センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第3部



「旅のはじめは杜の都」

 一番町のアーケードからは、色とりどりの飾りが下がっていた。
 1989年の8月、私と進の暮らしの場は仙台に移っていた。

 その年の初頭に父が亡くなったのち、生前の言葉を思い出して、全国を回ろうと心に決めたのが6月のことで、以降ひと月足らずの間、お世話になった人たちにそれを打ち明けて、青森を去ることを伝えて回った。
 
 最初にまず、実家の母と弘のもとを訪れて話した。
 母は特に驚く様子もなく、「あ、そう。それなら行っておいで」とあっさり言ったのだが、その続きがあった。
 「ただし、お前の意志で行くのだから、私達を頼ることはまかりならない。名を上げるまで、うちには電話一本、手紙一通たりともよこすな」
 きっぱりとした口調で突き放されたのだが、考えてみれば私のわがままでもあったのだから、そう言われるのも無理はなかった。実際、私はその言葉を肝に銘じ、全国を回る間、実家とは連絡を絶つことになるのであった。
 弘のほうは、こちらも私の言葉に動揺した感じではなかった。「稔ちゃん、また行くんだね」と、17年前の1972年の春に私が東京へ向かった時のこと思い出した様子で言い、「頑張ってね。いつかうちに帰って、いろんな話を聞かせてね」の言葉のあと、右手でがっちりと握手をしてくれた。
 母と弘のふたりにそのように決意を伝えたことで、まずは多少残っていた心の迷いをほとんど振り切ることができたのであった。

 次に、私が間借りしている安達酒店の人たちに話そうと思ったが、三年あまり一緒に暮らしてきたこともあってか、実家の母や弘に対しての時より言いづらく、夕食の全員が揃う席で話すことができずに、酒屋の仕事の合間に満壽美さんに告げるのにとどまった。
 満壽美さんは「えっ、行っちゃうの」と、母や弘とは対照的に、驚きを禁じ得ない口調で言った。それまで、私が青森を去ること一切伝えていなかったために、突然のこととして予想外であったのだろう。そして、どうしてなのかと聞き返してきたため、決心に至ったいきさつを隠さず話すと、なんとか理解してもらえた。それに付け加えて、満壽美さんひとりに対して言うのがやっとだったから安達家の他の人には出発の日が近づくまで言わないでほしいと、そう最後に頼んでおいた。

 ひととおりお世話になった人たちに話して回ったのち、青森からの出発は7月半ばの日に決めた。もう少し遅くすることも可能ではあったが、決心の揺らぎを防ぐために意図的に早めておいたのだった。
 そして出発の前の夜、安達家では私と進のお別れ会が、満壽美さんが中心となってごく身内で開かれた。満壽美さんが母親の晴恵さんや娘の妙子に開催を伝えたのはその一週間ほど前だったらしいが、妙子にはその前に、進が小学校からの帰り道で話したとのことであった。その妙子は、お別れ会では私がいろいろ話したのとは対照的に、進との間でさえほとんど会話がなされなかったのだが、だいぶ落ち込んでいたのだろうと私は推測するほかなかった。

 そのお別れ会の席で、「明日、はつかり28号で出発するから、午後6時ごろにここを出ます」と私は言った。青森を発車するのが18時47分となっていたので、だいたいそれぐらいの時間でいいと思い込んでいたのであった。
 しかし夜が明けて、出発の最後の準備をしていた昼ごろ、それが間違いであったことに気付いた。同じはつかり号でも、28号ではなくて24号が正しく、発車は2時間以上早まる16時38分なのであった。
 その日、進は私と一緒に準備していたため学校には行かなかったのだが、妙子のほうは普通に登校していた。6時出発なら、もう下校しているだろうから進は妙子と会えると思っていたのだろうが、2時間早い出発ではそれも微妙になってくるため、私はそれが心配になってきた。
 結果的には、4時になっても妙子が帰ってこなかったので、私と進は仕方なく、満壽美さんと晴恵さんに挨拶をして安達家を出て、青森駅に向かって足を進めることになり、「妙子ちゃん、間に合わなかったね」と私は進にぽつりと言った。

 私たちが乗った6両編成の列車が動きはじめ、見納めとなる青森の街は遠ざかっていったが、窓の外を眺めていた進が突然、「あっ」と声を上げ、私に「ちょっと行ってくる」と言い残して通路に飛び出して、列車の進行方向と逆に走り出し、後ろの車両に姿を消した。
 しばらくあって進が戻ってきて、荒い息遣いをしながら言った。
 「外に妙子ちゃんがいて、走っていたのが見えたから、一番後ろまで行ってきた」
 東北本線の線路に沿ってついている道を走る妙子の姿を見つけたというのだが、私は気付かなかったのだから、進と妙子はお互いかなり好き合っていたんだろうと、私が作ったことになる別れを侘びる気持ちが起きたものだった。

 そして盛岡で東北新幹線に乗り継いで、その日の夜に仙台に着いたのだが、なぜ私が行き先として仙台を選んだのか、その話に移りたい。

 全国をまわろうと考えた私だったが、正直なところ不安はかなりあった。その第一はやはり金銭面で、安達酒店で働いて貯めた金はそれなりにはあったが、現地ではいずれ仕事を見つけないと足が出てしまうのが目に見えていたから、働き口のありそうな所にまず行こうと思っていた。その点仙台は、子供の頃に巡業で何度か訪れていたし、現地の巡業関係者にも前年の1988年の夏に再会していたこともあり、あそこなら何とかなりそうだという思いがあったのは事実で、安易ながら特に無理のない選択ではあった。
 その読みは図に当たり、民謡に関わる仕事にありつけ、部屋を借りて進とふたりで暮らしを始めることができた。アパートでのふたり暮らしは、かつて東京にいた時もしていたから、私も進も環境にはわりあいすんなりと慣れ、新たな日常生活に踏み出せたのであった。

 七夕祭りが終わり、訪れた秋も過ぎて冬となったが、仙台は気候の点でも青森とはだいぶ異なっている。気温は東京ほどではないにしろ、青森に比べると冷え込みはきつくないし、太平洋側にあることから雪もあまり降らない。そのため、冬の過ごしやすさは青森よりずっと上であると実感し、行き先選びとしては間違っていなかったとまずは安心した。

 全国まわりのスタートとして、仙台での暮らしは自分としては及第点がつけられ、いちおう先行きも大丈夫そうだという感覚が得られたのだった。


「北都に冬が来る前に」

 「秋村さん、息子さんが…」
 その夜、民謡の舞台での出番を終えて楽屋に戻った私の耳に、あるスタッフの声が入った。
 「進が、どうかしたんですか?」
 「遠足で行った日高の牧場で足を骨折したと、電話がありました」
 日高は北海道だが、仙台から日帰りの遠足で行けるような場所ではない。
 その時、私と進は札幌に住んでいたのであった。

 90年代を迎えた年明けのころ、仙台で民謡の仕事をしながら、私は考えていた。
 「全国をまわる」と決心して最初の行き先としたのが仙台であったが、次はどこにするか。
 そうした中、自分はそもそもなんで仙台に来たのかを思い返してみた。
 まずひとつは、小学生・中学生時代および、ずっとあとの1988年にも民謡の巡業で来たことがあり、その関係者に知り合いがいること。
 もうひとつは、東北地方の中でひときわ大きい都市で、仕事が得やすそうだったこと。
 このふたつが主な理由であったのはすぐに思い出せたが、その理論に沿って考えて、「東北とならび巡業先であった北海道にある、仙台と同等かそれをしのぐほどの大都市」ということで導き出されたのが、札幌であった。
 そして、次は札幌に行くことを周囲に語ったところ、ある人が「それなら、紹介状を書いてあげましょうか」と、札幌の音楽関係者のところへ行くようにすすめてくれて、それで仙台に引き続き民謡の仕事にたずさわることになったのである。
 そのことが決まったのが1990年の3月初頭であったため、進の進級にあわせて終業式後の3月下旬まで待ったのちに札幌へ移り住んだのである。

 その進が骨折したいきさつに話を戻そう。
 進が編入した札幌市内のその小学校では、5年生の5月に課外授業として乗馬がある。
 どちらかというと遠足に近いもののようで、札幌からバスで2時間ほどかけて日高の牧場まで行くという。
 進は、その課外授業があることを編入して間もない頃に知り、楽しみに待っていた様子であった。
 そしてゴールデンウィークが明けてしばらくした5月下旬のその朝、進は「行ってきまーす」と普段より明るい声とともに家を飛び出していった。
 ここからは、後に進から聞いた話になる。
 最初に、ある女の子が馬に乗ることになった。
 彼女は、父親が北海道大学の獣医学部の教授であったためか動物好きで、乗馬慣れしていることから率先して志願したらしい。
 そして、上手に馬の背中に乗った直後だった。
 馬が突然大きく立ち上がり、彼女を振り落とそうと暴れ出した。
 それに対して手綱を必死につかんだものの、耐え切れずに落馬してしまった。
 その時、たまたま馬のそばにいた進が、とっさにヘッドスライディングをするような感じで地面に身を投げ出し、そこに彼女が落ちてきた。
 クッションが敷かれたような形で、彼女は無傷ですんだ。
 しかし進はというと、下半身に落下の衝撃がかかり、右足を骨折してしまったのであった。

 そして、骨折の一報を受けた私は、進が現地で応急手当を受けたのちに搬送されていったという、札幌市内の病院へと駆けつけた。
 時刻は夜の10時頃になっていたであろうか。
 302号室へ行くと、進は右足をギプスで固定され吊るされた形で、ベッドに横になっていた。
 「進、大丈夫か」
 とっさにそう声を上げてしまったが、進は意外に落ち着いていて、「うん、骨が折れちゃったけど、ちゃんと手当てしてもらえたから、大丈夫だよ」と笑みすら浮かべていた。
 そのあと、主治医の話を聞いたところ、「単純骨折で手術の必要はなく、成長期であるため、しばらく入院していれば問題なく治るでしょう」とのことであった。
 もちろん私としては、心配が全くないわけではなかったものの、あとは専門家を信じて任せようという形で病院をあとにし、進が治療に専念できるように費用を頑張って稼ごうという決心を固めた。

 進の入院は、2ヶ月半ぐらいにわたった。
 私が病院を訪れる機会は、週に一度ぐらいであったが、担当医は「息子さんの足は順調に回復してますよ。後遺症の心配もなさそうです」と言い、進のほうも「時間がいくらでもあるから、本がいっぱい読めるんだ」と、その表情は明るかった。
 そして退院して間もない8月下旬、北海道ならではの短い夏休みが終わり、病院でのリハビリのおかげで松葉杖も取れて、普通に歩いて始業式に登校していった。 
 それ以降の進は、体育こそ見学が多かったらしいものの、他は周りの生徒と同じように学校生活をしているふうだったが、アパートの部屋で見ていると、何か書いている。
 聞くと、あの落馬したところを助けた女の子と交換日記をしているんだと楽しそうに答え、骨折したことすらプラスに考えるような楽天的なところがこっちにも伝わってきたものであった。

 さて、9月が下旬ともなると、札幌も秋深しという気候になってきていた。
 同じ北国でも、私の故郷の青森とは「もの」が違うというのが正直なところである。
 そこで思い出すのが、この札幌にやってきた時のことであった。
 あれは3月の終わりだったが、「春」という感じはまるでせず、どうみても「冬」そのものであり、私も進も体を震わせていた。
 春が遅いなら、秋の訪れは早いのが北海道で、あっという間に冬も来てしまうんだなと肌で感じ取っていたが、その私自身の身の振り方も考えねばならない時にきていた。
 青森を出たあと、仙台そして札幌と、以前に巡業で行った土地で暮らし、仕事も民謡に関することをしていたが、今後はどうするのか。
 自分にとって恵まれた環境の中でしか生きてこなかったのではないか。
 これからは外へ飛び出して、さらなる見聞を広めなければいけないのではないだろうか。

 そう考えて、北海道で秋と冬の境目にあたるという10月にはこの札幌を出て、北国とはおさらばしようと、私の腹は決まったのであった。


「朝のミナミの街角で」

 窓の外には、どこまでも雲海が広がっていた。
 1990年10月のその日、私は生まれて初めて「機上の人」となった。
 私と進が札幌を出て、開港してまだ2年ほどの新千歳空港に着いたのは夕方4時頃で、出発はその1時間と少しあとだった。
 飛行機は私だけでなく、進にとってももちろん初めての経験で、東京から青森まで寝台列車に乗った時のように、空港内や機内のあらゆるものに興味津々な様子だった。
 乗ること1時間半あまり、時計が7時を指す頃、機内にアナウンスが流れた。
 「あと10分ほどで、大阪国際空港に到着いたします」

 青森を離れて仙台、そして札幌と、かつて民謡の巡業で訪れた縁のある土地に移り住んできた私だったが、その次の行き先を考えるのには難儀した。
 私にとって勝手知ったる土地というのは、中学を出て14年間にわたり暮らした東京を除くと、東北と北海道以外にはまったくなかった。
 結局、大都市なら働き口はあるだろうという考えが導き出され、その中で興味があったのが、東京に対しての西日本の中心地、大阪だったということである。

 そして、いざその大阪に来てみると、札幌とはその空気ががらりと変わったのを感じた。
 季節が逆戻りしたというか、暖かくなったのが肌ではっきり分かったのである。
 それを裏付けていたのが、イチョウの木である。
 私が札幌を発つ前の日、この街も見納めということで、進とともに北大の構内を歩いたのだが、そこのイチョウは完全に真っ黄色になっていた。
 一方、大阪に着いた翌日に通った、御堂筋のイチョウ並木はまだ青々としており、違いはありありと見てとれた。
 この感じなら冬も寒さは厳しくなさそうだと思い、とりあえずここで「越冬」しようという気になったのであった。

 仕事のほうでは、流しの歌手にもどった。
 私が東京で流しをやっていたのは1984年の秋までだったから、6年ぶりということになる。
 もちろん、ギターを握るのがそれ以来というわけではなく、趣味として弾くことは青森から仙台、そして札幌にかけてもあったのだが、仕事として現場に戻るのが久しぶりだったのである。
 しかし大阪は知らない土地だし、ブランクもあるから、本当にまた流しでやっていけるのかと懸念していたものの、心配は幸いにも外れ、かなりの稼ぎが得られた。
 それがなぜかと考えたところ、当時の社会状況が、いわゆる「バブル景気」であったことが原因なのではないかと、今はそう思っている。
 バブル景気は、1980年代の後半から1990年代の初頭までの好景気を指すと一般的にいうそうだが、私が東京で流しをやっていた時代はそれがまだ始まる前だったので、直接の恩恵にはあずかれなかった。そして好況の末期になって、やっと仕事の上で乗っかれたというのが実際のところであろう。

 また、土地柄もあり、酒場の客はほとんどみんなが大阪弁で話しているのだが、私はよそ者であるから、聞き取るのはまだしも、自分が話すことはできなかった。
 そのため、どこから来たのかと客に聞かれることが多かったが、そこは自分の知っている歌を持ち出して弾き語りすることで導入となすことができた。
 つまり、私は大阪に来る前、青森・仙台・札幌にいたのであるから、例えば『津軽海峡冬景色』『青葉城恋唄』『恋の町札幌』の順に、土地の紹介をはさみながら歌っていけばいいわけで、そうした手はよく使った。
 それら御当地ソングを演じていくことは、私自身の歌唱と演奏の幅を広げるのにもかなり役立ち、楽しみのひとつとして持ち続けることになったのである。

 さて、流しの歌手という仕事は、東京でやっていた時もそうだったのだが、夜は遅くなる。日付が変わっても続けることはよくあり、明け方までかかることも別段珍しいことではないが、そんな中でのことだった。
 私は大阪ではミナミ、つまり梅田あたりのキタと対をなす難波周辺の地区にアパートを借りて住んでいたのだが、12月になったばかりのその日も朝5時過ぎまで仕事をし、帰途についたのは6時半ごろだった。
 冬至が近いため日が短いことと、大阪が東京や札幌などよりだいぶ西に位置していることから、辺りはまだ薄暗かったのだが、人影がふたつ、こちらに近づいてきた。
 「あっ、父さんじゃないか」
 それは聞き慣れた声であり、顔をよく見ると確かに息子の進であった。

 当時の進にはアパートの合鍵をひとつ持たせており、いわゆる「鍵っ子」だったので、戸締りに関しては問題なかったのだが、しかしなぜ今頃外を走っていたのかとの疑問があった。
 それを進に聞くと、「3月に陸上大会があるから、その練習をしてるんだ」と私に説明してきた。
 進の話によると、その大会は大阪府主催で春休みに行われるもので、新2年生から新6年生までの代表が出場することになっている。当時5年生だった進の学年は、春のセンバツ高校野球の新3年生のように、出場者では最高学年にあたるのであった。
 その大会に備えての練習で、朝の大阪の街を進は走っており、一緒にいたのは女子のほうの代表の子だということであった。
 なぜ進が代表になっていたのかは、本人の口からも言ってこなかったのだが、考えてみれば大阪の前にいた札幌で進は骨折のために入院していた。その傷が治って、とにかく自分の足で動きたかったという気持ちがあったのかもしれないし、結果的には筋力回復のためのいいトレーニングになったのではないかと思う。

 そのように、進も頑張っていることを知った私は、体力をつけさせる助けになればと、仕事の休みの夜などに、大阪のいろいろな飲食店へ進を連れていった。
 進と一緒に走っていた女の子の実家はお好み焼きの店であったが、そこはおいしくて値段も安かったのでよく通ったものだし、他にも大阪名物のたこ焼きや、日によっては道頓堀でカニやフグを食べることなどもよくあった。
 思い切り「食い倒れる」ことができたのも、大阪に住んだことのひとつの収穫ではなかったろうかと、そう今でも私は思っている。


「京都祇園のクラブ歌手」

 ミラーボールの光が、ステージで歌う私の目にとびこんでくる。
 私の手はギターやアコーディオンではなく、マイクを携えていた。
 後ろには、ベースやドラムなど、バンドが控えている。
 客席を見ると、舞妓さんと思しき美人もいる。
 私は京都の祇園のクラブ歌手となっていた。

 次は京都へ行こうと、大阪に来てふた月あまり経った1991年初頭から計画していた。
 その頃、大阪の街のおもだった場所はひととおり訪れていたのだが、土地や人に接してみて、「歴史の深さ」が何とはなしに感覚として伝わってきた。
 街が強い個性をもっている、とでも言い換えるべきなのだろうが、言葉などをはじめとする「文化」に厚みがあり、さすがはかつて「天下の台所」といわれた、東京に対抗する西日本の中心地なのだなと思った。
 その大阪を歴史という点では遥かに凌いでいることが、私が京都に転居先として目を向けた大きな理由だったのだが、もうひとつ、両都市がさほど離れていないことも動機に挙げられるのかもしれない。
 大阪から京都までの距離はおよそ40キロメートルで、鉄道の在来線で35分、新幹線なら15分ほどで着いてしまう。それはもちろん、時間が短いというだけでなく、移動にかかる費用も安価であることを示しており、現実的問題として効率のよい転居といえ、結果的にはこの大阪から京都というのが、私が全国を転居してまわった中で最も近距離のものとなったのである。
 なお、移動の日時は、息子の進が出場する大阪府陸上大会のあとの3月末日にすることを計画していたが、あるトラブルが原因で早まり、進は大会には出られなくなってしまった。そのいきさつについては後に触れることになるかもしれない。

 さて、大阪から移り住んだ京都で初めてクラブ歌手を経験することになったのだが、それまでやっていた「流しの歌手」とはどう違うのか。
 両者には似ている面、共通する面もあり、一概には言いにくいのだが、ごく簡単に説明させていただく。
 流しは、まず歓楽街の縄張りを仕切っている親方のもとにつき、その中の酒場などで客に歌や演奏を披露して金をもらい、親方や店の主人への上納金を差し引かれたものが収入となる。
 一方、クラブ歌手の場合、歌う店のバンマス(バンドマスター)に認められることからはじまる。
 クラブの経営者が音楽に必ずしも精通しているわけではないため、その店での演奏や歌唱などに関しては責任者としてバンマスを置くのが一般的であり、そのバンマスの指示に従って歌手や奏者は活動することになる。
 給金に関しては、たいていは店からバンマスを通して、契約の内容に従い支払われる。これは店の売り上げから流れてくるという点で、客から直接に金をもらう流しと異なっているところといえる。
 もちろん給料制とはいっても、決して「安定した収入」とはいえず、店に客を呼べる存在であることが必要とされるため、人気が落ちれば減俸されたり、クビになることも覚悟しなければならないが、逆に客からの評判がよければ金額面で有利に交渉できるため、流しに負けず劣らずやりがいのある仕事だと思って、クラブ歌手という仕事に私は臨んだのであった。

 そしてそのクラブで歌い始めて間もない4月初頭、店の客の中のひとり、ある年配の紳士が私をひいきしてくれるようになった。
 もともとその店の常連で、バンドによる演奏を好んで聴きにきていたそうだが、新たにボーカルとして加わった私のことを気に入ったらしい。
 ある時、私との間に次のような内容の会話があった。

 「あんた、話し方からして、どこか他の土地から来たようだが」
 「はい、京都に来る前は大阪にいまして…」
 「でも、大阪弁とも違うみたいだが」
 「実は、生まれは青森で、いまは全国をまわっているところなんです」
 「ほう、全国を。お一人でかね」
 「いえ、妻はいませんが、息子がひとりいまして、一緒に動いています」
 「その息子さんは、学校はどうしているのか」
 「ええ、転校させてまして、ここ京都でも、公立の小学校に入れようかと思っています…手続きはまだですが」
 「じゃあ、うちの学校に通わせてはいかがか」
 「え?」
 「私は私学の理事長をやっているのだが、小学校もあるのでね」

 そんなことがあって、進は私立小学校に通うことになった。
 そこがどんな学校なのかとバンドの仲間に聞いてみたところ、「由緒正しい、かなりの名門」であるらしいとのことだった。
 そうなのか、でも果たして進がついてゆけるのだろうか、と懸念したが、理事長の好意を袖にはしたくなかったので、そこに編入させたのである。
 で、いざ通わせてみると、心配はいらなかったというか、何とかなった感じで、私に学校でのことを楽しそうに話してくれるようになった。
 考えてみれば、それまでも進は転校は何度も経験しているのだから、知らず知らずのうちに、新しい環境への適応力がついてきていたのかもしれない。
 中でも、黒塗りのリムジンで送り迎えがあるという名家のお嬢さんと付き合っていると聞いた時は、進もなかなかやるもんだなと感心してしまったものである。

 私はクラブ歌手、進は私立小学校の生徒となり、京都でふたり過ごしているうちに、季節は春を過ぎていた。
 7月の祇園祭の山車、8月の五山の送り火の大文字をこの目に焼きつけたのち、9月のある夜の私と進は、賀茂川の河原にたたずんで、東山から昇る月を眺めていた。
 この月も千何百年間、都を照らし続けていたのだなと、進と夜風の中語り合ったのも、半年にわたる京都暮らしの思い出のひとこまであった。


「名古屋から東に顔を向けて」

 向かい合う二匹のしゃちほこが、秋の夕陽を浴びていた。
 以前見た大阪城も大きかったが、こちらも負けてはいないという格好で天守閣がそびえ立ち、「城でもつ」と世に言わしめただけのことはある。
 1991年の10月から、私はその名古屋に住んでいたのだった。

 大阪、京都ときて、次の行き先に名古屋を選んだのは、成り行きとしては自然なものであったと思う。
 大阪と京都を結ぶ東海道本線をさらに東にたどっていくと、大津から琵琶湖の南東岸をかすめ、滋賀県を抜けて岐阜を通るのだが、そのように進んでいくルート上の百万都市として名古屋に行き着く。
 京都からその名古屋までの移動距離は150キロほどあるのだが、新幹線を使わずとも、在来線の新快速なら2時間半ほどで着けるというのは、個人的な感覚で「近い」と思えるものだった。
 そして、名古屋はまた、大阪や京都と共通していることとして、「歴史の街」という点もある。
 戦国時代の織田信長や豊臣秀吉は、いずれも名古屋に程近いところから出た人物で、さらにその後の天下人としておさまった徳川家康が「御三家」のひとつとして水戸や紀州と並べた尾張、そこに築城したのが名古屋城といういきさつもある。 
 私が大阪や京都にいた時、そのような歴史にひとかたならぬ興味を持ち、やがて名古屋を目指したことも、移り住んだ理由として挙げておきたい。

 「そうか、卒業も近いんだな」
 気がつけば、息子の進はもう小学6年生だった。
 私が青森を離れて住む土地を変えていく際、進もついてきて、各地の小学校を転校してまわっていた。
 京都では縁あって私立に入ったのだが、その時を除いてはどこも公立の学校であった。
 小学校に限った話ではないが、どこの学校でも卒業するには一定の出席数が必要で、進の場合は転校の多さから日数的にどうかと懸念されたものの、何とか大丈夫そうで、その点はまず安心した。

 だがしかし、それとは別に、私自身のことではひとつ、大きな悩みがその頃生じていた。
 名古屋に来てからの私は、その前にいた京都で初めてやった、クラブ歌手の仕事にまた就いていたのだが、将来のことを考えてみると、果たしてこのままでいいのだろうかと思うようになってきていた。
 それは、もし何らかの理由で歌手をやれなくなったとしたら、自分はどうすればいいのかということであり、その思案の中で昔のことが頭をよぎることもしばしばあった。

 東京で流しの歌手をしていた時、酒場の女の「エミ」こと和子と私は知り合い、結婚した。
 仕事も好調で、何もかもがうまくいっているという時期であり、いつまでもそれが続くであろうと思っていた。
 それが、和子に癌が見つかった時から幸せが崩れはじめ、看病に力を吸い取られ、その甲斐なく逝ってしまったことで、私は完全に虚脱状態に陥り、歌手として精神面で使い物にならなくなり、一旦廃業にまで追い込まれてしまったのだった。

 その苦い経験がずっと頭にこびりついていて、またいつ同じようなことが自分の身に起きるのではないかという不安を持ち続けていたし、特に大阪で復帰した流し、そして京都で始めたクラブ歌手の仕事がうまくいっていたことが、かえって転落の恐怖を助長していた。
 ではどのように解決したらいいかと考えたところ、世間一般でいう「安定した仕事」に就くことが頭に浮かび、ひとつ就職活動を頑張ってみようと決意したのが、名古屋に来てふた月ほどした、年の暮れのことであった。
 
 とはいえ、その時の私は35歳になっていたうえ、学歴も中卒までしかなく、普通に仕事を探してもそう簡単にはありつけないことは予想していた。
 そして、自分は歌謡の道にたずさわって生きてきたのだからと、ターゲットを音楽業界に絞ろうと考えたのだが、そのことで看過できない点がひとつあった。
 それは、音楽に関連する企業、例えばレコード会社や音楽出版社などが、ほとんどが東京に集中していることで、当時在住していた名古屋との距離をどうやって克服して就職活動に臨めばいいかという問題であった。
 結局は、東京に行かなければならないことは必定なのだからと、ある程度の期間を東京に滞在して職探しに専念しようと決め、経費は大阪や京都にいた頃に貯えた金をつぎ込むことにした。
 また、息子の進については、本人が「名古屋にまだしばらくいたい」と言っていたことから、不安はないとはいえないものの、一緒に暮らしていた現地のアパートに残していくことにしたのであった。

 そのようにして赴いた東京で開始した就職活動だったが、覚悟はしていたものの、やはり難航した。
 履歴書を送った段階で「申し訳ありませんが…」と断りが来たり、面接に臨めたとしても「お帰り下さって結構です」などと言われてとぼとぼとビジネスホテルに帰ることもしばしばであった。
 そして、やっとのことで「隅田音楽出版」という出版社に採用された時、暦は1992年の2月になっていた。
 
 その頃、名古屋に置いてきた進の小学校卒業式が3月初頭に迫っており、その式に出たのちに東京にふたりで移ろうと考えていたのだが、出勤については、会社から「2月25日に来るように」と言われていた。
 「3月まで待って下さい」とも私は言いたかったが、もしそれがもとで採用が取り消されでもしたら、と不安になったため、進の卒業式に出席するのはあきらめた。
 そのことで、進も私の置かれている状況を知ったせいか、卒業式には出ずに、その前にアパートを引きはらって東京に移り住むことを提案してきた。

 いろいろとドタバタしてしまったが、私と進のふたりでの再びの東京暮らしは、そのようにして始まったのであった。


「35歳の新入社員」

 名古屋から東京に出向いての私の就職活動は、隅田音楽出版への採用という結果を得られたのだが、そのいきさつについてもう少し詳しく書きたい。

 1992年が明けたばかりのある日、東京駅で新幹線を降りた私は、山手線に乗り換え、上野駅をめざした。
 上野は、中学を出たばかりの私が歌手を夢見て乗り込んだ青森発の夜行列車、その終点であったのだが、あれは1972年の春のことで、奇しくもそれからちょうど二十年が経ったのである。
 生まれて初めて東京に降り立ったあの日のように、一からの出直しの意味をこめてまた来た上野、そこを職探しの拠点に決めて宿をとった。

 仕事の情報は、駅近くの職安のほか、新聞の求人欄や就職雑誌など、いろいろなところから集めた。
 その中から、音楽に関する求人に的を絞って応募していったのだが、状況として、そうせねばならなかったと言った方が正しい。
 中卒で、正社員としての勤務経験がなく、年齢は三十代半ば、そのような人間が普通の会社に就職するのはかなり厳しいと、周囲からの話などから承知していた。
 そんな中で採用を勝ち取るとしたら、自分の個性を前面に出してアピールすることで一発逆転を狙う以外になく、その方向で戦略は定まった。
 
 まずは、自分のそれまでの経歴を整理することから始めた。
 三味線と民謡の稽古ひとすじだった青森での少年時代、中学卒業後上京して始めた流しの歌手、青森に帰ってからの酒屋での住み込み生活、そして仙台を皮切りに札幌・大阪・京都・名古屋と各地をまわったこと、それらをひとつながりの話としてまとめ、どうすれば印象あるものにできるかと考えていった。
 そして面接の場で質問に応じて答えていくことの想定をし、あとは口に出して話すことの練習となり、口調や間の取り方までじっくりと向かい合うことになったのである。
  
 いざ本番になってみると、予想していた質問とは違った角度のものもありはしたが、おおむねは想定内のこととなっており、ひとつひとつ答えていくのはさほどの苦にはならなかった。
 とはいえ、あくまで採用という結果を出さなければならないわけで、たとえ自分でうまくいったと思えても、会社側がどう評価してくれるかが全てである以上、ひとりよがりにならないように気をつけた。
 そして、最初の何社かは落ちたが、それも経験として次に生かすようにしていき、ようやく実を結ぶことになったのが、隅田音楽出版への入社ということであった。

 だいぶ長い説明になってしまったが、その隅田音楽出版がどんなところであったかという話に移りたい。
 上野から地下鉄銀座線で3駅進んだ終点の浅草、そこから程近いところに事務所を構えている。
 社員は十数人というから、規模としては中小企業ということになるだろう。 
 周りの顔ぶれを見ていくと、音楽出版社ということもあり、音大を出た女性や、ストリートミュージシャンの前歴を持つ中年男性などもいて、そういった人達とは音楽談義ができることもあり、私も職場にわりとすんなり溶け込めていくことができた。

 私が与えられた仕事は、楽譜の整理であった。
 作曲家の事務所などから会社に楽譜が送られてくるのだが、それらにひとつひとつ目を通し、間違いがあるようなときは直していくのが主な内容となっていた。
 私は楽譜は、流しの歌手時代にだいたい読めていたが、感覚としてはひとつのガイドとしてであって、あくまで歌なら喉、演奏なら指先の直感が大事であるという考え方をしていた。
 それが、いざ楽譜をひたすら見つめていくとなると、以前はさして意識していなかった、音符ひとつひとつが持つ意味なども少しずつ頭の中に浮かび上がってくるような気がしてきて、真新しさを感じた。

 その楽譜との格闘が、後年の私にとって大きな意義を持つようになり、貴重な経験として刻み込まれているのが、今なお自らの胸の中に認識されているのである。


「浅草の、その日」

 「進、明日は寄席に行くぞ」
 1992年の4月半ばの土曜日、私はそう言った。
 2月の終わりに隅田音楽出版に就職した私は、会社からさほど遠くない、地下鉄都営浅草線・本所吾妻橋駅近くのアパートの部屋を借りた。
 進は名古屋の小学校の卒業式には出られなかったが、4月からは墨田区立の中学校に入ることになり、その入学式には私も行くことができた。
 進もその学校生活に慣れてきたように見えた頃に、私が誘いの声をかけたのだが、それが偶然にも後々まで私の人生に大きな影響を及ぼすとは、当時まったく思ってもみなかったのである。

 ただ、私が進を連れて浅草に行くのは、その時が初めてというわけではなかった。
 進の中学入学前の3月のある週末に、私たち親子は隅田川にかかる吾妻橋を渡った。
 浅草のシンボルの雷門へは、アパートから歩いて10分ぐらいであったろうか。
 そこから始まる仲見世通りは、午前中から既にたくさんの人で賑わっていたが、はぐれないように注意しながらふたり、先に進んでいった。
 そして参道の突き当たりの浅草寺にお参りしたあと、左手に足を向け、遊園地『花やしき』に入り、昼過ぎまでそこにいた。
 帰り道で、浅草演芸ホールの前を通ったが、「今度、ここに行こうか」と進に言うと、楽しみな様子であったため、そのうちにと思って4月に予定を立てておいたのであった。

 迎えたその4月の日曜日、アパートを出たのは11時頃だったと思う。
 雷門はくぐらずに、右手に見て前を通過し、すし屋通りのほうから演芸ホールに向かい、着いたのは11時20分のことだった。
 開演予定時刻まではあと20分ほどあったのだが、場内の席のほうはだいぶ埋まっており、二階席や、後ろの方ならまだしも、高座に近い所は飛び飛びにいくつか空きがある程度だった。
 高座に向かって席は左・中央・右の3つのブロックに分かれていたが、中央の前から3番目ぐらいの所の、右側の通路に面したところにひとつ、座られていない席があるのを見つけたので、「あそこはどうか」と進に言って、空席の隣にいる人に聞いてみることにした。

 後ろ姿を見たところ、女性のようで、髪は肩ぐらいまでの長さだったが、話しかけてみた。
 「すいません、横、あいてますか?」
 「ここですか?ええ、いいですけど」
 その声とともにこちらを振り返った顔は、年の程は女子高生ぐらいに見えたが、ずいぶんと目鼻立ちが整っていた。
 私が一瞬緊張のせいで黙すると、女性は思いがけない言葉を発した。
 「あれっ、秋村君じゃないの」
 私の名前は秋村稔だが、その女性とは面識など全くなかったし、いきなり君付けなのもおかしい。一体どうなっているのか。
 「ええと…光村、光村だよね」
 答えたのは、私の横にいた進のほうだった。
 そうか、進の知人なのかと、とりあえず私は落ち着くことができ、その光村と進に呼ばれた女性に聞いた。
 「あのう、うちの進のお知り合いですか?」
 「はい、進君の中学校のクラスメイトで、光村むつみといいます。よろしくお願いします」
 私に頭を下げると、むつみは進に向かって言った。
 「ちょっと待っててね、家に電話してくるから」
 むつみの席は確保しておかなければならないので、彼女が立って空席がふたつ並んだところに、私と進が一旦座った。

 「なんだ、進のクラスの女の子なのか」
 「うん、同じクラスでね。…そういえば、自己紹介のとき、『趣味は落語です』って言ってて、聞くのも話すのも好きらしいよ」
 確かに、さっき聞いたむつみの声は、中学生というには随分落ち着いていて、かつ言葉が明瞭に話されていた。なるほど、落語をやっていたからなのかと納得した。
 3分ぐらいして、むつみが戻ってきて、進に言った。
 「お待たせ。今日はお父さんと一緒に来ている友達と会ったから、夜の部まで見てくる、って母に話したわ」

 浅草演芸ホールは、これから始まる昼の部が夕方4時30分まで続き、10分おいて夜の部が開始し、9時まで行われるのが基本的な流れなのだが、昼夜の入れ替えはない。
 そのため、昼の部の開演から夜の部の終演までの9時間以上、客席に居座っていてもいいのだが、むつみはこの日は昼の部だけで帰るつもりでいたらしい。
 「じゃあ、一人だったら夜の部まではいなかったの?」
 「うん、親が心配するからね」
 進の問いにむつみはそう答えたが、意味することはよくわかる。
 というのも、浅草という街は失礼ながら、風紀という点では決してよくない。昼間ならまだしも、夜に中学生の女の子がひとりで歩くとなると、確かに親は不安になりそうだと思わせるような雰囲気がある。そのため、心配をかけないように、日が暮れる前までの昼の部だけにしておこうというのが、むつみの配慮なのであろう。
 そこに、大人の男である私がクラスメイトの父親として現れたことから、一日限りの保護者になってもらい、夜の部まで見ていこうという、むつみにとっては願ったり叶ったりの成り行きとなった、ということである。

 戻ってきたむつみに席を譲ると、私は自分の座る場所をまた探しに行った。
 結局、むつみと進が並んで座った所より、何列か後方で空いていた席に腰を下ろし、高座が始まるのを待った。
 そして予定通りにその日の寄席は開始となり、進行していったが、出演者が誰で、どんな噺や芸をしたのかなどは、今の私にはまるで記憶にないし、当日もらったプログラムのチラシも手元にない。やはり、むつみとの出逢いという、思いがけないハプニングが起き、そちらに関心が移ってしまったためであろう。

 9時を少し過ぎた頃、夜の部のトリが一席の噺を終え、その日の高座はほぼ時間通りに幕となり、私と進、そしてむつみは席を立って演芸ホールをあとにした。
 「お蕎麦でも食べて帰らない?」
 そう言ったのは、むつみであった。
 私は寄席の合間に、売店で買った助六寿司を食べてはいたが、あくまで軽食であったため、終演時にはおなかが減っていたし、進もまた同じような様子であった。
 むつみの提案どおりに寄った店は、浅草駅の構内にある立ち食いの蕎麦屋であったが、食べてみるとかなり美味しかったことが今でも記憶にあり、むつみの蕎麦好きと、浅草通であることに感心したものであった。

 行きに二人で通った吾妻橋を、帰りは三人で渡ることになり、むつみの自宅へと案内してもらった。
 着いたところは、隅田川に面した高層マンションで、光村家は15階の一室にあったが、そこに行く前、私は緊張していた。
 むつみから、「父がいるから会って下さい」と言われていたが、中学生の娘を持つ父親となると、私や進といった男が一緒にいることを果たして許してくれるのだろうか、という不安を私が感じたためで、いきなり怒鳴られるようなことも想定してしまっていた。
 
 「ただいま」
 むつみがそう言ってドアを開けると、出てきたのは母親と思しき女性であった。
 「母さん、クラスメイトの秋村君と、お父さんよ」
 そんなふうに進と私が紹介されたあと、奥から男性が出てきた。父親であろう。
 「どうも、こんばんは」
 年の程は40過ぎぐらいに見えたが、張りのある声で二の句が出た。
 「今日はむつみがお世話になりました。ありがとうございます」
 そう丁寧に言われて、私はやや拍子抜けしたものだったが、どうやら怒ってはいないようで、私は胸をなでおろした。
 「寄席が好きな人に会えて嬉しいね、気に入った」
 どうやら、娘のむつみに同好の知り合いができたことを喜んでいる様子で、私や進に向けた言葉には温かさがこもっていた。

 今となっては運命の日だったと思えるその一日が終わろうとしていたが、当時の私にはそんなことはわかるはずもなく、アパートに帰り着くとともに、翌日の会社での仕事のほうに頭を切り替えようと努めていたのであった。


「100万円の退職金」

 厚さ1センチほどの札束が、デスクの上に置かれていた。
 呼び出しを受けて、私は社長室に来ていた。
 部屋の中には、隅田音楽出版の社長と、私のほかには誰もいない。
 椅子に座っている社長とデスクを挟んで対峙していた私は、立ちつくしたままもう数分経っていたのだった。

 1992年も半ばを過ぎた7月、私が就職してからもう4ヶ月が経っていた。
 最初は戸惑っていた、楽譜の整理という仕事も、それなりにこなせるようにはなってきていた。 
 むろん、先輩の社員たちにアドバイスされるなど、多分に周りに助けられた面もあったのだが、仕事の効率が上がってきたのは自分にとって大変売嬉しかったものである。
 そんなある日、「仕事が5時に終わったら、社長室に来るように」との言葉が上司のひとりからかかり、それに従って終業後、赴いたのであった。

 「失礼します」
 扉をノックして入った社長室には、社長ひとりだけがいた。
 「やあ、秋村君、来たか。こっちへ」
 そう言われて社長のデスクに近付いた私の目に、札束が飛び込んできた。
 これはどういうことなのかと、真っ先に疑問に思ったものの、社長には聞けず、デスク正面50センチぐらいのところで歩を止めた。
 「社長、お話というのは…」
 あくまで落ち着くようにと自分に言い聞かせて、そのように切り出した。
 「秋村君、もう一度歌手を目指してはどうかね」
 私が以前に流しの歌手などをしていたことは、就職時に明かしていたため、社長の耳にも入っていたのだが、なぜ今になってその話なのか。
 戸惑った表情になっていた私に対し、社長は続けた。
 「あれは花見のときだったな」

 花見──その年の3月末だったか4月初頭だったかまでは覚えていないが、社員一同で行ったことがある。
 場所は、会社から歩いてすぐの、隅田川沿いにある隅田公園であった。
 入社したばかりということで、私は場所取りの段階から関わっていたのだが、宴の中で社長から「一曲やってみてくれ」と言われた。
 場所柄を考えて、「春のうららの 隅田川…」と始まる、唱歌の『花』がぴったりだと思って弾き語りをしたのだが、社員たちの拍手だけでなく、社長からも「ほう、なかなかやるじゃないか」との言葉もいただけた。
 そのことを社長は言っているのだった。

 「あの時思ったのだが、君をサラリーマンにしておくのは惜しいとね」
 そう言うと、社長はデスクの上の札束を指した。
 「ついては、ここにある100万円を歌手になる元手にしていいぞ」
 「えっ、どういうことですか?」
 「つまりだ、今会社を辞めれば、この金は君のものだが、どうかね」

 札束の意味はようやく分かったのだが、もらって退職するか、もらわずに会社に残るのか、そのふたつの選択肢から決めるというのは私には容易にできることではなく、自分にとって100万円がどれほどの価値を持つのか、その場で考えてみた。

 私が以前やっていた流しの歌手は、人気さえあれば収入はかなりのものになる。
 事実、一番多い時は1ヶ月の稼ぎが目の前の札束と同じ100万円を超えていたかもしれないと思っている。
 ひるがえって、隅田音楽出版での給料となると、100万円を稼ぎ出すのには半年近くかかる程度のものであり、ましてや貯蓄を100万円するとなると、1年かかっても無理なのではないかという状態だと、思いをめぐらせた。
 とにかく、会社員の私にとっては大変な大金であったことだけは間違いなかったのである。

 10秒、20秒と時間が流れ、それが1分、2分ほどになっても、私は言葉を発することができず、一方の社長も何も言わないでいる。
 そこで方向を変え、私が入社したあと、周りにどう思われていたのだろうかと考えることにした。
 
 同僚の中に、音大出身者やストリートミュージシャンの経験者がいたことは既に述べたが、彼等が私に向かって言っていた言葉を思い返してみたところ、こんなのがあったと気がついたものがある。
 「秋村さん、プロみたいにうまいね」
 それがどこまで本心なのか、一部お世辞も入っていたのかもしれないが、そのようなことを言われたのは事実であった。
 そして、それはつまり、プロ歌手への夢を持って挑戦してほしいという思いを私について抱いていた、そう解釈するべきなのではないかという憶測に変わっていった。

 「わかりました、退職します」
 気がつくと、私の口からそう発せられていた。
 時間にして、5分ぐらいは無言のままだった末に、その静寂が破られたのであった。
 あっ、言ってしまった、と私自身、一瞬うろたえもしたが、出てしまった言葉は消えるものではない。
 「おお、そうか」
 社長はそう言い、ほっとした表情に変わったようであった。
 「それじゃ、これを持っていけ」
 そして私は、「いただきます」と言って、100万円を両手で押し戴き、ポケットに入れた。
 「このことは私と君、ふたりだけの秘密だぞ」
 社長室を出る前、最後にその言葉が付け加えられ、私の耳に入ったのであった。

 その100万円は事実上、隅田音楽出版からの私への退職金のようなものになったのだが、「この恩に報いなければならない」、そう私の心の中に思いが芽生え、いつその機会が来るのかとも考えたものであった。


「広島の夏」

 ナイターがもうすぐ始まる時間になっても、まだ肌を刺すような暑さだった。
 これが瀬戸の夕凪というのか、風はほとんどない。
 路面電車の走る道をはさんで球場の反対側には、コンクリートの壁と、頂上に半球状の鉄骨を残した廃墟が立っている。
 この街の「運命の日」から、もう47年が経とうとしているのか、と思った。
 1992年の盛夏、私は広島に来ていたのだった。

 その年の7月の初頭、100万円を手にすることと引き換えに、私は隅田音楽出版を辞めた。
 札束を目の前にした社長室でのやりとりについては前章で書いたが、思い出すたび、信じられない展開だった。
 たった4ヶ月ほど勤めただけの男に、なぜそのような大金を渡したのか、あくまで「歌手になる元手」と指定したところで、どう使われるかなど分かりようがないのに、一体社長は私に何を見たのだろうか、との困惑が心を支配していた。

 そして、名古屋から東京に出向いてやっとつかんだ、サラリーマンという職を手放してしまったのだから、新たな仕事をまた探さなければならない状況に置かれていたことは認識していた。
 就職情報誌などを墨田区のアパートで読んではみたものの、やはり中卒という学歴の低さでは道が限られており、予想通りの煮詰まり方だった。
 仕方なく、隅田音楽出版にいた時に関わった、他社のある知人の家を訪ねて相談してみたところ、「それなら、こんな話があるんだが…」と提示があった。
 8月の半ば、広島で平和祈念コンサートが行われるのだが、そのスタッフを募集している最中であるというのが情報として入ってきている、とのことだった。
 その話に乗ろうとして彼に頼み込み、紹介状を書いてもらったところ、折り返しで「広島に7月23日に来るように」との指示のある採用通知が届いた。
 それとともに、「では、次はその広島に住むとするか」と、青森を離れて始めた“全国まわりの旅”を再開する気になり、転居の支度にとりかかったのであった。

 広島行きの準備がひととおり整ったあと、私は息子の進を連れて光村家に向かった。
 マンションの部屋には、その日はむつみも両親もいたが、夏ということで、麦茶と水羊羹を私達親子に出してくれた。
 そして、広島に行くことになったと私が言うと、むつみの父は「そうですか、頑張ってくださいね」との言葉に続けて、「私も歌は好きなんでね、いつか歌手としてデビューできるよう、陰ながら応援しますよ」と励ましを私にくれた。
 一方むつみも、進に「一緒に落語をやって楽しかったね。またいつか会おうね」と言っていたが、進はむつみとともに中学校の落研で活動しており、当時その話を家で私によくしていたものであった。
 光村家に挨拶をしたことで、広島に行くことに対する心の整理もきっぱりついたのだが、ここでも、隅田音楽出版を退社した時と同じように、なんとか期待に沿えるように頑張ろうという意気込みが湧いたのであった。

 さて、私がスタッフとして採用された、その広島でのコンサートだが、本番は1992年の場合、8月9日に設定されていた。
 日取りの決め方は、公式行事の平和祈念式典のあとの日曜日としており、この年の8月6日は木曜だったために、3日あとに行われたことになる。
 会場の準備は、7月25日から始まった。
 採用通知に書かれていた23日は、広島にスタッフを集めて注意事項などの説明が最初にあった日で、現場へ2日後に出向いての作業開始に備えたものであった。
 7月最後の一週間は、コンサートで使われる音響機材などの運搬や調整で働きづめであったが、8月に暦が変わってすぐ、一日だけシフトの関係のためか、非番の日があった。
 その日の夕方、市内に借りたアパートから進を連れて、広島市民球場のナイターを観戦しに行ったのが、この章の冒頭で述べた話の場面なのだった。

 そして、コンサートでは、著名な歌手・奏者が何人・何組も演じるのを見聞きしたのだが、私にとって特に強く印象に残っているのは、クラシック歌手である七瀬徹さんであった。
 七瀬さんは1933年、広島市で生まれたが、歴史をひもといてみると、2年前の1931年には中国と日本との武力衝突、いわゆる満州事変が起き、翌1932年には満州国の独立宣言が日本によって行われており、それはその同じ年の犬養毅首相の暗殺、五・一五事件からつながったものとされる。
 以降、日中戦争を経て太平洋戦争の開戦、そして激化のもと、1944年6月に学童疎開が閣議で決定され、その対象になった国民学校初等科3年から6年の中に七瀬さんも含まれていた。
 疎開先での生活の大変さ、殊に飢えや不衛生に関しては、経験のない私などの口から軽々しく述べることなどできないのだが、1年2ヶ月ほど経って、七瀬さんの故郷の広島市に、「その日」が来た。
 1945年8月6日。
 日付が意味するもの、それはなおのこと、私が話せるものではない。
 疎開先での七瀬さんに一報が伝わっての心の内、その詮索なども私には不可能である。
 かくして七瀬さんに残されたもの、それは「戦災孤児」の名ひとつだけであったのだった。

 のちに世界的音楽家として立身出世を果たしても、七瀬さんが広島に住み続けたのには、「この地で平和を訴え続けたい」という意志が込められていたのだが、その心境に少しでも触れることができたのは、私にとっての大きな財産だと思っている。
 そしてその広島でのコンサートが終わって2日後、七瀬さんはロンドンへ向かい、ヨーロッパ巡業となったのであるが、そのような多忙の身ながらも毎年夏の広島のコンサートへの出演を欠かさなかったのは、私などとても足元にも及ばないと、ただただ感服するしかなかったものであった。


「歌の街・長崎」

 広島と同様、この街にも路面電車が走っている。
 秋分の日も近く、日の暮れるのもだいぶ早くなってきていたはずなのだが、広島にもまして、ここは依然、夕陽がなかなか沈まない。
 1992年9月初頭に、私の棲家はその長崎へと移っていた。

 広島での平和祈念コンサートにスタッフとして参加した私は、イベントが終わってしばらくの間、現地のアパートで息子の進とともに暮らしていた。
 コンサートの出演者のひとり、七瀬徹さんは、すでにヨーロッパ巡業に旅立っていたのだが、その七瀬さんと私との間にあった接点について思い返してみていた。
 七瀬さんは国際的な音楽活動をしていて、その平和祈念コンサートの出演者の中では毎回、最も一般的に名を知られていた存在であったのに対し、当時の私は、一応流しやクラブ歌手を経験していたとはいえ、レコードやCDを一枚も出していない、無名のどこの馬の骨ともわからないような者にすぎず、七瀬さんとは全くの「月とスッポン」の間柄にあったといえる。
 そのようなことから、私がスタッフ募集要項に出演予定者として「七瀬徹」の名前を見た時も、雲の上の人という感覚でとらえており、もしお目にかかったら失礼のないようにという意識を持っていた程度だった。

 そして、コンサートの準備の仕事が何日か進んだある日のことであった。
 「君、秋村君といったね。ちょっと飲みに行かないか」
 そう私に声をかけてきたのが、ほかならぬ七瀬さんであった。
 「全国を渡り歩いてきたそうだね」
 私のその経歴は、スタッフ応募の時に郵送した履歴書に書いたのだが、それを七瀬さんも見る機会があったということらしい。
 ともあれ、そのことで私が七瀬さんに気に入られて、知り合うきっかけになったのは間違いないのであろう。

 準備期間中、私が七瀬さんと会う機会は何度かあったのだが、そういった時に七瀬さんが話題に出してきたものとして、太平洋戦争に関するさまざまな作品がある。
 なかでも自らが孤児となった経験につながっている、広島の原爆については、漫画『はだしのゲン』、小説『夏の花』『黒い雨』、そして『原爆詩集』など、いずれもかなり詳しく話していたのが印象に残っており、さすがは平和祈念コンサートの重鎮をなしておられるだけのことはあると感心したものであった。

 加えて、七瀬さんの話は広島のことにとどまらず、もうひとつの被爆地である長崎についても及び、そこで出てきたのが『長崎の鐘』だった。
 私が流しの歌手をしていた時、『長崎の鐘』を弾き語りしたことがあり、歌のそれは知っていた。
 そして、原作として永井隆博士の同名の小説があることも一応知識としてあったのだが、本自体は七瀬さんと会った時はまだ読んでいなかった。
 「難しくない文章だから、すぐ読めるよ」という七瀬さんの言葉を受けて、8月9日が本番だったコンサートの後片付けも終わって暇になった頃、広島市内の古本屋で『長崎の鐘』を入手し、結局そのことが広島の次の行き先を決める指針となったのであった。
 また同じ8月、進は夏休みの最中だったが、広島の中学校に転入届を出していたのを、長崎のそれに変更する手続きをとり、結局私たちは8月末日を限りに広島のアパートを引き払ったのである。

 そのようないきさつを経てやってきた長崎に居を構えたあと、件の『長崎の鐘』の舞台である浦上地区にも足を運んだ。
 浦上天主堂の敷地内の、焼けただれた石像や、吹き飛ばされて土に突き刺さっている鐘楼などに、広島の原爆ドームを見た時のような爆風のすさまじさを感じたほか、坂の下にある永井博士の旧居の如己堂、さらには平和祈念像といったところも見て回った。
 
 さて、浦上を歩いている最中、私の心の中には、歌のほうの『長崎の鐘』のメロディーが流れていたのだが、そういえば前にいた広島のほうにはどんな歌があったかな、と思い返してもいた。
 それを考えたところ、広島を舞台にしたヒット曲はあまり多くは浮かび上がらず、やっと『ひろしまの母』『一本の鉛筆』などが出てきたぐらいであったが、イメージが原爆に集中しているという印象は否めず、その点において長崎とは異なっていると思った。
 
 ではなぜそうなったのかというと、広島と長崎は同じ被爆都市であっても、状況にやや相違があるからではないかということを考えた。
 特に地形の面で見てみると、広島は太田川の三角州の上に市街地が広がっており、全体として平坦な形をなしているのに対し、長崎は平地は少なく、海に山が迫っているために坂が多い街並みになっている。
 それゆえ、長崎のほうは地形の複雑さから、原爆の爆風や光線が山にさえぎられて被害が及ばなかった市街地も存在しており、広島と比較して死者数などに差が生じた一因となった、という話を調べてみて見かけた。
 そして、大浦天主堂やグラバー邸などは19世紀に建てられた建造物だが、原爆による被害は受けていないという事実があるのはその一例とみることができるという。

 『長崎の鐘』から入った、歌の話に戻ろう。
 長崎は日本の都市の中で、御当地ソングの曲数は屈指だといい、東京や大阪に次ぐぐらいの上位に位置しているといわれている。
 その東京や大阪の場合は、大都市で人口が多いことが歌の多さにもつながっているのかもしれないのだが、長崎はというと、人口は50万人に見たず、九州においてならまだしも、全国的には特に大きな都市にはあたらない。
 となると、長崎は街としての規模の割には、歌の題材が豊富にあるというのは間違いないということなのであろう。

 では、長崎を舞台にした歌が実際どれくらいあるのかというと、一説にはレコードやCDになったものだけでも千曲を超えているらしい。
 私は流しやクラブ歌手という職業柄、知っている歌の数にはそれなりの自信はあるが、ことに長崎については、十曲、二十曲と次から次へとポンポン出てくるのを思うと、確かに千曲というのは嘘ではないだろうというのが実感である。
 
 そして、せっかくその長崎に来たのだからということで、数々の歌に出てきた名所をまわってみようという考えになり、それが私の長崎時代にしていたこととして今でも心によみがえってくる。
 『長崎の鐘』の浦上地区については既に書いたが、他に、出島・丸山、思案橋、オランダ坂、眼鏡橋などなど、行き先はいくらでもあり、全国でも上位の規模という路面電車などを駆使して足を運んだ。

 歌の街の「歌枕」に触れたこと、それが私の長崎の思い出の中を大きく占めているのであった。


「兼六園の菊桜の下で」

 雪吊りの最後の一本が、取り外されようとしていた。
 木は唐崎松の名があり、幕末近い頃に近江の唐崎から種を取り寄せて育てたものだという。
 1993年の3月も下旬にさしかかる頃、その兼六園のある金沢へと私は転居したのだった。

 広島から移り住んだ長崎で年明けを迎えた私であったが、冬至を過ぎて間もない、一年で特に日の短い時期であっても、その長崎は日暮れはそう早くはなかった。
 東京と比較すると、長崎は経度にして10度ほど西に位置しており、日の入りの時間はおよそ40分ほど遅いという。
 日本で、その長崎より西にあるのは沖縄だけであることを地図であらためて見て、思えばこんな遠くまで来たのだなあと、ある種の感慨にかられたものであったが、それでは次はどこへ行こうかとじっくり考えなければならない局面をまた迎えていた。

 故郷の青森を後にし、まずは民謡の“つて”があった東北および北海道の、仙台と札幌を訪れた。
 次いで、大阪・京都・名古屋といった、関西および中京の中心都市で暮らした。
 そして一旦東京にいたあと、広島と長崎という、平和について考えさせられる街に移り住んだ。
 流れとしては、日本の北から南、東から西へと動いているのが見てとれるのだが、とりあえず列島縦断をそれなりに進められたという感覚はつかんでいた。

 そのような中で、いつもながら日本地図を見つめていた私であったが、2月のカレンダーはこの手ではがしていた。 
 3年前には仙台、一昨年は大阪、そして前年は名古屋で越した冬を今度は長崎で乗り切ったことになるが、春を迎えてどう動くかとなると、地図を見る私の視線は上目遣いになっていた。
 青森で生まれ育ったせいであろうか、南の暖かい土地に憧れる半面、ときに北国が恋しくなるという習性も私の中のどこかにあるのではないかと思っているが、日本において「北国」と呼べる土地は、どのあたりまでなのか。
 そう自問してみて、まずは当然北海道、そして東北が浮かんできたが、それらの土地では既に暮らしたことがあるし、思い起こせば歌手を目指して東京に出てくる前、民謡の巡業においてこの足であちこちの土を踏みしめている。そう考えると、行き先としての候補からは一旦外すことになった。
 そういえば、とふと思ったのが、北海道も東北も、名称の中にいずれも「北」の文字が入っているということであった。やはり北国と言われるだけのことはあるが、それならば、日本で他にそういう場所はあるのだろうかという発想になり、何十秒かの思考ののちに「これだ!」とひらめいたのが、「北陸」の2文字だった。

 北陸──今ではこの言葉は、富山・石川・福井の3県のみを指すのが一般的だが、90年代前半だとまだ、新潟も含んでいたように記憶している。その合わせて4県を、長崎からの転居先の候補に絞って考えることにした。
 一番の大都市ということでは、やはり新潟市であろう。21世紀になってからそこは、本州の日本海側では初めての政令指定都市の名を得ることになるが、それだけに、私の目はまずそこに向いた。
 いつもの私であればそのまま、新潟への引越しの準備を始めるのであろうが、結果はそうはならなかった。
 広島にいた頃に知り合った音楽家の七瀬徹さんに『長崎の鐘』の小説をすすめられ、それが長崎への転居につながったことは既に書いたが、私の心の中に波及した事柄は他にもあった。
 中学を出て流しの歌手になった私は、読む本といえば、楽譜や歌詞の載った歌本が大半で、小説のような文章に触れる機会は決して多くはなかった。
 そのように普通の本をあまり読み慣れていなかった私にとって、『長崎の鐘』という一冊の本に対峙してじっくり読み込んだことは、それなりの意味があった。
 とはいえ、中卒で学のない私のこと、にわか“文学かぶれ”程度のものであったかもしれないが、長崎では図書館や古本屋に足しげく通い、それまでとの比較のうえでの「本の虫」ともなっていたことは確かである。

 そして、“北陸”と“文学”というふたつの要素に沿ってみてたどりついたのが、「金沢三文豪」というキーワードであった。
 広く知られているとおり、泉鏡花・徳田秋声・室生犀星の三人の金沢出身の文学者を総称して「三文豪」というのであるが、中学時代に国語の授業で文学史として習ったような記憶はあったものの、作品を実際に読んだことはなかった。それだけに、長崎の図書館ではたびたび借り、古本屋では何冊か買い、それなりの数を読み込んでおり、その流れで金沢への興味も深め、次の住む場所をそこに定めるまでになった。
 結果的には3月半ばを過ぎた頃のことになるが、息子の進が中学1年の3学期の終業式を終えて間もない日、長崎空港から15時45発の飛行機で通称・伊丹空港の大阪国際空港へ飛び、次いで新大阪にバスで出て特急雷鳥に乗り込み、金沢へは夜の9時半ごろに着いたのであった。

 この章の冒頭で書いた兼六園の風景は、金沢に来てすぐの時のものであるが、私はその庭園の様子が気に入り、以降もたびたび訪れることになる。
 まず、4月の初頭の、ソメイヨシノが満開になった時に来てみて、さらに別の種類である菊桜が咲きほこる同月下旬にも足を運んだが、その折には次のような出来事があった。

 八重の花びらに目をやり、見上げる空は晴れわたっていたが、一緒に来ていた進が言った。
 「ちょっと待ってて」
 進は私のもとを離れて速足で行ったが、その先ではなにかの撮影が行われているようであった。
 しばらくして戻ってきた進に聞いたところ、呉服屋のPRの映像を撮っていたものだという。
 金沢は加賀友禅で有名な土地であるから、兼六園での和服の撮影というのもうなづけるが、進はさらに言った。
 「僕と同じクラスの子が、着物のモデルをやってたよ」
 進はこの4月から中学2年になっており、その同級生ということになるが、話は続いた。
 「親父と兼六園に来たってその子に言ったから、ちょっと挨拶に一緒に来てくれない?」
 進に言われるままに行ってみると、そのクラスメイトの女の子がいた。
 和装のその子は眼鏡をかけていたが、取るとかわいい顔立ちになりそうなのが何となく見てとれた。
 「僕の親父だよ」
 進にそう紹介されたので、彼女に向かって言った。
 「進の父の稔です。息子がお世話になっているようで、よろしくお願いします」
 それを聞いてちょっと戸惑ったように見えた彼女は答えた。
 「どうも、保坂美由紀です。こちらこそよろしくお願いします」
 私と美由紀との初対面の時の様子はそのようなものであったが、和服が似合う子だなという印象がのちにある意味を持つことになるとは、当時は思ってもみなかったものである。

 兼六園での出来事の話が長くなったが、そもそも私が金沢へ来るきっかけとなった三文豪に関しての、市内に点在するゆかりの地をめぐったことに勝るとも劣らない、懐かしい記憶となっているのであった。


「ハマの移ろい」

 秋分が近づき、だいぶ出るのが遅くなった朝日が、ベイブリッジを染めていた。
 散歩やジョギングの人ともたまにすれ違ったのち、ベンチに腰をおろし、氷川丸の向こうにその吊り橋を見ている一人の男の姿がある。
 1993年の、横浜で過ごした夏を山下公園で顧みている私であった。

 その前の年の夏は、広島で平和祈念コンサートのスタッフをしたのだが、秋になり長崎に移ったのを機に、私は仕事をほぼ1年ぶりにクラブ歌手へと戻すことにした。
 クラブ歌手については、私は1990年の秋に移り住んだ大阪で始め、京都そして名古屋での暮らしの糧としていたが、その後の東京での就職などによるブランクの期間もやはり、本当は自分には歌手のほうがやはり合っているのではないかという感覚が心のどこかにあった。
 そんな中でやってきた長崎は、数多くの歌の舞台となっている街であったが、それが「歌うこと」に対してあらためて向かい合う機会となり、歌い手への復帰に突き進むには格好のきっかけとなったのではないかと、私自身が今そう思っている。

 そしてその長崎に続いて金沢でも、クラブ歌手を継続したが、仕事の中で次に述べるようなことがあった。
 所は兼六園に程近い、金沢屈指の繁華街である香林坊、その一角にある店での話で、6月の梅雨入り頃と記憶している。
 ステージで何曲か歌ったあと、客席にサービスを兼ねて降りていって、お客と話すことにした。
 挨拶をして始まった会話が進んでいく中で、テーブルについていた数人の客の中のひとりが私に言った。
 「私どもは、横浜から出張で来ました」
 それまでいろいろな土地で歌っていて、地元の人ではない客とは幾度となく会っているが、おもに東京から来たという人が多かったように思え、横浜からという人と会うのはこの時が初めてであった。
 
 そのことにちょっと意外だなと思ったあと、こう言った人もいた。
 「ここは金沢ですけど、私の住んでるところも、“金沢”なんですよ」
 私が、「えっ、横浜の会社にお勤めでしょう?」と聞き返した、彼は笑って話した。
 「いえいえ、つまりですね、横浜にも金沢ってつく場所があるんですよ。市の一角に金沢区ってあって、私の家の最寄り駅が『金沢八景』というんです」
 なんだそういうことなのかと納得したが、地名というのは同じものが全然違う土地同士でもよくあるんだなと改めて思い、面白く感じた。

 そのテーブルについていた数人の客は皆、横浜の会社の社員の一団であったわけだが、一番の上司と思しき男性が言った。
 「一度、横浜にも来てみないかね」
 これも一瞬唐突な感じのした言葉であったが、こう続いた。
 「実は来月、ランドマークタワーが開業するんだけど、ビルはもうできてて、さすがに日本一の高さのビルというだけあってすごく目立っててね、いっぺん見にきたらどうかね」
 そう言われて、「そうですか、見てみたいものですね」と社交辞令的に答えたのだが、私の心の潜在的な意識の中に、横浜という土地への興味が根をおろしたのは、これら一連の会話の影響だったことは明確であった。
 結果として、それが金沢からの転居先を決定づける要素だったわけで、「ちょっと安易だったかもしれないけど、こういうのもまたいいのかな」などと思ったりもしたものである。

 そして横浜へは、7月の下旬近くになって降り立った。
 件のランドマークタワーの開業は7月16日だったということで、私が行ったのはその一週間ほどあとと思う。
 ちなみに、そのビルがある一帯は、みなとみらい21という名があるが、1993年の夏頃はまだ発展途上という様子であり、一本だけ孤立して天を突いている印象が見てとれたものであった。
 また、ランドマークタワーの根元のすぐそばには、日本丸メモリアルパークがある。
 日本丸は、文部省航海訓練所の練習船であったが、1984年の引退後はドックに係留・公開されて今日に至っている。
 その帆は普段はたたまれているが、月に一回ほど総帆展帆日があり、翌8月の当該日に再度、息子の進を連れて見に行った。

 一方、金沢八景のほうにも、その夏に出かけている。
 そこは横浜の中心からは20キロメートルほど離れてはいるが、京浜急行だと20分もかからず、通勤には容易であるとの話であった。
 そう私に言った、あの出張中の男性からは他に、5月に八景島シーパラダイスが開園したとも聞いていたので、ここも進の夏休みにふたりで出向いた。

 なお、その頃に私がクラブ歌手の仕事で歌っていた場所は、おもに関内駅の周辺であったが、駅の近くには横浜市役所や横浜スタジアムなどがある。
 スタジアムへも、やはり夏休み中の進とともに観戦に行ったが、その1993年は本拠地の球団が前年までの『横浜大洋ホエールズ』から『横浜ベイスターズ』に改称されて迎えた最初のシーズンにあたり、そのアピールがだいぶなされている感じがしたもである。

 そのように8月は、私の仕事の休みの日には横浜のあちこちを進とともにめぐったが、進の夏休みが終わっても私はそのままクラブ歌手を続け、夜の仕事ゆえ帰りが明け方になることも相変わらず多かった。
 そして、横浜にいた時に私と進が住んでいたのは、中華街の東、元町に近いアパートであったが、そこに関内から帰るのには、西に延びる根岸線に沿った道を歩く手もあったものの、どちらかというと私としては、海岸に出て山下公園の中を歩くルートのほうが気に入っており、この章の冒頭の情景は、そういった時のことを描写したものである。

 ランドマークタワーの開業、八景島シーパラダイスの開園、それに大洋ホエールズのベイスターズへの改称など、1993年の横浜にはいろいろと変化があり、ある意味で節目の年のように見えたが、それに立ち会ったことで、港町の移ろいから私もなんとなく力がもらえたような気がしたのであった。


「橋を渡って高松へ」

 お昼時を過ぎても人の多い店内で、息子の進とうどんを食べていた。
 名物として全国に知られているだけあって、そこかしこにうどん屋があるが、来てからひと月だけで、何軒に足を運んだろうか。
 1994年の春、その讃岐こと香川県の中心地、高松に私の住所が変わっていたのだった。

 四国へ行く構想は、私の中ではその1年以上前から既にあった。
 1992年の9月に長崎に移り住み、私の足が初めて九州の土を踏みしめたのだが、その時点で、日本の主要四島のうち、四国だけが未踏の地として残ったことになる。
 「それならば次はその四国へ移り住もう」という考えは、年が明けてから心の中に次第に湧いてきたのだが、既述の通り、“三文豪”への憧れを当時持ち始めていたことがあり、その気持ちのほうが勝ったために、3月に金沢への転居という選択を私はしたのだった。

 「遅くなったが、次こそは四国へ」と、その金沢で考えてはいた私であったが、今度は仕事の中で、ある出張中のサラリーマンの一団と会い、それがきっかけとなって彼等の会社のある横浜に、1993年夏から住所を変えた、そんな話も前章でさせていただいた。
 結局、そのような経緯があって、1年あまりの延期をもっての四国行きとようやく相成ったわけである。

 それではその四国の中の、どこで暮らすのがいいのだろうかと考えることになったのだが、なにせ今から15年以上前とあって、四国をとりまく状況は現在とはだいぶ異なっており、その話もしなければならない。

 本州四国連絡橋といえば、今では3つのルートがあることは周知の通りだが、私が四国への転居を行動に移すことになった1994年当時では、全面開通していたのは岡山と香川を結ぶ、児島・坂出ルートひとつだけであった。
 その児島・坂出ルートの開通は、1988年の4月のことであったが、ちょうど前月には本州と北海道を結ぶ青函トンネルも開通しており、日本の交通史上で大きな転換点の年であったといえる。
 現在でも、単に瀬戸大橋といえばこのルートを指すのが一般的だが、大きな特徴として、上段に道路、下段に鉄道という併用がなされていることがある。
 つまり、橋の開通で一挙にふたつの交通手段による本州・四国の連絡がなされたことになるのだが、鉄道に関しては今なお、四国へ直接行ける唯一のルートであり、他のふたつ、つまり神戸・鳴門ルートと尾道・今治ルートは道路のみで鉄道は通じていないことを見ても、重要性の高さから最初に開通の運びになったことがうかがえる。

 さて、ではなぜ岡山と香川のみ鉄道で結んだかというと、既存の四国内における鉄道網の形状が関係している。
 四国を走る鉄道のうち、幹線となっているのは高徳線・土讃線・予讃線があるが、いずれも香川県と他の3県とを結んでおり、大まかにいえば香川を扇の要とする形状をなしている。
 そのため、香川を本州とつなげれば、四国にすでにある特急をそのまま岡山まで伸ばして山陽新幹線と接続できるという利点があるのが大きいといえる。

 交通の話が長くなったが、私が四国のうち香川を住む土地として選んだのは、そういう利便性のよさを求めてであったことを明記しておきたい。

 9時20分に新横浜駅で新幹線のひかり号に乗り、岡山に着いたのは午後1時ちょうどのことであった。
 瀬戸大橋線の快速・マリンライナーの発車はその30分後のことであったが、私が「海の上の橋をこれから渡るんだぞ」と窓際の席の進に言うと、「島が見えるかな、船も通るかな」と楽しみな様子で答えていた。
 
 本州では最後の駅となる児島を出てしばらくすると、外の風景は青い海に切り換わった。
 そこには進の期待どおり、大きな島・小さな島をいくつも望むことができ、船も何隻か通っていくのが見え、鉄道で海の上を渡るのが初めての私は不思議な感覚がしたし、進もまたそんなふうであった。

 電車が四国に上陸し、宇多津駅での方向転換を経て坂出を出て、終点の高松へ着くと、時計の針は2時半を差していた。
 新横浜から鉄道だけで5時間で来れたというのは、結構早くて便利だと思ったが、なかでも岡山から高松までが1時間ちょうどで行けたという点で、その思いを強くした。
 「瀬戸内海を渡る」という言葉の中に、単に空間的な距離だけにとどまらない「隔たり」をイメージしていたからではないかと、今になって私は考えているものである。

 さて、私と進が四国暮らしのスタートとして腰をおろした高松であるが、初めて来た土地のはずなのに、なぜかどことなく懐かしさを感じた、その話に移りたい。
 私が訪れた当時の高松駅は、海がほとんど目の前にまで迫っていた。
 駅を出て少し歩くともう、高松港の桟橋に着いてしまうのであったが、それが何とはなしに、私自身の子供の頃の姿を、心の奥から引き出してしまう感覚へとつながった。
 なぜなのか、ともし問われたなら、「私の生まれが青森市だったから」としか答えようがないことにふと気付いた。
 青森駅も、この高松駅と同様、海に突き出るような構造になっていて、港もすぐそばに立地しているが、そこにはかつて青函連絡船が出航・帰航しており、例えば歌の『津軽海峡冬景色』などにも描写されている。
 ひるがえって高松港はというと、瀬戸大橋が架かる前、ここに宇高連絡船が発着していた。
 「宇」は岡山県側の宇野港をさしているが、かつては本州と四国との往来の大動脈が長らくその宇高航路であった。
 青函航路と宇高航路、前者は北海道、後者は四国と本州を結ぶ船が通ったルート、そしてそれぞれに、私の故郷の青森市と、流れ流れてやってきた高松市を擁していることを思い、来てみて感じた「懐かしさ」の正体をようやく確信した私であった。

 そして、航路にとってかわった青函トンネルと瀬戸大橋、その鉄道の通し方が異なっていることから、青森とここはどう違っているのかと、高松で暮らしながら私が考えることもしばしばあった。
 高松の南に広がる讃岐平野を地図で見ると、水色で示される水面が多いのが目につくが、それらがほとんど人工のため池であるということから、この土地においての水の確保の大事さが見てとれる。
 香川の、海をはさんで反対側の岡山県は「晴れの国」といわれるほどに晴天日数が多いが、気候の面で香川もその岡山と似ており、降水量はやはり比較的少なく、夏場の水不足もそう珍しくはないという。
 しかしそのことは一方で、荒天になることが少ないともいえるわけで、高松に来て、どこかまったりした空気を感じ取ったのはそのためだと私は思ってもみたものである。

 比較的安定した天候が、島の多さと相まって架橋を可能にしたのだろうと、昔青森で見た冬の時化た海を引き合いに出しつつ進に話し、うどん屋を出て瀬戸の夕凪にひたっていた私の姿が、高松にあった。


「博多に来ていた、あの男」

 川のほとりに立ち並ぶ屋台が、夜の営業の準備にとりかかっている様子を横目で見ながら、私は仕事場のある中洲界隈で歩を進めていた。
 日が暮れると、その那珂川はネオンを映した流れに変わるが、それより時間としてはまだ少し早い頃合いに通りかかることが多かった。
 1994年の9月から移り住んだ、福岡は博多の地での私の夕方の様子は、そのようなものが日常的であったのだった。

 その年の夏までは、私は香川県の高松を生活の場所としていたが、そこを拠点として周辺のあちこちに出かけた。
 まず高松市内では、回遊式庭園のある栗林公園や、頂上から瀬戸内海を見渡せる屋島など、すぐに足を運べる場所に行った。
 ほかに香川県内では、琴平の金刀比羅宮でお詣りをしたり、高松港からのフェリーで、小豆島のオリーブ園や寒霞渓に出向いたりもし、さらには観音寺の名勝の銭形もこの目で見た。
 四国ではそのほか、8月の夏祭りである、徳島の阿波踊りや高知のよさこい祭りなども見てきて、その熱狂ぶりは私が子供の頃に見た青森のねぶた祭りを彷彿とさせるものがあった。
 あと、これは四国の外になるが、快速電車のマリンライナーで1時間ほどで着ける岡山へも何度か出かけていることを、交通の便のよさという点から記しておきたい。

 もっとも、それらの場所へ私が行ったとき、息子の進も連れていったかといえば、そうでないことも多かった。
 7月の下旬、高松市内の進が通う中学校が夏休みに入ると、進はちょくちょく外出するようになった。
 どこへ出かけているのかと私が聞くと、中学の同じクラスの女の子の家だという。
 そして、次のようなことを話した。

 彼女の家の裏山の森で、巣から落ちて木の下に横たわっている小鳥の雛をふたりが見つけ、連れて帰った。
 そのあと、夏休みに入っていたこともあり、進は彼女の家にほぼ毎日のように行き、ふたりで図鑑などを参考にしてその雛の世話をした。
 数週間が経ち、元気になった小鳥が飛べるようになると、野生に帰すためにふたたび森へ行き、空に羽ばたいていくのをふたりで見送ったのだが、そのころ8月も終わろうとしていて、進の夏休みはほとんど、彼女との小鳥の世話に費やされた。
 
 そういう事情があったため、四国の各地へは私だけで出かけることが多かったのだが、進は当時もう中学3年生になっていたのだし、休みの時の行動まで私があまり干渉する必要もないと思い、ある程度、進の好きなようにさせていた面があった。
 私には私の、そして進には進の想い出があるのだと考えればそれでよしという割り切りが、私自身の心の中に存在していたと、そう思っている。

 さて、ではその高松からなぜ次の行き先として博多を選んだのかについても少し話したい。
 四国に行ったことで、日本の主要の四つの島の土をすべて踏んだことになった私と進であったが、新たな土地選びの基準として、「政令指定都市」という括りを持ち出した。
 政令指定都市とは、ごく簡単にいうと、行政上で市内に区が設定されている都市なのだが、当時すでにあったものの中で、私と進が過去にまだ住んだことのない場所がどれだけあるのか考えてみた。
 そうしたところ、東日本のほうからでは、川崎市と千葉市があったのだが、それらの市はいずれも、以前十年あまり暮らした東京の近隣で、市街地としても東京とひと続きになっていることから、あえて住むほどの新鮮味はなさそうだと思い、行き先の候補からは外した。
 では西日本ではどうかと、神戸を「大阪から市街地がひと続き」という理由で川崎や千葉と同様にスルーしたあと、地図を見る目をさらに左へ左へと移していくと、九州に入って視線が止まった。
 つまりそれは福岡県であったが、県内には政令指定都市が「北九州市」「福岡市」とふたつあり、どちらにしようかという最終選考に入った。
 結局、そこで決め手になったのは、食い意地が張っていたせいとでも言えばいいのだろうか、「ラーメン」や「明太子」から連想した博多という土地であり、その福岡市に行ってみようという考えで、私と進が合意した。
 そして夏の終わり、高松から岡山へ出て、山陽新幹線の終点の博多駅でふたり下車したのであった。

 その博多での私の仕事は、それまでと同じくクラブ歌手を継続し、中洲の店を中心に歌っていたのだが、土地に来てふた月あまり経った、11月半ばのことであった。
 ステージで数曲歌ったあと、控え室に戻り休んでいると、店長が私のところに来て、こう言った。
 「秋村君、いま、君に会いたいという人がいるんだが…」
 私はそれを聞き、はて、誰なんだろう、と首をかしげたが、店長は続けた。
 「その人は、会えばわかりますから、と言っているんだがね」
 ますます、一体誰なんだという思いが強くなったのだが、好奇心という意味合いもその中にあったため、とりあえず会うことにした。
 
 そこにいたのは、ダークスーツにネクタイの、年の程なら私と同じくらいに見えた男性であった。
 博多に来てからの仕事の関係者なのかなとも思ったが、ちょっとその方面での見覚えはなかった。
 私が戸惑っていると、男性は言った。
 「こんばんは、秋村稔さんですね。私は、こういうものです」
 一枚の名刺が私の前に出てきた。
 名刺を見ると、こう書かれていた。

   唱道興業 マネージャー 大月豪

 大月豪──そうだったのか。
 あいつだ、あの男だ。
 中学を出て上京した私を流しの歌手の道に誘い、新宿の酒場で共演した、あの大月豪だ。
 
 「豪…豪なのか?」
 「そうだよ、俺だよ、久しぶりだな、稔」
 確かに、豪と最後に会ったのはまだ確か1970年代だったから、それから15年は経っている。年月からして、顔もそれなりに変わるものだし、すぐには分からなかったのも無理はなかった。
 
 私が受け取った名刺をしまうと、豪は言った。
 「あした、ちょっと話したいことがあるのだが、一日、空けられるかな」
 それに「ああ、いいけど」と答えた時点で、私の運命がまた大きく動こうとしていたのだった。



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