだ?」
 「うん、一番北なのは札幌だったな。で、南となると長崎かな。そんな中を、だいたい10回は転居したんじゃないかと思うよ」
 私がそう答えると、豪の表情はやや落ち着き、多少納得はしたように見えた。
 「で、それはおまえ一人であちこち行ったのか?」
 「いや、俺には息子がいてね、進っていうんだが、そいつも一緒だよ」
 ここで、豪の目がやや円くなった。
 「なに、おまえ、子供がいるのか。いつのまに結婚してたんだよ、で、相手って誰なんだ?」
 「エミだよ」
 
 昭和50年代の初頭、新宿で流しの歌手をしていた私と豪がよく歌っていた店のひとつに、そのエミが勤めはじめたのだが、私がエミと親密になっていくにつれて、私と豪との間には少しずつ溝ができていったことは既述の通りである。
 エミの名を聞いて、豪はしばらく言葉を発せずにいたようだったが、何とか冷静さを取り戻そうと努めていたのが私の目にもわかり、ようやく次のように言った。
 「…じゃあ、エミがおまえの嫁になったのか。で、今、やっぱ一緒に博多に住んでるのか?」
 「いや、それが…もういないんだ」
 「いないって? 稔、どういうことだ?」
 「実はな…進がまだ小さい頃に、死んでしまったんだ」
 エミとは源氏名で本名は和子だが、その和子が膵臓癌をわずらい、1984年の春に命が尽きたこともまた、以前「永訣」の章で書かせていただいたが、それが豪にとって初耳なのも、また無理からぬことであった。

 その私の答えに、さすがに豪も、「まずい事を聞いてしまった…」という表情になった。そしてしばらくは、私と豪のふたりの間に、鍋の湯気とは別の黒い雲がかかったような状態になり、やっとのことで豪が「そうか…ごめんな、悪かった」と謝るまで、沈黙は続いた。

 「じゃあ、俺のほうの話もしようか」
 なにか別の話題にしなければと、豪は必死に考えていた様子であったが、ようやくそのように言葉を発してきた。
 「昨日あげた名刺に書いてあるとおり、俺は今、唱道興業っていう芸能事務所でマネージャーをやってるんだ」
 やっとの思いで話の方向を変えた豪を見て、私もそれに応じようとすべく、しばらくぶりに口を開いた。
 「ほう、マネージャーか。だけど豪、お前は確か、作曲家にスカウトされたよな。それで、レコード歌手にいずれなるっていう話も、俺は小耳にはさんだんだが…」
 「ま、その話は、それはそれで長くなるから、またいつかするけど、とりあえず今の俺はマネージャーということで」
 そう話す豪の表情には、また明るさが戻ってきていた。

 気がつくと、店に入ってから2時間近く経っていたが、私はモツ鍋で満腹になっており、豪も同じような様子で、「それじゃ、ここらでお開きか」と言った。
 「んじゃ、この勘定は俺が払うぞ、稔」
 その言葉どおり、代金は豪がひとりで出したのだが、結局ふたりで4人分食べていた。思えば、あの頃は私も豪もまだ30代で、パワーがあったものだと今でも懐かしく感じられる。
 
 別れ際、私の博多での住まいであるマンションの住所と電話番号を豪に伝えておいた。
 今だったら携帯電話のアドレスを教えることになるのだろうが、この1994年はまだ普及率が1割にも届いていなかったそうで、お互い持ってないのも仕方のないことであった。
 「じゃあ、何かあったら、名刺にある唱道興業の事務所に連絡してくれ」
 そう言い残して、豪は夜の街に消えていった。

 東京で一旦は断絶したふたりの友情が、遠い西国の福岡で元に戻った、そんな一夜の話を申し上げた次第である。


「宅録の10分テープ」

 中洲で大月豪と差しでモツ鍋をつついてから、十日が過ぎた。
 その頃の私は、夜にクラブなどの店で歌う生活をそれまで通り続けていたのだが、11月が終わろうとしていた日、いつもながらに朝帰りしてマンションの受箱を開けたところ、速達の封筒が来ていた。
 封筒の表の「秋村稔様」の活字の下を見ると、そこには「唱道興業」の文字が印刷されており、それが豪がマネージャーとして所属しているあの会社で、そこの封筒を用いて出された手紙だとはすぐに分かった。
 部屋に戻って開けてみると、大意として次のようなことがワープロ打ちで書かれていた。

*******
 
 秋村稔様、はじめまして。
 先日、弊社の大月豪から、福岡であなた様と会食したとの報告を受けました。
 大月の話では、秋村様は流しやクラブ歌手として活動されつつ日本全国を回られたとのことですが、私どもはそれを聞き、御経歴にひとかたならぬ興味を抱き、あなた様のことを一層知りたくなりました。 
 つきましては、参考資料として、以下で申し上げるような物を御用意いただきたいと思います。

  @履歴書
  A自己アピールの文章
  B御自身の演奏および歌唱を録音した、片面1曲ずつ2曲のカセットテープ
     
 テープの曲は、あなた様のお好きなものを御自由にお選び下さり、フルコーラスでの御収録をお願いします。
 締め切りは、12月15日必着とさせていただきます。

 まずは、用件まで。
                                                   唱道興業

*******

 その手紙を読む私の手には、震えが来ていた。
 これはひょっとしたらひょっとする、何か道が開けるかもしれない、そういった思いが頭の中で渦を巻いているのを感じた。
 そしてその日の午前中、さっそく必要な物を買い揃えるため、天神界隈に出向いた。
 
 一軒のディスカウントショップへ行き、履歴書と原稿用紙を入手したあと、カセットテープも探した。
 カセット売り場でまず手にしたのは、片面5分ずつの10分テープで、それは唱道興業に送るためのものだったが、まさか一発勝負で録音するわけにはいかない。
 何回も繰り返して録り、その中で一番出来のいいものを選んで送るのが妥当なところだろう、ということで、10分テープのほかに120分テープを2本買うことにし、レジに向かった。

 マンションに戻り、まず手をつけたのは履歴書で、これは嘘偽りなく正直に、自分の経歴を記していった。
 結局その日はそれだけをやったあと、夕方からの仕事の準備をし、あとは明日以降、頭を切り替えて進めていこうと決めた。

 そして翌日から、録音に向けて動き始めたのだが、まずは曲を決めなければならない。
 私が弾けて歌える曲となると、流しやクラブ歌手の経験の中で会得したものがおそらく数百曲はあったと思うが、それらの中からどれにするか。
 もし、どこどこのレコード会社に提出などという指定があるのなら、そこの専属歌手の顔ぶれや音楽的方向性などを意識したうえで選ばなければならないのかもしれないが、今回はそういった話がなく、その点において考慮の必要はなかった。
 とはいえ、選べるのは2曲だけで、そこに私のすべてを注入しなければならないのだから、選曲のところから既に試されていることははっきり意識していた。
 結論はその日には出ず、普段とは反対に、仕事として歌うことが気分転換という意味合いを呈し、翌日以降に回すものとなった。

 気がついてみると、12月に入って数日が過ぎていたが、それが判らなかった私はいささか平常心を欠いていたという他なかった。
 12月15日の締切まではあと10日ほど、これはそろそろ曲を決定しないとまずいと心理的に追い込まれつつあったが、そんな中で出てきたのが、『無法松の一生』であった。
 私が博多に来てから、この曲をリクエストされることはよくあったが、主に旅行者や出張で来ている人から「福岡の歌をたのむ」と言われた時に演じるケースが多かった。
 もっとも、『無法松の一生』の舞台となっているのは、博多ではなく北九州市の小倉なのであるが、福岡県の歌として黒田節や炭坑節などと並んで有名であることや、作曲した古賀政男先生が同じ福岡県内の大川市の出身であること、それに私が中学生あたりだった頃、映画版のテレビ放映を見た記憶があり、そこでの松五郎のキャラクターを気に入っていたことなど、いくつもの要素が重なって、好んで歌っていたものであった。

 そのようにして、一曲は『無法松の一生』に決まったのだが、もうひとつは何にするか。
 私のそうした自問に対し、もうひとりの私──とでも言ったらいいか──の答えは、「いま福岡にいるのだからということで福岡の歌を選んだのなら、昔はどこにいたのか思い出して、そこの歌にしてみろ」というものであった。
 「昔いたところ」というと、日本全国をまわるようになる前にいた場所、それは私にとっては故郷の青森である。
 では青森の歌にするが、数ある中からどれを選ぶかと考えるにあたり、よみがえってきた思い出がある。
 東京から帰郷したあと、弟の弘に請われて、青森の中学校でライブのゲストとして出演し、青森が舞台の流行歌を時代順に歌っていったのだが、その時最後に歌ったのが『望郷じょんから』であった。
 ライブがあったのは1987年の10月だから、最後がその歌なのは順当なところかもしれないが、民謡が挿入されている歌謡曲であるところなどは、その両方の分野に手を染めていた私自身に照らし合わせて、因縁めいたものを感じていた。
 2曲目を『望郷じょんから』に決めたのは、そのように経緯としてはあっさりしたものであった。

 録音は、12月6日から始めた。
 朝、息子の進が中学校へ行ったあと、ギターを手にし、『無法松の一生』を「度胸千両入り」の形で歌ってテープに吹き込んでいった。
 その日は、買ってあった120分テープの片面、60分を埋めることにしたのだが、それに要した時間は、倍の2時間ほどではなかったかと思う。
 なお、当時私がいたマンションは幸いなことに壁が厚く、防音の面で問題がなかったため、宅録の形がとれたことを記しておきたい。

 翌7日は、『望郷じょんから』に移ったが、こちらの伴奏には三味線を使った。
 この文章の中で三味線の話が出るのは久しぶりだが、私が全国を転々としている間で、最初の仙台から札幌までは民謡の仕事に携わっており、当然三味線を使っていた。そして、そのあとの大阪転居後に流しをまたしたり、次の京都でクラブ歌手にもなったりしてからは、三味線を使う機会は少なくなったものの、以前東京でギターやアコーディオンを質入れしてしまった時とは違い、音楽にしがみついて生きていく腹を決めていたため、福岡に至るまで持ち続けていたのだった。
 話が横道にそれたが、『望郷じょんから』は、ギターでもできる曲だが、三味線のほうが感じが出そうだと自分は思ったため、それを伴奏に用いたのであった。

 8日は『無法松の一生』を再び、6日のそれの裏面の60分に入れ、明けて9日に『望郷じょんから』をやはり7日の分の裏に吹き込み、音源は出揃った。
 1日おいた12月11日の日曜日は、その夜の仕事が非番になっていたので、今日やり終えようと、2本の120分テープをずっと聴き続けていたが、多数の歌唱や伴奏にそれぞれ一長一短がみられ、決めあぐねていた。
 仕方なく、学校が休みで家にいた進にも聴いてもらい、「これがいいよ」と言われたものを10分テープの表裏にダビングしたのだが、これは岡目八目という言葉があるように、ある意味適切だったのかもしれない。

 そして、夜に進が寝たあと、自己アピール文を書き始めた。
 私は学校は中学までしか出ていないので、文章力が人に劣ることは十分わかっている。それゆえ、気取ったり格好をつけたりせず、素直に書くことを心がけた。
 内容としては、履歴書に書いた経歴の補足説明をはじめ、テープに『無法松の一生』と『望郷じょんから』を吹き込むまでの曲選びのいきさつなどを盛り込んだものにし、その清書が完成するともう朝になっていた。
 そしてその12日の午前中に郵便局に出向き、唱道興業にあてて速達として出したのだった。

 もう東の空には太陽が高く上がっていたが、東京のあるその方角を向いて手を合わせている私の立ち姿がそこにはあった。


「喉とギターで本人確認」

 封筒は無事、事務所に届いただろうか。
 私の心の中はしばらく、その思いに支配されていた。

 1994年の12月12日、私の歌と演奏を吹き込んだカセットテープに書類を添付して、東京の唱道興業宛に送ったのだが、仕事のほうではそのころ、忘年会のシーズンを迎えていた。
 世間の多くの会社は、12月になると年忘れの飲み会をやるのが常だが、クラブ歌手である私は仕事としてもてなす側にいた。
 一年で一番忙しいその時期を無事に乗り切れるか、というのが毎年の重要課題であったのだが、私がクラブ歌手として臨む年の瀬はその時が4度目だった。
 場所は1991年の名古屋、1992年の長崎、1993年の横浜ときて、この1994年は福岡となったが、仕事をしていてなんとなく感じていたことがあった。
 それは、ちょっと景気が悪くなってきたのかなという思いだったのだが、今ではそれがいわゆる「バブル崩壊」の現象にあたるものだったと一般的に説明される。
 もっとも、崩壊というとなにか、ある日突然に急転直下で起きたイメージがあるが、実情はやや違い、少しずつの退潮がみられたといったほうが正確だそうで、それなら私も実感としての納得がいく。
 ただ、その当時はまだ「バブル景気」という言葉はなく、1990年代の末期ごろにやっと、過去を振り返ってのものとして使われるようになったというから、後付けの形での新語として定着したというほうが正しいのだろう。

 話が少々横道にそれたが、テープ郵送後の私が、あれはあれでやるだけのことはやったという意識を持ち、気持ちを切り替えて本業のクラブ歌手の仕事にあたるよう努めていたのもまた、記しておきたい話である。

 暦が1995年になって二十日あまり過ぎた頃、マンションのポストにまた、唱道興業の封筒が入っていた。
 年が明けてからしばらくは仕事はあまり忙しくないのが常だったが、そんな日のことであった。
 唱道興業から手紙が来るとしたら、例のテープの件であることは間違いなく、どんな結果なのかと、封を切る私の手は動揺でややぎこちない運びになっていた。

 封筒の中身には、次のような内容が書かれていた。

*******

 このたびは、テープと履歴書を送っていただき、ありがとうございました。
 『無法松の一生』『望郷じょんから』を聴かせていただきましたが、お歌も御演奏も、誠にお上手ですね。
 私どもで検討いたしましたところ、これはレコード会社へのプレゼンが十分いけるという意見でまとまり、実行に移した結果、テイトレコード様から御協力の話をいただけました。
 つきましては、実演などによる本人確認が必要となりますので、下記の日時に、弊社に御足労願いたいと思います。
 ……

*******

 そして以下には、1月30日という指定の日付と時間、それに唱道興業事務所の地図、アクセスの方法などが記されていた。

 とりあえず、「“面通し”をしたいから、東京に来てくれ」と言われているのはわかったので、上京の準備にとりかかったが、移動手段に関しては、飛行機のチケットを購入した。
 福岡から東京へ行くには、空路以外にも新幹線があると考えるのが普通なのだが、この時はそうはいかなかった。
 それは、1月17日に起きていた。
 周知の通り、意味するものはあの「阪神大震災」で、犠牲者が六千人を超えた、当時としては戦後最大被害の地震であった。
 鉄道に関してもその損害は甚大な中、山陽新幹線については、揺れが午前5時46分のことで、始発前であったために、乗客への直接的被害こそなかったものの、橋梁等の破損が多数生じていたことなどから、不通となった。
 東京と福岡を往復する「のぞみ号」は、全線での運行再開は4月上旬まで待たなければならなかったほどで、この1月末などでは東京行きに新幹線はとても使えず、飛行機にしたのであった。
 もっとも、福岡空港は博多駅から地下鉄でわずか5分のところにあり、百万都市の空の玄関とは思えないぐらいに近場でアクセスがよかったたため、不便は別段感じなかったのであるが。

 そして30日の最初の便を用い、私は羽田空港に降り立ったのだが、ボストンバッグのほかに、一本のギターを携えていた。
 年明けの唱道興業からの手紙の中で、ギターを持参してほしいとの記載があったためにそうしたのだが、前年12月に送ったテープの2曲のうち、ギターを使ったのは『無法松の一生』のほうで、もう一曲の『望郷じょんから』の伴奏は三味線だった。
 となると、『無法松の一生』のほうが気に入られたのかな、とも思ったが、もともとギターは歌謡曲に用いるにあたっては三味線よりも万能度が高いものなので、深くは考えないことにした。

 何度かの乗り換えの末に唱道興業のビルに着き、受付で「お呼びにより参上しました、秋村稔です」と言うと、応接室のひとつに通された。
 ややあって、中洲でモツ鍋を食べて以来の、大月豪が現れた。
 「おう、待たせたな。じゃあ、テイトレコードに行こうか」
 そう豪は言い、ビルの前で待たせていた会社の車の後部座席に、私とふたり乗り込んだ。

 テイトレコードで私と豪が案内されて入った部屋に、そこの所属スタッフと思しき数人が数分後に姿を現し、テーブルを挟んでの対峙となった。
 「どうも、はじめまして。秋村稔です」
 私がそう切り出すと、スタッフの中で最も上役であろうひとりが、手元の書類と私の顔を交互に何度か見つめたが、私が唱道興業に送った履歴書が回ってきていたのだろう。
 「ふむ、顔は写真どおりだな。では、歌ってみたまえ」
 このとき指定された曲が何だったのかははっきりとは覚えていないが、少なくとも10分テープに吹き込んだあの2曲は含まれていなかった。そして、それ以外の曲をたしか3、4曲ほど、持参していたギターの伴奏とともに歌い上げると、声がかかった。
 「間違いない。あのテープは確かに君の声と演奏だ」
 そこまでは順調な納得のいく流れできていたが、次の言葉を聞いて、私は耳を疑った。
 「では、2曲を2月中に作ってみてくれ」

 その30分ほど後、私と豪はある喫茶店の席についていた。
 唱道興業の事務所へ戻るとなると、空港までのルートと逆の遠回りになってしまうので、豪が私の福岡への帰途を慮ってそうしたのであった。
 
 そこでの会話は、次のように交わされた。
 「豪、あれ、どういうことなんだ?」
 「あれって、歌を作れっていう、さっきの話か」
 「まあそれなんだけど、いきなりそんなこと言われたって、どうしろと」
 「そりゃおまえ、詩を書いて曲をつければいいんだよ」
 「そんな簡単にいうなよ。第一、俺は歌とか演奏なら何千回とやったかもしれんが、作詞や作曲なんてのは今までやったことがないんだ」
 「大丈夫、何とかなる。心配しないで福岡に戻れよ」

 そのおよそ2時間後、西を向いて飛ぶ飛行機の中で、豪の最後のひとことを自分に言い聞かせ、必死に落ち着かせようとしていた私であった。


「初めての歌作り」

 唱道興業とテイトレコードへの挨拶のために出向いた東京から福岡に戻り、一夜明けた1995年1月最後の日、私は天神の書店に来ていた。
 「趣味」のコーナーの「音楽」の棚の前へ行き、手に取ったのは『作詞入門』『作曲入門』であった。
 テイトレコードで「歌を2曲作れ」と言われ、そのあと喫茶店で大月豪に「やってみろよ」と後押しされたのが耳に余韻として残っていた、そんな中でのことだった。

 立ち読みでパラパラとページをめくったのちに2冊買ってマンションに戻ったが、作詞・作曲とも、ごく基本的なところから説明していた本であった。
 作詞でいえば、言葉の音数つまり字脚の合わせ方や、ストーリーの起承転結のつけ方などから書かれていたし、一方の作曲については、それこそ音符の種類をはじめとした楽譜の読み方の話からされていた。
 まがりなりにも長年音楽に携わってきた私としては、「そんなこと、分かってるよ」と言いたくなるような内容も多かったものの、なにごとも基本は大切だといろいろな人から言われてきていたため、ひとつひとつ改めて自分に言い聞かせるように読んでいったのであった。

 なお、クラブ歌手の仕事については、私は東京へ行く前の1月25日頃、辞める挨拶を店のほうにしていた。
 それはちょうど、唱道興業から呼び出しの手紙が来たすぐあとのことであったが、いずれ東京で暮らす必要が出てくるのだろうという思いが強くなってきており、福岡を去る潮時の訪れを感じていたことが理由としてある。
 加えて、所持金の面でも、遊んで暮らせるほどにあったわけではもちろんないが、しばらくは収入がなくても何とかやれるぐらいには持ち合わせがあり、本業以外で忙しくなってきていたことを考慮して思い切って辞めたということもまた事実なのであった。

 2月に入って一週間ほどした日、マンションの受箱に封筒が届いていたが、それは例の唱道興業の表示はない普通の茶封筒だったものの、送り主の名前として手書きで「大月豪」とあった。
 つまりそれは、豪から私にあてた私信であると見ればいいものということになるが、だからといって、何の用事もなくわざわざ東京から福岡に出すわけもないだろうから、今度はどんな用件かと思いつつ、封を切った。

 中の便箋には、これも手書きで次のようにあった。

*******

前略

 稔、福岡には無事戻れたか。
 テイトレコードで、2月中に2曲作れという話があったが、あのあとまた詳しく交渉したところ、もう少し先に延びてもいいと向こうが言ってきた。
 それで、お前のほうは3月20日ぐらいまでに歌詞と楽譜を俺のところに持ってきてくれればいいから、日付はそっちで指定して2月20日ぐらいまでに手紙で知らせてくれ。
 あとそれと、歌を作るにあたって、お前に渡したいものがある。
 何かというと、楽器のキーボードなんだが、この手紙のすぐあとにそっちに届くと思う。
 東京で俺たちが流しをやっていた時、お前は俺と組んでアコーディオンを弾いていたから、キーボードも同じ鍵盤楽器、使えるはずだろう。
 アコーディオンは質入れしてしまったとお前に聞いたから、その代わりに送ってやることにしたんだ。
 それで、とりあえずコードまではつけなくていいから、歌詞のところのメロディーだけ書いておけばいいぞ。
 じゃ、頑張れよ。
 
                                                            草々

*******

 そしてその手紙どおり、翌日には小包でキーボードが届いた。
 白鍵の数が19ぐらいの、あまり大きくはないものであったが、歌謡曲の音域を考えるとそのくらいあれば収まるのだから、別に問題はなかった。
 よし、これで歌を作ってやるぞという思いが、キーボードを目の前にして大きく動き出したのであった。

 一方、歌詞のほうは、東京から戻ってすぐに構想に入っていた。
 『作詞入門』もひととおりは読んだが、だからといってすぐ作れるというわけでもなく、頭を抱えていた。
 その打開策となると、やはり既存の世に出ている歌の歌詞を見つめ直すしかないだろうということで、手持ちの歌本を次から次へと読んでいった。
 そして、先人の足跡をじっくり確認したうえで、なにか自分ならではの詞を書くことはできないだろうかと考え、ようやく糸口が少しずつ見えてきた。

 そんな中で初めにできたのが、『忘れえぬ街』というものであった。
 ワンコーラスは4行の詞で、1番から順に、青森・大阪・長崎ときて、締めの4番が東京という、御当地ソングになっている。
 その詞を何度も繰り返し音読していくことで、メロディーはすっと浮かび上がり、キーボードで確認し、五線紙に記して一曲を何とか作り上げることができた。

 そしてもう一曲はどうしようかと考えていったところ、思いは昔の自分の東京暮らしの時のことへと向いた。
 中学を出て乗った上野行きの夜行列車、上野公園での大月豪との出逢い、流しの歌手として歌いまくったこと、酒場の女「エミ」こと和子との結婚と死別、そして一旦は捨てた音楽の道──などなど、記憶の底から引き出していった。
 そのようにしていて、ふと思いついたのが「雪」というキーワードであった。
 あの東京暮らしは13年間にわたるものであったが、いつだか大雪と報じられた年があったはずだと思い返した。
 そして、「東京ではこの程度で大雪というのか。俺の故郷の青森なんかじゃ、二階の窓ぐらいまで降るなんて当たり前だぞ」などと当時は思ったものだったと回想したが、これを歌にできないだろうかと考えてみることにした。
 まず1番は、その東京と故郷の「大雪」の認識の違いを書き、2番以降は、やはり東京での雪にまつわるエピソードを描写し、3番までの構成で歌詞を完結させた。
 タイトルとしては、そのまま『東京の雪』としたうえで曲付けに入ったのだが、詞をあらためて読んだところ、これはしっとりとした物静かなイメージが欲しいということでバラード調にし、それが『忘れえぬ街』に次ぐ私の自作曲となったのである。

 これで『忘れえぬ街』『東京の雪』と2曲ができあがり、一応は注文をこなすことができたといえるのかもしれなかったが、私の心にひっかかるものがあった。
 それは、2曲のうち先に作った『忘れえぬ街』についてであって、ちょっと物足りないかなと感じていた。 
 というのも、その歌詞の全4番のうち、1番から3番まではそれぞれ、望郷・友情・恋愛というテーマで書いていたのだが、舞台として用いていたのが先述の通り青森・大阪・長崎である。それが、「自分が行った他の土地をないがしろにしてしまっているのではないか」という、なかば良心の呵責にさいなまれていたのであった。
 では、私が行った全部の土地を包括的に捉えられる歌詞は書けないものか、そういう思いで「3曲目」の構想に入った。
 それを思い立ったのは3月初頭で、時間はまだしばらくあるのだから、間に合わせることは十分可能とみてのことでもあった。

 私が初めて東京に出てきた時、年齢はいくつだったかなと思い出すと、中学卒業後すぐでまだ15だったなとなり、それが「十五の春から 東京で…」の出だしを生んだ回想というわけである。
 そしてその東京にどれくらいいたか、それは実際には13年間なのだが、あくまでフィクションの歌詞ということで、語呂のよい十年にしようと考え、「十年暮らすも 出世の芽が出ず…」という続きとなった。
 3行目「両親相次ぎ 失って故郷は…」は、実際は故郷に戻ってから死別したのは以前書いたとおり父だけで、母のほうは当時健在だったことが事実と異なるが、その母は元をただせば私の産みの親ではないのだから、実の両親が両方いなくなっていたという点では合致していることから、多少詫びる思いを持ちつつ、そう書いた。
 1番はそのような感じで書き上げ、2番では全国行脚の話をワンコーラスにまとめたものにし、そして最後の3番で東京に戻って完結というストーリーをもたせ、タイトルの『ふたたび…東京』も割とすんなりと浮かんだ。
 メロディーは、『東京の雪』が物静かな感じだったから、こちらは勇壮なものにしてみようということで、テンポを速く設定し、音域についても、『東京の雪』にくらべて少々高いところを使うのがいいだろうと思っての書き直しを経て、まとめてみたのであった。
 
 こうして『忘れえぬ街』『東京の雪』『ふたたび…東京』と3曲が出揃い、あとは東京に行って豪に選んでもらおうかと一息ついたが、「おまけ」のつもりで作ったはずの『ふたたび…東京』が、のちに私と息子の進の間柄に大きく影響を与えようとは、その時点ではわかろうはずもなかったのであった。


「進の高校選び」

 私が福岡に来て、そこで再会した旧友・大月豪を信じてついていく形でいろいろな経験をしたが、その頃は私のこれまでの人生の中でも屈指の激動の期間だったかもしれない。
 しかし、そういう節目の時期だったのは、私に限ったことではない。
 故郷の青森を離れる時、小学4年生であった息子の進が私に「一緒に行く」と言い、以降、全国をまわる足取りをともにしてきたが、その進も福岡の前の高松に来た時に中学3年生となっていた。
 進は中学を卒業したら、どうするつもりなのか──それは親の私にとっての懸念の材料となっていたわけだが、今回はおもに私のことよりは、進が高校を受験するまでのいきさつを、少々時計の針を戻したうえで、たどってみようと思う。

 私は青森の中学校を卒業してすぐ、上野行きの夜行列車で歌手を目指して上京したのだが、その前に高校は受験して合格もしていた。
 そのため、進学せず合格通知を反故にしたとはいえ、一応私にも受験勉強の経験はあることになるが、なにせそれから二十年以上の月日が経っているのだから、自分の時のことが進へのアドバイスとして通用するかといえば、時代が違いすぎてちょっと無理であろうことはわかっていた。
 そして、結局高校には行かなかった私がどうなったかといえば、流しの歌手から始め、民謡への復帰、クラブ歌手への転向などいろいろあったものの、なんとか生活ができているのは事実であるが、それはあくまで私に音楽という技能がそれなりに備わっていたからこそのものである。
 思い起こせば、私は民謡歌手を父として生まれ、その父の再婚相手である義理の母に、連れ子の弘とともに民謡を幼い頃から叩き込まれていた。それが無駄にならず、「芸は身を助ける」の諺を地でいっているのは、これまでの話で分かっていただけると思う。

 ひるがえって、進はどうか。
 私の母がしたように、子供に対してなにか特訓をしたかといえば、私は進に対しては特にしていない。
 進を見ていて私が感じていたことのひとつに、「学校が好きそうだ」というものがある。
 私が日本各地を転々としていたのに伴い、進も小学生の時から転校を繰り返して中学時代に至っているが、全般的にみると可能な限り、登校して授業も普通に受けているようであった。
 私は進に対しては、学校にちゃんと行けと促したことはほとんど記憶にないし、言う必要のある場面自体がまるでなかったと思っている。つまりそれは、新しい環境に溶け込みやすい性格が進にとって生来のものであったからかもしれない。

 もっとも、それには一方では生活環境も原因としてあると思う。
 私と進が全国各地をまわる際、住居にしたのは主に賃貸のアパートであったが、間取りとしてはどこもあまり広いものではなかった。
 私も進も男であることから、妻や娘がいる家庭とは違い、お互いのプライバシーに関する面であまりこだわりがなかったのも一因であろうし、さらには転居に備えて持ち物の量を抑えていたこともあるだろう。
 実際、私は生活に本当に必要なもの以外はほとんど家におかず、せいぜいギターと三味線、それに歌本が少々加わっていたぐらいで、息子である進についても、かさばるような遊び道具は持たせなかったし、進自身もあまり私に求めてはこなかった。

 その進の場合、「友達の所に行ってくる」と言って出かけていくことが多かったので、おそらく遊び場所はそんな形で確保できていたのだろうし、私もさして心配はしていなかったものである。
 で、進に対して私がしてやったことといえば、一緒に家にいる時などは、進に「聴きたい歌があるか」と訊ねてギターで弾き語りしたり、あるいは「何か歌いたいか」と聞いて、進が歌うのに伴奏をつけてやることも多かったが、決して稽古のように強制することはなかった。あくまで進が楽しんでくれればそれでいいのであるし、そもそも私が進にしてやれることなど、それぐらいしかなかったのだから、何とか親としての面目は保てたかなと思っている。

 そんな進も、福岡に来た時には中学3年の2学期を迎えていた。
 その時期の中学生なら誰でも、高校受験のための勉強をしなければならない状況にあるというのは私にも感じ取れていたが、進のほうにしてもそれは十分承知をしていた様子だった。
 夜、私がクラブ歌手の仕事が非番で家にいる時などに進を見ていると、確かに遅い時間になるまで参考書とノートを前にして手を動かしている後ろ姿が私の目に入ってきていた。
 では学校の放課後の、日が出ている間はどうしているのかと聞いてみたところ、校内の図書館で勉強していると言い、他に日曜日などは公立の図書館でやっているとも話していたが、家以外の場所をうまく利用しているんだなと感心したものであった。
 
 さて、その進はどこの高校を受験するのか。
 1994年の11月を迎えた頃の段階では、地元・福岡の学校を受けるつもりだと本人が言っていた。
 もし、合格して進学したとしたら、進は3年間はそのまま福岡にいることになるが、私も同居するのかというと、最初は私はそれは違うと考えていた。
 私は青森を出てからこの福岡に至るまで、北は北海道、南は長崎という範囲を転々としていたのだが、福岡の次はどこに行こうかという、その候補地も頭の中にいくつか浮かべていたのであった。
 なかでも最有力の候補だったのが、福岡と同じ九州といっても地域としてははるかに遠くの沖縄であったのだが、どこであれ私が福岡を離れた場合、進はどうなるのか。
 で、いざそれをシミュレートしたところ、中学までと違って義務教育でなくなる高校では転校は難しくなるだろうから、学費以外にひとり暮らしのための家賃などの生活費も、3年間私が仕送りしなければならない。
 となると、私と進が別々の土地で暮らすことで、それぞれの家賃を払わなければならなくなるのだが、その点で二倍の費用が必要なことは、家計上の大きな問題となる。
 特に、福岡で当時私と進が住んでいたマンションは、その前の高松までの各地で借りていたアパートなどと比べて、多少家賃が高かった。ではなぜそのような部屋を選んだかというと、やはり進が高校受験を控えているからで、防音性が高く勉強しやすい環境にしてやりたかったという考えの結果といえる。
 そう思うと、福岡に進と一緒にとどまり、同居で暮らすほかないだろうな、沖縄などの他の土地へ行くのは断念したほうがいいな、という考えが生じてきたのであった。

 そんなところに、11月の半ばに来ての、中洲での大月豪との再会があった。
 そのあとに豪と私がモツ鍋屋で会食したことは既に述べたが、豪の話の中に、「どうだ、東京に来いよ」というニュアンスのフレーズがたびたび出てきていた。
 私も、豪のその気持ちは汲み取ることができ、福岡にに居続けることより、東京への帰還のほうが一気に最優先の選択肢として浮上してきた。
 それが進の高校選びの話にも波及し、「進の意志を反映してのこの福岡か、さもなくば私の都合による東京」という二択となるのに時間はかからず、進本人にもその了承を取り付けることができたのであった。

 さて、まず地元の福岡に関しては、どこの高校を進は受けるのか。
 そのことで候補になったある私立の学校を、仮名としてK高校としておくが、そこを選んだ理由に、進の個人的な話が出てくるので、一応本人の了解が得られたことをおことわりしつつ、ここで述べさせていただく。
 
 福岡での進には、彼女がいた。
 進が転入した中学のクラスメイトで、来てすぐの進と何かの縁で仲良くなったらしい。
 彼女は、福岡という土地柄を反映してか音楽のロックが好きで、アマチュアバンドのギターとボーカルをつとめていた。
 私は一度、進が彼女を私の家に連れてきたときに対面しているが、歌と演奏はアマチュアにしてはなかなかの腕前だったし、なにより顔が美人なうえにスタイルもプロのモデル並みだったことに驚いたものである。
 その彼女が進学先の高校として視野に入れていたのがK高だが、そこには芸能科という学科が設けられており、いわゆる一芸入試のような形での受験もできるといい、彼女がそこに狙いを定めていたことを進も聞き、同じところに入りたいという気になったのだという。

 一方、東京のほうで進が受ける高校は、豪とも相談した結果、ある学校に決まったが、そちらについては後に詳しく触れることになりそうなので、ここでは説明は割愛する。

 そして、進の受験の成果はどうだったか。
 次章は、その話からさせていただくことにする。


「進が受験で東京へ」

 私の息子の進の進学高校の候補として、福岡と東京のそれぞれの学校が挙がったが、受験することを決めた経緯について、もう少し詳しい話をしたい。
 
 まずは、地元福岡のほうから。
 進に福岡での彼女がいたことは少し触れたが、その話の続きを書かせていただく。
 彼女が私の家に来たのは、私と進が福岡に転居してからひと月ぐらい経っていたであろう、1994年10月のある日曜日のことだった。
 進が転入した福岡の中学で、たまたま同じクラスになったことがきっかけで親しくなったそうだが、その彼女が進の父親である私に会いたくなって家まで来たということらしい。
 なぜそうなったかというと、進が彼女と話していて、「あんたの親御さんの仕事は?」と聞かれて、「親父?歌手をやっているんだ」と素直に答えたところ、アマチュアバンドをしている彼女が私のことに興味を持ったからだという。
 もっとも、進によると、親の私が歌手であること彼女に言ったのは、ついうっかりとぽろりと話してしまった答えだということらしい。
 というのも、彼女が好きな音楽は、70年代後半のブリティッシュロックやバロック音楽などで、歌謡曲は嫌いと言っていたらしく、私などはまさにその歌謡曲の歌と演奏で生計を立てていたのだから、進にしてみれば、「ちょっとまずいかも…」というのが当初の心境で、彼女を私に会わせるのをためらったのは事実らしい。
 結局、私のマンションに姿を現した彼女だったが、私のほうとしても来てしまったものは仕方ないと思い、彼女の前でのギターの弾き語りは、なるべく演歌色の強い曲は避け、アップテンポのものを中心に披露することにした。
 そしてひとしきり歌い終えたあと、彼女が「歌謡曲はやっぱ、あんま好きじゃないんだけど、あんたがやるのなら、ちょっといいかもしれないと思うんだ」と私に言ったのは、少々救われた気持ちになる言葉であった。

 さて、前置きが長くなったが、私と進と彼女が一堂に会したその場の会話の流れの中で、中学を卒業したら進路をどうするかという話も出てきた。
 彼女が私と進に言ったのは、「あたし、勉強はさっぱりダメだから、普通の勉強じゃどこにも入れないと思うんだ。だから、音楽で受けられるところにするよ」ということで、具体的な志望先としてK高の芸能科を挙げた。
 そして続けて、「あんたは?」と話を向けられた進が「僕もK高にしたい」と言ったのに対して、私が「おまえは無理だろが」と突っ込んだところ、「いや、だから芸能科じゃなくて、普通科のほうで」と進は返答してきた。
 「学科が違っても、同じ高校なら会えなくはないと思うし…」とのことだったが、いずれにせよ進が受験する福岡の高校は、そのようにして決まったのだった。

 一方、東京の高校についてはどうか。
 こちらの話が動き出したのは、11月半ばに私が大月豪と再会を果たしてからであった。
 中洲のモツ鍋屋での会話の中で、私に息子がいて名前は進ということを豪に話していたが、中学3年で高校受験をひかえていることもその場で伝えていた。
 「そうか、受験が近いのか。で、進君はどこを受けるか、決まっているのか」との豪の問いに私は「いや、進は福岡の高校に行きたいようなんだが…」と答えるしかなかったのだが、豪は「稔、おまえはいずれ東京に来ることになると俺は思っている。だから進君も、東京の高校に進んでもらうほうがいいんじゃないかな」と私に返してきた。
 つまり、その時すでに豪の頭の中には、私をデビューさせるプランが立っていたということになるが、続けて豪は私にこう言った。
 「とりあえず、進君がどれくらい勉強ができるのか知りたいから、成績の資料が欲しいな。まずはこっちに郵便で送ってくれないか。宛先は、唱道興業内・大月豪とすればいいから」
 その言葉に従い、進が中学に入ってから何度か受けていた全国模試の成績表を用意し、封筒に入れて豪にあてて郵送したのであった。

 返事が来たのは、それからひと月ほどした、年の暮れごろであったろうか。
 封筒の中身に書かれていた話は、次のようなことだった。
 「…届いた資料を、知り合いで予備校の講師をやっている人に見せたんだが、俺が相談したところ、進君は『私立天河大学附属緑が丘高校』を受けるのがいいんじゃないかなということになったんだ。その高校のパンフレットを同封したから、それを進君にも見てもらって、気に入ったようならこっちに連絡してくれ。願書を送るから──」
 そしてその天河緑が丘高のパンフレットを進に見せ、あわせて私が東京に行くことになりそうな話についても伝えると、進も了承したようで、「ここを受けることにするよ」と言ったのだった。

 ではなぜ、天河緑が丘高への進学を豪は薦めたのか。
 もちろん、進の模試成績などの資料を見せていたのだから、それに合わせて学力に妥当なところを選んだのもあるだろうし、進がすでに福岡のK高を志望先にしていたことも豪に言ってあったから、試験の日程が重複しないようにしたのも理由として存在しているのだろう。
 そういった諸般の事情をふまえ、専門家である予備校講師と相談のうえで決めたと、そんな流れであったことは確かだろうと思う。
 
 年が明けた1995年1月下旬、進の福岡の彼女が、K高の芸能科の試験に合格した。
 中学校からマンションに帰ってきた進が、私にその話をしてきたのだが、芸能科のほうは普通科にくらべて受験の日程が早く、1月中に行われる。 
 私は、「それじゃ進、おまえも同じK高に合格できるよう、頑張れよ」と、普通科の試験に向けて進に発破をかけてやった。
 
 そして迎えた2月、福岡のK高と、東京の天河緑が丘高の試験に臨む進の背中を、私は見送ることになった。
 K高のほうは福岡市内だから、試験会場へ行くのはたやすいのだが、問題は天河緑が丘高のほうである。
 福岡・羽田両空港の往復の航空券や、東京での宿泊先の手配をしてやったのは私であったが、それらについては1月末に私自身が東京の唱道興業へ出向く際にしたことが参考になったといえる。
 あとは本人次第だ──と、私も進の後ろ姿を見て、自分にそう言い聞かせていたのだった。

 で、進の受験の結果はどうだったのか。
 まずK高だが、こちらは不合格であった。
 豪はK高については、「進君の学力なら、おそらく大丈夫だろう」と私に言っていたのだが、それでも進は落ちてしまった。
 むしろ、天河緑が丘高のほうが、「多少、冒険になるが…」とのことだったのだが、そちらに合格したのだから、受験というものはわからないもんだな、と改めて感じたものだった。

 ともあれ、K高に落ちて天河緑が丘高に受かったことで、進の東京への転居も確定したのであった。


「福岡を発った日」

 「父さん、ギター教えてくれない?」
 進が私にそう言ってきたのは、進の高校受験の結果が出て間もない、1995年の2月半ばのある日のことだった。
 飛行機で上京して受験した天河緑が丘高に合格し、表情の緊張がほぐれた様子が私の目にも見てとれていた進であったが、試験前ほどではないもののまた眼差しに多少の真剣さを持って、私にギターの教えを請うてきたのだった。

 そのときの私はすぐ、以前私のマンションにやってきた、進のあの福岡の彼女に関係して何かあったのだろうとピンと来て、進に話を向けたところ、図星であった。
 進は私に、いきさつを話した。
 進が中学校の職員室へ、天河緑が丘高に受かったことを担任に報告に行った際、「おめでとう」のねぎらいの言葉のあとに、付け加えて言われたことがあったという。
 それは、3月13日の卒業式の謝恩会の実行委員を、彼女とともにやってくれないか、ということであった。
 すでにK高の芸能科に合格していた彼女ではあったが、中学の卒業のほうに関しては、出席日数や素行などにおいてまだ不確定要素が多く、学校側としても、お目こぼしをしようと、実行委員をつとめることを条件として出してきた。
 それがなぜ、ギターの手ほどきを進が私に求めてきたことに関連しているのかというと、「謝恩会の場で、彼女とその同級生のバンド仲間達とともに、ライブをやってみたいと思いついたから」と進本人の口から私に語られ、いちおう納得がいった。
 もちろん、学校の放課後などにも進がギターを彼女に教わっていたらしいのだが、家に帰ってからも練習をしたいということで、私にもあらためてレッスンを求めてきたのだった。
 そのようなことから、あくまで私のできる範囲で進にギターの手ほどきをしてやったのだった。

 「ところで進、東京の高校に行くことは、伝えたのか」
 ギターを教えている際に、私は進にそう聞いたのだが、それは説明するまでもなく、あの彼女に言ってあるのか、という話である。
 そのことで進は、「“K高には落ちて、別の高校に行くことになった”とだけ言ってある」と私に話したのだが、「別の高校」というのが東京の学校であることまでは彼女に言えず、聞いた彼女のほうも、「学校は違っても、同じ福岡にいるんだから、また会えるよな」と進に言ったのだという。
 それに対して進は、彼女の言葉を否定はせずに、「う、うん…」と言葉を濁したらしいが、その場面ではそうするしかなかったというのも、後で私に進が述懐した話であった。

 さて、そうしているうちにも時は経ち、翌日に進の卒業式をひかえた、3月12日となった。
 住んでいたマンションの賃貸期限は偶然にもその12日までだったので、数日前に大家に部屋に来てもらい、敷金の返還額の取り決めなどをしておき、その状態で当日の最終チェックを受けるのに臨んでいた。
 そして、午前中に軽トラックをレンタルして荷物を積み込み、大家との間で部屋の引き渡しの確認をし、夜は進とふたり、市内のビジネスホテルに泊まることにしたのであった。
 
 迎えた翌3月13日の朝、進はホテルから卒業式の会場に直行したが、私のほうは、ホテルの駐車場に置いてあったトラックを運転し、昼すぎの謝恩会が終わるころに会場に乗りつけ、そのそばの別の駐車場に止めておいた。
 しばらくあって、会場をあとにしてトラックのもとにやってきた進を助手席に乗せ、私はハンドルを握り直して発車させた。
 車の向かった先は、博多駅に程近い引越し業者の店舗で、着いて荷物をひとつづつ降ろし、東京へ送る手続きをしたのち、空になったトラックを、借りた所まで走らせて返却し、あとにはお互いカバンひとつづつを手にした私と進だけが残ったのであった。

 夕方、所は変わって福岡空港。
 手荷物を床におろし、私と進は豚骨ラーメンを注文した。
 私が豪と出会って食べたモツ鍋もそうだったが、こちらもまた福岡の名物として名高く、ある意味この土地への名残惜しさを心に持ったうえでのオーダーを、空港の中の一軒の店でしたのであった。

 「で、ライブはうまくいったのか」
 その席で私は進にたずねたが、前述の通り、それは謝恩会の場でのことについての質問である。
 「うん、盛り上がって、大成功だったよ」
 それが進の答えだったが、さらに、あの彼女のロックの絶唱をギターでサポートするのを何とかこなすことができ、客席も意表を衝かれたせいなのか、熱気で興奮のるつぼと化したとも私に話した。

 「そうか、よかったな」と進に言ったあと、彼女のことについて気になる点があったので、それも聞いてみた。
 「ライブが終わって、別れる時、なんか話したのか」
 そう進に話を向けたところ、「僕が東京の高校に行くことは、ようやくその時になって言ったんだ。そうしたら、『嘘だ、なんでだよ、信じられない』ってね」との説明があったが、私が以前彼女に会った時、その男勝りな性格を感じとれていたこともあって、進に問い詰めて叫んでいる様子が目に浮かんできた。
 進も彼女も、お互いつらかったんだろうなと私は思ったが、彼女はともかく進は、考えてみればそれまで転々としてきた全国各地でも、それぞれの場所で女の子と付き合っていた様子が私にも垣間見えていたから、ある程度は慣れていたのかなというのも、振り返っての私の感想であったのだった。

 羽田行きの飛行機の席に着くと、進はすぐ眠りについた。
 ライブがうまくいって、ほっとしたというか、ある意味完全燃焼したこともあろうが、進自身の達成感の要素は、他にもあるだろうと私は思った。
 ラーメンを食べたあと、搭乗を待つロビーで、「あ、そういえば、これこれ」と言って進が私に見せたのは、筒に入った卒業証書であった。
 進は小学生時代にも、確かにすでに多くの回数の転居をしていたが、4年生の途中までの3年間あまりは青森にとどまっていた。それに対して中学時代はというと、最初から最後まで転校のし通しであったから、その中で何とか卒業を果たせて、進も自分のことを褒めたい気にもなっていたのであろう。
 そのように、隣の窓際の席の進の寝顔を見て私は思った。

 一方の私は、カバンの中から、福岡のマンションで作った3曲の歌詞と楽譜を取り出した。
 もともと、このたびの東京行きも、自作の歌を唱道興業マネージャーの豪や、テイトレコードの関係者に見せる目的があり、その内容をあらためて機内で自己チェックすることにしたのだった。
 ひととおり目を通して、ここまでは自分で納得がいくものにした、あとは豪たちの指摘を待とうという気になったが、3曲のうちのひとつ、『ふたたび…東京』の歌詞の最後の部分を読み返して、ふと考えた。
 「やっぱり最後は ここの街なんだな」「俺の死に場所と 決めたのさ」の語句は、まさに今、東京に行こうとしている自分の心境とぴったり重なるのではないか、と。
 そして、「夢をこの手で つかんでみせる 今度こそ」の締めの言葉を見つめ、そうだ、俺はやってやるぞ、と右手のこぶしに力を込めた。

 夜のとばりの中で、機体も私の心も、一路東へと向かっていたのであった。


「豪の三鷹の一軒家」

 私と進が乗った福岡空港発の飛行機が羽田に着いたのは、夜の9時ごろだった。
 その日、進は福岡の中学の卒業式の謝恩会で、バンドの一員としてギターを無事こなせたようだが、緊張による疲れのためか、機内ではずっと眠っていた。
 「進、羽田だぞ」と、隣の席の私が起こし、忘れ物がないか確認して、到着ロビーに連れていった。
 そしてモノレールに乗り、終点の浜松町駅近くのビジネスホテルに投宿し、1995年3月13日という日は終わった。

 翌朝、チェックアウトを済ませた私と進はそれぞれカバンひとつずつ持っていたが、私はそれに加えて、福岡空港で預けて羽田空港で引き取ったギターも肩にかけていた。
 そもそも今回の上京は、私が歌を作って、それを大月豪と検討のうえテイトレコードに提出する目的もあったのだから、ギターは持っている必要があった。
 浜松町駅からはまず山手線で東京駅まで行き、そこから中央線に乗り換えて、30分あまりで三鷹駅に着いた。
 ホームから階段をのぼり、中央改札口を出て左手で5分ほど立っていたところ、声がかかった。
 「おう、稔だな、お待たせ」
 その言葉とともに、豪が姿を現したのだった。

 この3月14日の午前11時に、三鷹駅で待ち合わせをすることについては、私と豪との間で事前に決めてあった。
 2月7日ごろに福岡の私のマンションに届いた豪からの手紙の中に、いつ東京に来るのか教えてほしいという話があり、私は進の中学の卒業式が3月13日にあることなどを考慮し、その翌日の14日に行くという返事を豪に書いた。
 それに対する豪の返信は2月下旬に来たが、時間や場所について指定がしてあり、記載内容に従っての行動を東京の地でとったというわけである。

 「やあ、君が進君か。合格おめでとう」
 豪は進にも、そう声をかけてきたが、ふたりが顔を合わせるのはこの時が初めてだった。
 もともと、進について、「東京の天河大緑が丘高校を受けさせてはどうか」と私にすすめてきたのは豪であり、福岡と東京、つまり私と豪との往復書簡で段取りが整い、できたレールと自身の努力により、進は合格を勝ち取ったのだった。
 
 「ありがとうございます。おかげさまで進学先が決まりました、大月さん」
 その進の礼の言葉に、豪が返した。
 「豪でいいよ。それじゃ、今後ともよろしく」
 進と握手ののち、駅の南口への階段を降りていく豪に私と進はついていき、三人でタクシーに乗り込んだ。
 「そんなに遠くないから、すぐ着くよ」と言った豪は助手席に、私たち親子は後部座席につき、車は動き出した。

 「着いたぞ、ここが俺んちだ」
 豪の家が三鷹市内のそこにあることは、私が福岡にいた時にすでに知らされており、そのため、博多駅近くの引越し業者のところにトラックで荷物を預けた際なども、送り先として「東京都三鷹市…大月豪様方」と指定してあったのだった。
 「豪の家なら、これが本当の『“豪”邸』だな」などと私は手紙に冗談を書いたこともあったが、いざ目にした私はどう感じたのか。
 立地としては、いわゆる“閑静な住宅街”といった感じで、ごく普通の一軒家が立ち並んでいる中にある。
 大きさ自体は、周りの家とそう変わりなく、特に目を見張るほどではないが、小奇麗で、それなりに金をかけて建ててあるようだ、というのが、豪の家への私の第一印象だった。

 私と進が玄関からお邪魔すると、豪は二階にのぼり、ついてきた私たちに言った。
 「ここが稔の部屋で…進君はこっちだ」
 どちらも六畳ほどだったが、進がカバンを置いて寝転がった様子を横目で眺めたあと、私は一階の応接間へ降りた。
 「それじゃ、歌を見せてもらおうか」
 テーブルをはさんで両側のソファに腰かけた私と豪、そこにはじめに出てきたのは、豪のその言葉だった。
 「おう、これだ」と私は、6枚の紙を手渡した。
 福岡で私が作った歌は、『東京の雪』『忘れえぬ街』そして『ふたたび…東京』の3曲だったとは既に述べたが、それぞれ歌詞と楽譜が別紙だったので、6枚になっていたのである。
 豪はまず、3曲の歌詞のほうから黙読をはじめたようで、およそ1分ぐらいかかったであろうか。
 「なるほど、わかった。じゃ、次はメロディーだな。ちょっと行こうか」
 それに対して「行くって…どこへだよ」と聞いた私に豪は、「こっちだ、こっち」と腰を上げた。

 一階の階段は、上向きのものだけではなかった。
 「ええと、楽譜は持ってるな、それとギターも」
 そう言った豪についていって、降りた先のドアが開いた。
 「どうだ、ここが音楽室だ」
 豪の言葉どおり、そこには、ギターやベース、さらにはキーボードやドラムセットなどが、およそ12畳ぐらいある空間の中に置かれていた。
 「へえ、こんなところもあったんだ。すごいな、豪の家は」
 「驚いたか? それじゃお前のギターで歌をやってみろよ、稔」

 このとき、3曲をどういう順番で弾き語りしたのかは記憶がはっきりしないが、ワンコーラスずつで5〜6分はかけたと思う。
 「なるほどな、そういう歌か。ま、俺が今聴いた感じでは、ちょっと直せば通用するものだと思うぞ。じゃ、ふたりで明日から検討していこう」
 豪のその言葉が、音響のよい室内にも、そして私の頭の中にも鳴りひびいていたのを今でも覚えている。

 夜、寝床で私は思った。
 そういえば、あの時も今と同じようなことがあったなあ、と。
 中学卒業後、歌手を目指して上京したものの方法がわからないまま、上野公園で野宿していた私のところに大月豪が現れ、「俺の家に来ないか」と誘われた。
 そしてそこから、流しの歌手への道が開けたのだが、その時も私はギターを今日のように携えていたんだったな、と振り返った。
 また、豪の棲家も、あのころの四畳半のアパートから、立派な一軒家へと変わっていたが、私の人生の節目節目になぜかタイミングよく現れて助けてくれる男、それが豪なんだなと、改めて感じた。
 
 「豪、お前の期待に応えられるように、俺もまた頑張るぞ」との心のまま、私は夢の中へと入りこんでいったのであった。


「豪がマネージャーになった理由」

 「やあ、おはよう。進君、稔も」
 大月豪のその声で、一日が始まった。
 前日の1995年3月14日、私と進は三鷹の豪の家に来てそのまま泊まったが、ひと晩明けた8時ごろ、ふたり順番に顔を洗い髪を整えるなどしたあと、食卓についた。
 テーブルの上には、ご飯と味噌汁、それに焼き魚がついており、昔、一緒のアパートに住んでいた時にも感じていたが、豪は相変わらずまめに作るもんだなと私は思ったものであった。
 
 「あ、そういえばまだだったね、進君、これ」
 そう言って豪がポケットから取り出したのは、のし袋だった。
 「はい、合格祝いだよ」
 14日に進が豪に初対面した時、「おめでとう」の言葉は確かにかけられていたが、その場面ではふたりは握手をしたにとどまり、ほかに授受したものはなかった。それが今日になって、豪がお祝いの入った袋を用意して渡すことができたというわけである。
 「これから、君のお父さんと俺で、歌についての打ち合わせをしていくつもりだけど、ちょっと忙しくなりそうなんで、退屈だったらそれで遊んできたらどうだい?」
 進からの「ありがとうございます」の礼の言葉を受けて豪はそう言ったのだが、のし袋にはそれなりに厚みがあって額は多そうに私の目には見えていたし、進にあまりかまってあげられなくなりそうなのも予想できていたので、豪のいうことはまあ、もっともであった。
 それに進は4月から高校生で、当時すでに背丈は170センチを超えていて、父親の私とほとんど変わらないぐらいあったし、体格としてもわりとがっちりしていた。それで、ひとりで出かけていくことに私は特に心配してはいなかったため、「進、よかったな。東京見物でもしてこいよ」と言葉をかけて、背中をぽんと叩いてやったのだった。
 
 さて、私と豪での歌づくりの話に移りたい。
 前日に私が手渡した、3篇の歌詞を書いた紙を手にして豪が言った。
 「稔、あのあと読ませてもらったが、まずはこの歌詞について聞きたいことがあるんで、ちょっと説明してくれないか」
 豪が初めにとりあげたのは、『東京の雪』だった。
 「1番で、二階の窓まで毎年のように雪が積もってた、と書かれてるけど、おまえのふるさとでは本当にそうだったのか?」
 「ああ、俺の青森は確かにそんなだったよ。なにせ、日本の県庁所在地ではいちばん雪が積もるところだからな」
 私の返答に、「あ、そういえばおまえは青森の出だったな。なるほど、そうか。嘘じゃないんだな」と豪は納得した様子であった。

 「で、その青森について、こっちでも書いたというわけか」
 豪の質問は、『忘れえぬ街』に移った。
 「夏はねぶた祭り、冬はスキーか。1番は青森のことでまとめてあるけど、2番は大阪、3番で長崎に舞台を変えた。稔、これは?」
 私は答えた。
 「ああ。大阪も長崎も、俺は住んだことがある。もちろん全国をまわった時には他のところにも行ってるんだけど、1番の青森で“望郷”の話を書いたあと、他のテーマはないだろうかと考えて、“友情”と“恋愛”についても作ろうと思って、どこなら舞台としてふさわしいかと選んだのが、大阪と長崎だったんだ」
 豪は、「ああ、そういうことか。望郷、友情、それに恋愛とテーマを変えて、最後の4番は東京で昔を振り返っているってことか」とわかってくれたようだった。

 「で、最後はこれだな」
 3篇目の『ふたたび…東京』である。
 「“十五の春から…”ってのは、おまえが東京に出てきたのが、中学を卒業してすぐだったってことだな。で、十年でふるさとの青森に帰ったのか」
 私が中卒で、豪とは年の差がひとつあることはふたりとも知っているが、豪の問いに私は答えた。
 「いや、正確には13年いたんだけど、これはあくまでも歌なんでね、十年にしたんだよ」
 「じゃ、両親を失ったってのは、実際にはどうなんだ? 稔」
 私はそれについては、豪にはほとんど話していなかったので、そう聞いてくるのも無理からぬことであった。結局その場では、私の産みの母は私が幼い頃に亡くなっていたため、青森に戻ってからの父の死で、実の両親がともにいなくなった、という説明を豪に対してした。
 「わかった。そうだったのか。まあ、歌詞ってものは別に事実でなくても構わないしな。それに、1番、2番、3番っていう流れでのバランスもあるし、これはこれでいいと思うぞ」
 豪はそれに続き、「よし、歌詞はこれで決まりだ。じゃ、次は曲だな」と立ち上がり、地下への階段のほうに向かっていくのに私もついていった。

 音楽室で私はギターを手にし、3曲を弾き語りしたのを受けて、豪が言った。
 「うーん、メロディーはまあいいが、コードはちょっと直したほうがいいな、例えば、ここんとこはこう…」
 豪も私と同様に自分のギターを抱えて、楽譜を見ながら直すべきところを弾いて指摘してきたが、そういった箇所は3曲のそれぞれで2つか3つほどで、修正についてはそんなにかからなかったことを私は記憶している。
 
 そうした推敲のうえで作り上げた3曲をテープに吹き込み、テイトレコードへ郵送する準備を整えた私と豪は、応接間のソファにもたれていた。
 「稔、やっとだな。あとはあちらさんがどう思うかだから、ひとまずここで一息つこうか」
 確かに作るだけ作って、その先はあとで考えようという気には私もなっていたので、豪に「そうだな」と同意した。
 
 「ところで、俺について知りたいことがあるなら答えるぞ、稔」
 豪がそう言ってきたので、「じゃ聞くが、豪はどうしてマネージャーをやってるんだ? 歌手になるんじゃなかったのか?」との問いをぶつけてみた。
 豪は、「そうきたか。確かに気にはなるだろうな、じゃ話すぞ」と、昔語りの態勢になった。
 流しの歌手だった豪が新宿の街から姿を消したのは1978年の年明けごろだったが、その時、豪が作曲家にスカウトされたという話を私は周囲から聞いていた。そのことを豪に聞くと、「それなんだが…」と口を開いた。
 「レコード歌手にならないか、と言われたのは事実なんだけど、結果からいうと、なれなかったよ」
 私がそれを聞いて少し驚いた様子を見て、豪は次のような説明をした。
 ──その作曲家の内弟子になって3年ほどした時、「おまえ、マネージャーにならないか?」と言われたが、俺は歌手になるつもりで来たのだから耳を疑ったし、抵抗もあった。だけど師匠のいうことには弟子はまず逆らえないから、最後は俺も納得し、従った。それで唱道興業に師匠の推薦で入社し、マネージャー見習いから始めた──
 黙って聞いていた私だったが、その話を受けて、「それで、どんな歌手のマネージャーをやったんだ?」と質問してみた。
 豪はそこで、何人かの歌手名を挙げてきたのだが、いずれも80年代から90年代前半にかけて売れた、なかなかの大物の名前であることに私はまた驚いた。そして、豪がこのような音楽室付きの立派な家を建てられたことにも納得がいったのだった。
 
 「じゃ、なんでそんなお前が、俺のマネージャーになったんだ?」との私の質問にも、豪は説明をした。
 それは、歌手の発掘のために、唱道興業の関係者の話を聞いて福岡に飛んだが、候補者を実際に見たところ、豪としては感触がいまひとつで、採用を見送った。そんなところに、私こと秋村稔が福岡で歌っているのを知り、急遽、唱道興業に代わりとして報告したのだった。
 ということは、もしその歌手志望者が豪の御眼鏡にかなっていたとしたら、私はデビューのきっかけをつかめなかったかもしれず、あらためて自分の運のよさに感謝したのであった。

 「俺が果たせなかった歌手デビューの夢を、おまえに実現させてやりたいんだ、稔」との豪の言葉が、私の心にずしりと重みを与えて、その3月15日が終わろうとしていたのであった。


「隅田音楽出版への再訪」

 たくさんのボートが出ている池の周りは、花見客のシートであふれていた。
 その井の頭公園は、豪の家からはさほど離れておらず、豪と私それに進で、自転車をこいで出向いた。
 1995年の4月初頭、都内の桜の名所のひとつであるそこで、進の高校進学祝いを兼ねての花見を三人でしたのだった。

 それと同じ頃、テイトレコードから豪あてに手紙が届いた。
 内容は、3月にテープと歌詞・楽譜を送った3曲のうち、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を採用したいという意向がまず書かれており、加えて、「原盤権をうちで持たせていただくかわりに、唱道興業さんへはアーティスト印税をお支払いする」とあった。
 ここで、原盤権という言葉をはじめて耳にされた方もいるかもしれないが、そもそも原盤とは、音源を収録してある、テープなどのマスターのこと。それを使って、昔ならレコードやカセット、今だったらCDを量産することになるが、その原盤を所有する権利が原盤権である。今回の場合、原盤制作費を出すテイトレコード側がそのまま原盤権の所有者となり、原盤を永久的に使うことができる。そして私のCDが売れるたびに、テイトレコードの収入の中から1枚あたりいくらという形で唱道興業に金が振り込まれ、もちろん私にもいくことになる。

 
 もちろんこれはきわめて簡略化した説明で、実際のところはその何倍もの複雑さがCD制作の過程において存在しており、そういった法的な事務処理をしていく役割を、マネージャーとして豪が担っていたのだった。

 「それと、音楽出版社はどこにする?」
 豪は話を次に移したが、これは『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲の楽曲そのものについて、どこに権利を持ってもらうか、ということである。
 私はそのとき即座に、「隅田音楽出版にしてくれ」と答えたのだが、その会社名がこの私の文章の中に既に出てきたことを覚えておられる方はいらっしゃるだろうか。
 一度帰った故郷の青森をあとにして、仙台を皮切りに全国を転居してまわった私だったが、その中で、東京の浅草と隅田川をはさんだ、対岸の墨田区に住んだことがあった。
 進とふたりで落語を聴きに行った浅草演芸ホールで、進の中学の同級生の光村むつみと出逢った話も以前書かせていただいたが、当時私が勤めていたのがその隅田音楽出版だったことも、御記憶でなければこの機会に読み返されてはいかがかと申し上げたい。

 「えっ、隅田音楽出版? どこだそれは、稔」
 豪は私の答えにやや戸惑ったようだが、確かに社員が十人をやや超えるぐらいの、特に大きくはない会社だったので、豪が知らなかったのも無理はないかもしれない。
 「あ、おまえに言ってなかったか。その隅田出版は、俺が昔働いていたところで、場所は浅草だよ」
 「へえ、お前は音楽出版社にもいたのか。じゃあそこでいいか」と豪はすぐにアポを取って、出向く準備にとりかかったのであった。

 その日は、駅は三鷹ではなく、この章の冒頭で舞台となった井の頭公園に近い、吉祥寺を使った。
 井の頭線で渋谷へ行き、そこから地下鉄銀座線に乗り換えたのだが、両線とも起終点間を丸々乗り通すために混雑時でも座って行け、その点は楽だった。

 浅草駅から少し歩いて着いた隅田音楽出版は、私がいたころと変わらない佇まいに見えたが、あれからまだ3年ぐらいしか経っていなかったので、それも当たり前かな、と思った。
 
 応接室に出てきた男性社員は、当時の私の同僚であった。
 「やあ、秋村さん、お久しぶりですね」と、丁寧ながらも親しみのある口調で私に話しかけてきたが、それもまた以前と変わらぬもので、懐かしさを感じた。
 一方で、私の横にいた豪に対しては、やや緊張した様子での応対をしていたが、業界ですでにマネージャーとしてそれなりの実績をおさめている人物と意識して、慎重になっているのが見てとれた。
 
 「秋村さんは今回、自作の歌でCDを出されるとのことですが、その2曲を御紹介いただけますか」
 そう言われた私が「あ、少々お待ちください」と答えると、横の豪がすぐ「これです」と言ってカバンから歌詞と楽譜を取り出して提示した。
 男性社員はしばらく黙読したのち、顔を上げて、「なるほど、テーマは“東京”ですか。これは秋村さん自身のことを歌にしたのですかね」と聞いてきたが、それに対して、「まあ、そんなところです。もっとも、歌詞の形にするために少々脚色はしていますが」と私は答えておいた。
 「あとは、こちらにテープも作っておきましたので、お渡ししておきます」と、3月にテイトレコードに送った、私が演奏と歌を吹き込んだカセットと同じ音のダビング版を豪が出すと、男性社員は「では、こちら一式を預からせていただき、検討いたします」と受け取り、その日の隅田音楽出版でのやりとりが終わった。

 帰りの電車の中で、ロングシートの私の横に腰かけた豪が言った。
 「なるほど、おまえがいたという隅田出版って、俺は今回初めて行ったけれど、感じのいいところだな。今後、唱道興業のほかの歌手の歌をつくる時にも、付き合ってもらうのもいいかもしれないな」
 豪は隅田音楽出版をだいぶ気に入ったようであったが、確かに以前私が在籍していた時にも、雰囲気がよくて勤めやすいと感じていたから、そのことが今回、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を持ち込む相手とした理由のひとつであったとはいえる。

 ただ、隅田音楽出版を選んだ理由として、もっと大きいものは他にあった。
 それは、私がそこを退社する際に、社長から現金100万円を受け取っていたことである。
 そのいきさつについても、この『三たび…東京』の中で以前触れているが、当時社長は「このことは私と君、ふたりだけの秘密だぞ」と私に言ったうえで札束を渡したのだった。
 単に、そこで働いていたというだけなら、義理という面ではさして気にすることもないのかもしれないが、あれだけの大金をもらったとなれば話はまるで違ってくるし、現実問題として、別の音楽出版社に曲を持ち込んだりしたら、デビューの時に何らかのトラブルが生じてしまうおそれもあったというのが、事情として存在していたのである。

 もっとも、その100万円の件については、社長との約束を守り、豪にさえもこれまで一切話さなかったが、本書『三たび…東京』は、私の真実の履歴を明かすのが執筆の目的であったのだから、今回社長側からの了承を得たうえで世間様に公表することになった次第である。

 以降、私の作る歌は一貫して、隅田音楽出版と契約を結ぶことになるのだが、そこにはこの章で申し上げたような経緯があったのである。


「吹き込みの日」

 金魚鉢の通称をもつガラス張りの室内にいるのは、私ひとりだった。
 ガラスの向こうには、豪のほかにテイトレコードのディレクターなど、あわせて数人がいた。
 1995年の5月8日、私は都内のあるスタジオでレコーディングに臨んでいたのだった。

 4月上旬に隅田音楽出版に出向き、『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲を持ち込んで契約にこぎつけたことにより、歌の権利関係に一応のかたがついたのだが、そのすぐあとで豪に言われた。
 「それじゃ、この2曲の歌詞と楽譜で、編曲に進むことにするぞ」
 私が「えっ、俺がやるのか?」と聞いたところ、「いや、おまえはやらなくていいんだ。知り合いの編曲家のところに頼むから」と豪は答えた。
 「でも、ここまででいいのか?」と続けての私の質問に対しては、「大丈夫だ。もうすでにおまえは“作曲”をやりとげたのだから」とのことだったが、作曲と編曲の境目がどこにあるのかという私の疑問については、豪は次のような説明をした。

 ──そもそも作曲というと、なにかいろいろと複雑な決まりごとのある小難しいもののように考えてしまいがちだが、実際は必ずしもそうではない。
 それこそ、鼻歌をうたっただけでも、立派な作曲にあたるわけで、楽譜にするのであれば、できる人に聴き取ってもらい、作成を任せればいいだけのことである。
 実際、歌の作曲者として名前が記されていても、本人は楽譜が読めないなんていうケースも存在しており、それはそれで特に問題はない。
 だから、イントロやコードがなくても、歌詞の部分だけでもメロディーをつけたのであれば、胸を張って作曲者と言っていいのである──

 黙ってその豪の話を聞いていた私だったが、とりあえずは自分が作曲と呼べるだけの最小限のことはしていたとわかり、一応の納得をした。
 そして、「カラオケができたら、そこにおまえの歌をかぶせるから、その準備として練習しておけよ」と豪が最後に付け加えた。

 そのカラオケは、4月の終わりごろにでき、テープが豪の家あてに届いた。
 数えてみると、制作期間は二十日に満たないことになるが、豪は「どうだ、早いだろ。今回頼んだ編曲家のチームは、仕事の迅速さに定評があるところなんだ」と、やや得意気だった。
 私は、「確かに早いことは早いが、出来はどうなのだろうか」と思い、実際に聞いてみたくなり、豪にテープをステレオセットににかけてもらうことにした。

 まず、『東京の雪』である。
 イントロの入り方は物静かだったが、もともと私が作曲した時も出だしをしっとりとした感じにするのを意識していたため、イメージ通りだった。
 そのあとは全体にスローなテンポで、歌詞にあるような都会の雪の日を髣髴とさせるアレンジになっており、うまく構成ができているなと私は感心したものだった。

 では、もうひとつの『ふたたび…東京』はどうか。
 こちらのイントロは、『東京の雪』とは逆に、豪快な音で始まっており、聴いた私も一瞬びっくりしたが、それも聴き手をひきつける効果があるのだなと納得した。
 そして、以降はスピード感のあふれる、乗りのいいアレンジで突き進んでいくが、その点においても『東京の雪』と好一対をなしており、編曲スタッフのバランス感覚をはっきり認識することができたのであった。

 2曲のカラオケを聴いてみると、あらためて「これが俺の作曲したものなのか、あれがこうまで立派なものに出来上がってしまうとは、編曲の力って凄いんだな」という感情が湧き上がり、豪に「いい、本当にいいよ。気に入った」と率直に言った。
 「じゃあ、これでいくか。さっそく、吹き込みのスタジオを手配しよう」と力を込めて私は答えたのであった。

 そして、迎えた5月8日。
 家を出る時、豪は私に「いよいよ、この日が来たな。頑張ろうな」と声をかけてきたが、私が緊張しているのをほぐそうとしていたせいか、以後は歌そのものについての話はあまりせず、世間のことの雑談が中心となっていた。
 確かに、4月が終わっての月初めは、カラオケを何度かけたかわからないほどに歌の練習に集中していたから、あとはいかに平常心になれるか、それが重要なのだろうと思い、豪の気遣いが十分にこちらにも伝わってきていた。

 スタジオで私と豪を待っていたのは、テイトレコードのディレクターと、そのほか助手を含めたスタッフ数人であった。
 挨拶のあと、設備の説明を受けた私は、「秋村さん、その部屋にお入りください」というディレクターの言葉に従ってドアを開けて進み、ヘッドホンをつけてマイクの前に立った。
 「では、練習からいきましょう」の言葉がヘッドホンから聞こえてきたが、さすがにいきなり本番というのもないだろうからそれは当然と思い、気楽にいこうという心持ちになれた。
 やがて、『東京の雪』のイントロが流れてきたが、あくまで練習なのだから失敗しても大丈夫という感覚があり、そこには緊張のほぐれた、落ち着いてリラックスした状態で声を出している私がいた。
 続いての『ふたたび…東京』になると、喉もだんだんと慣れてきたのか、『東京の雪』になかったような高音の箇所でも声がかすれたりはせず、伸びやかに歌っていくことができ、むしろ「これが本番だったら…」と私自身がやや残念がる部分もあったものだった。

 そして、「では、本番に入ります」とのディレクターの声とともに、いよいよだなと心を切り替え、姿勢を正した。
 以降、その「本番」は何回ぐらいやったのだろうか、正確にはわからないが、2曲それぞれ、二桁の回数にはなっていただろうと思っている。ただ、ワンコーラスを終えるたびに、ディレクターや豪からアドバイスが聞こえてきて、極力それらを次の歌唱に生かすように身構えていたことは覚えている。
 「それでは、時間になりましたので、このへんで切り上げましょう。秋村さん、おつかれさまでした」とのディレクターの言葉に従ってヘッドホンを脱ぎ、吹き込みは終了となった。

 帰り道、「稔、よく頑張ったな」と豪に肩を叩かれたが、私は「いやあ、自分のこの声がCDになると思うと、どうしても緊張しちゃうなあ…」と正直な感想を言った。
 「あとは、テイトレコードのほうで編集してくれるということだから、あちらさんにお任せすればいいんだ。これで一息つけるな」という豪の言葉で、またひとつ私の肩の荷がおりた気がしたのだった。
 
 「CDだと、自分のあの歌声はどんなふうになるのかな」との思いを胸に、風薫る五月の東京を豪とともに歩いている私であった。


「音のほかに必要なもの」

 『東京の雪』『ふたたび…東京』の2曲の吹き込みを終え、音のほうでは私のするべきことが一段落した形になったが、CD制作に関して必要なことは、他にもあった。

 まずひとつは、CDのジャケットに使用する写真の撮影である。
 吹き込みをした翌日、豪に「5月13日にジャケ写を撮るから、準備しようか」と言われたのだが、そこで用意すべきものといえばやはり撮影用の服であることは私にもわかっていた。
 私がそれまで全国をまわって流しやクラブ歌手をしていた際には、服装は背広などを何着か使っており、豪と話し合った結果、比較的地味なダークスーツに決め、それに合わせる数本のネクタイも選んでおいた。
 
 そして13日、豪とともに写真スタジオに出向き、カメラマンやスタイリストに挨拶したが、撮影とはいっても免許証のものなどとは勝手が違うのはいうまでもない。 
 本人であることを証明するのだけが目的のものとは異なり、ジャケット写真となれば、昔のレコードの時代から「ジャケ買い」という言葉もあるほどに売り上げに影響を及ぼす要素を持ちうるから、中身の音楽と比較しても侮れないものである、という話を私は豪から聞いており、心してかかった。
 もっとも、豪のほうも私の緊張をほぐすためか、「今日でうまくいかなくても、別の日にまた撮ればいいさ」と言っており、その言葉には救われたものの、やはり一日ですませたいという思いをもってスタジオ入りしたのであった。
 
 撮影の準備のはじめは、身なりを整えることであったが、私の担当のスタイリストがそれを補助してくれた。
 まず髪型だが、前日に豪の同伴のもとに理髪店に出向いてカットしておいたのを、あらためて整髪料などを使ってセットしてもらった。
 そしてワイシャツ姿になり、どのネクタイをするかを選んでもらうことになったが、「まずは、これでいきましょう」との言葉とともに、スタイリストが手慣れた様子で締めて数秒で形も整えたあと、その上に背広を着て、撮影の開始を待った。

 「はい、それでは撮りますよ」
 その言葉を、何度聞いただろうか。
 カメラマンはそこに至るまでに、たびたび私に指示を出してきたのだが、それに従って体のあちこちを細かく動かすことになった。
 
 まず、ポーズの取り方である。
 直立不動、七三の構え、腕組み──など、立ち姿ひとつとってもいろいろ変えてみたが、そこに「リラックスして、肩の力を抜いてください」と言われることがよくあり、カメラを前にしての緊張はなかなか抜けないものであった。
 
 一方、顔の表情についてもまた、いくつかのパターンで撮ることになった。
 大きく分けると、すまし顔というか無表情と、もうひとつは笑顔の系統だが、指示がより細かくて疲れたのは後者のほうである。
 私が以前流しやクラブ歌手をしていたころ、お客の前で歌う時に笑顔は作り慣れていたはずなのだが、カメラマンからの「ちょっと硬いですね、柔らかく」の言葉を聞くにつけ、昔を思い出して平常心になれるよう努めたのであった。

 結局、ひとつの着付けについて撮影に要したのは1時間ぐらいであったと思うが、ネクタイを変えてまた最初から繰り返したり、さらには持参したギターを用いたりもしたから、午前中に撮り始めたのが夕方までかかり、カメラマンとスタイリストの「おつかれさまでした。今日撮った中からジャケット写真用に選ばせていただきます」のねぎらいの言葉を受け、スタジオを豪とともにあとにした。

 さて、CDを作るのに際して決めておくべきことで大きなものとしては、2曲のうちのどちらをメインにすべきかという問題もあった。
 もともと、CDの前身であるレコードにおいては、A面とB面という呼び方があったが、普通はA面の歌が重視されて宣伝活動に力を入れられる反面、B面の歌のほうは話題にならずに消えていくことが大部分であり、大ヒットしたシングルであっても、B面がどんな歌だったかはまるで知られていないというのが一般的なケースなのである。

 とはいえ例外もあり、企画の段階ではB面の予定であった曲が制作の段階でA面に昇格したり、さらには発売当初はB面で出た曲が再出荷にあたって裏表をひっくり返したものになるなどし、その果てにミリオンセラーまで達成したことも実際にあったというから、世の中はわからない。
 もっとも、そのようなことが起きるためには、曲自体が大衆の支持を得る必要があるのはもちろんであろうが、私見としては、奇をてらわないシンプルな曲にその可能性があると思われ、流行を取り入れて作られたA面の曲が意気込みの空回りに陥るのを尻目に、B面の曲が地味ながらもじわじわと受け入れられていった、という図式のようにみられる。

 その一方で、両A面という形式のレコードも少なくなく、これはジャケットの作り方が、裏表のそれぞれがメイン曲に見えるようになっているもので、2曲を対等に扱うつくりだといえる。
 そのような両A面レコードが出される理由としては、2曲の優劣がつけづらかったり、あるいは宣伝に両方同じぐらいの力を入れる方針をとった場合などだが、レコード全体としては、A面B面をつけるものよりは少数派であったようである。

 レコードの話が長くなってしまったが、その後継であるCDは片側の面にすべての曲が入り、レコードでいうB面のことは、カップリングという言い方をし、C/Wの表記をなされるのは周知の通りである。
 このカップリング曲の扱いは、レコードのB面曲と同じく、日陰者として消えていくことが多いのだが、一方ではレコードの両A面形式のようにメイン曲と対等に扱われることもあり、その場合はたいてい、ジャケットの表の面に2曲のタイトルが文字の大きさを同じくらいにして書かれている。

 そこで、私の『東京の雪』『ふたたび…東京』についての話に移るが、メイン曲をどちらにするかの打ち合わせは写真撮影の翌々日ごろ、私の同居する豪の家にテイトレコードのディレクターを呼んで行われた。
 音源については、一週間ほど前に吹き込んだ私の歌声をカラオケにかぶせて編集する作業が進行途中で、最終的にCDに使う完成版の音がまだできていないこともあり、あくまで私の希望を確かめるというのがディレクターの意図であったようである。

 「俺は“雪”のほうだな」と豪が言うと、ディレクターが「いやいや、“ふたたび”がいいですよ、大月さん」と返す。
 豪の推す曲が『東京の雪』であるのに対して、ディレクターのほうは『ふたたび…東京』だというのが、両者の会話を聞いていてわかったが、ふたりとも、たまに私に対して、どちらがいいかと話を振ってくるのであった。
 私としては、2曲とも、自分自身のそれまでの生きざまの別々の面を切り取って歌にしたという思い入れがあるので、C/W扱いになるほうの歌はかわいそうだと考え、決めかねていた。
 
 しかしながら、豪もディレクターも自説を曲げようとはしない様子で、このままでは埒があかないと思った私は、「すいません、2曲どちらも自分にとって大切なものなんで、公平に扱ってほしいです」と口走ったのであるが、それを聞いたディレクターは、「わかりました。同じ扱いにしましょう」と、まるで私の言葉を待ち構えていたかのようにきっぱりとした口調で応じ、議論の幕は下りたのであった。

 CDを作るのには、伴奏と歌を録って終わりというわけにはいかず、いろいろと別にやるべきことがあるという話を、今回は写真撮影と曲構成の選考のふたつを具体例としてさせていただいた次第である。


「息子の進を甥っ子に」

 「稔、やっとできたみたいだぞ」
 豪がそう言ってきたのは、1995年7月初頭のことであった。
 「豪、何ができたんだ?」と私が聞くと、「これだよ、これ」と、豪が封筒を私の目の前に突き出してきたのだが、表書きには「サンプル盤CD在中」の文字があった。

 ここでCDのサンプル盤について少々説明させていただくが、サンプルという言葉が示すとおり、言い換えれば「見本盤」ということになる。
 商品としてのCDの発売に先行して、その販売促進・宣伝のために関係者などに無償で配布されるのがサンプル盤であるが、通常盤と異なっている点はいくつかある。
 まず、CDのレーベル面の穴の近くに、「SAMPLE」「LOANED」などの文字がサンプル盤の場合は刻印されているのだが、それを以て通常盤との区別がはっきりとつけられている。
 そしてサンプル盤は、一枚一枚について管理番号が付されており、誰に渡したかというのがわかるようになっているのだが、それにより追跡調査が可能であるという。
 ではなぜそうなっているのかというと、サンプル盤を受け取った人は聴いた後に返却する義務が生じ、第三者への譲渡・売却は禁止されているからであるが、現実のところはサンプル盤が中古CD店などに陳列されていることもままあるように、それが完全に守られているとはいえないのである。

 話が横道にそれたが、その送られてきた封筒を開け、中身を豪と一緒に見てみることにした。
 CDジャケットは、8センチCD用の縦長のものだった。
 今ではCDはシングルであっても、アルバムと同様の直径12センチのものがほとんどであるが、当時はまだ8センチ盤が多く流通しており、私のもそっちであった。
 歌のタイトル「東京の雪」「ふたたび…東京」もジャケットに記載されていたが、両者の文字の大きさはほとんど同じになっていて、私の「どちらをメインにするか決められないから、両曲を同等に扱ってほしい」という意向が反映されていたのであった。
 ジャケット写真は、撮影スタジオで撮ったものの中の2枚が表裏に使われており、ダークスーツにネクタイ姿の私がそこにいたのであるが、さすがにプロのカメラマンによるものであるだけに、ちゃんと見栄えのするものになっているなと感心した。

 収録トラック数は、私の歌声が入った2曲に加え、それぞれのオリジナルカラオケがあり、あわせて4だったが、CDプレイヤーにかけてみることにした。
 『東京の雪』『ふたたび…東京』とも、カラオケに私の声がかぶせられているのを聴いて、なんとかさまになっているなと自画自賛の感情を抱いたものであるが、聴き終えたあとで豪が私に言った。
 「そうそう、この歌は実はだな、練習の時のものを使っているんだぜ、稔」
 確かに、レコーディングをしに豪と行ったスタジオでは、本番の前の練習でもマイクに向かって歌ったのだが、それをそのままCDに使ったというのである。
 「えっ、じゃあ、本番のほうのは使わなかったというのか」と私が聞いたところ、「うん、おまえの本番のやつはちょっと緊張のせいか発声が硬くなってたから、それよりはリラックスしているリハーサルの時のもののほうがいいと思って、あとでディレクターと相談して決めたんだよ」と豪は説明した。
 これは私にとっては意外な気がしたが、なるほど、練習のほうが自然体で歌えているからそっちを使ったのか、と納得し、そちらこそが音楽をずっとやってきた私の姿をより的確に表現できているということなんだな、と思ったものだった。

 ともあれ、このサンプル盤ができたことで、CD発売の準備が整ったことになるが、商品としてどのように売り込むかについても決めておかなければならず、その打ち合わせもする必要があった。
 そしてサンプル盤が来た同じ週のある日、豪の家にテイトレコードのディレクターを呼んで、私を加えた3人で検討することになったのであった。

 「秋村さん、この『ふたたび…東京』についてですが…」
 ディレクターのその言葉で話し合いが始まったのだが、もうひとつの『東京の雪』よりも、この「ふたたび…」のほうが問題になってくるというのは、私自身それなりに予想してあった。
 それは、歌を作る際のいきさつに関して書いた章を読み返していただければお分かりになると思うが、「ふたたび…」の歌詞には、私の実際の経歴と異なっている部分が多々あるからである。
 中学卒業後の東京暮らしが歌詞の十年よりも長い13年間であったというのはまだいいが、「両親相次ぎ失って…」については、生みの親は確かに父の死を以ていなくなったものの、私の育ての母は当時まだ健在であり、表現と事実が合致しない点としてあげられる。
 
 とはいうものの、それもまだ些細なことであり、本当に大きく私のその後に関わってくるものとして、ディレクターがこんなことを言った。
 「秋村さん、独身という設定にしませんか」

 私の妻だった和子は、息子の進を産んだ数年後に若くして亡くなっているが、その話はディレクターは豪から聞いて知っているとのことだった。
 妻がいないということでいうなら、当時の私は確かに独身には違いないのだが、ディレクターはその意味で言ったのではなかった。
 つまり、「一度の結婚もしていない、生まれてこのかたずっとひとり身でいるという設定にしてはいかがでしょうか」というのが、ディレクターの主張なのであった。

 むろんその発言は、「ふたたび…」の歌詞を的確に理解したうえでのものであることが、作詞した私にはよくわかり、結婚歴のない単身者が主人公という設定にしたほうがしっくりくるのは、当然といえば当然だなと思った。
 そしてディレクターに私が「それじゃ、進はどうなるんですか、私の息子としないというのなら、一体」と問うと、返答は次のようになされた。
 「ですから、重要なのは秋村さんが“ひとりで全国を回った”ということにしたいという点でありまして、そのための設定も考えてあります」
 そのディレクターの考案した設定は、次のようにまとめられる。
 
 ──秋村稔には兄がいたが、その兄夫婦は早くに亡くなり、遺児の進は稔の両親のもとで育てられ、青森の中学を出て東京の高校に進学し、大月豪の家に稔とともに下宿することになった──
 
 つまり、進を私の甥にしてしまおうということなのであるが、よくそこまで考えつくなと、ディレクターの頭の中身のすごさに感心したものであった。

 結果的にはその設定が、今この文章で私が真実を語るまで生き続けたことになるのだが、これは私が生まれて初めてついた嘘である──わけではもちろんない。
 その場しのぎの嘘は、私は子供のころから数限りなくついてきたし、結局そのたびごとにばれて親や教師に叱られたりするのがオチだったのだが、このたびの家系図を書き換えてしまうような大きな嘘になると、さすがに私自身にとっての重荷になり、いつ本当のことが言えるようになるのかと、ずっと待ち続けていたのだった。

 「嘘も方便」──その言葉を免罪符がわりにして私は生きていくしかなかったのであった。



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