センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第2部



「夜行列車・青森行」

 左手にカバンひとつ、右手で息子・進の手を握って、私は列車を降りた。
 同じ3月でも、乗った時に比べて、空気の肌寒さが感じられた。
 この青森駅のホームを踏むのは、実に14年ぶりのことであった。

 その前日、進の保育園の卒園式があり、式に出たあと、進とともに帰った自宅に残っていたのは、ふたりの布団だけだった。
 進の卒園式の日を限りに東京を去る──と、私は1986年になってから考えを固め、そのために自宅の物は少しずつ処分していき、最後は布団だけとなっていたのである。
 その布団も、もうこの部屋に敷くこともないし、青森に持って帰るのも大変だからと、あるリサイクル業者を呼んで引き取ってもらい、これで部屋には何もなくなった。
 なお、帰郷に必要な身の回りの品については、持てるものだけをと絞った結果、ボストンバッグひとつに既に収めており、準備は整っていた。

 青森行きの列車は、夜9時少し前に上野駅を発車するものであったため、自宅は7時ごろ出た。
 それまでの数時間、何もない空っぽの部屋の中に私と進はいて、いろいろな話をした。
 進に保育園のことを聞くと、友達も結構いて、なかなか楽しかったと言っていたが、それには私もひと安心した。
 進のほうは、これから行く青森ってどんな所なの、と私にたずねてきたが、目の前が海で、後ろには八甲田山があり、夏にはねぶた祭りがあって…などと答えてみたものの、私の心の中の青森はあくまでも十年以上前の風景であって、今はどうなっているのかは分からないのが正直なところであった。それをこの目で見にいくという意気込みも、私の胸で高まってきていた。

 中野から国鉄に乗って上野駅に着くと、時計は8時20分を差しており、夜行列車のホームを探して乗り込んでいった。
 車両は2段式寝台だったが、進がまだ小学校に入学する前であったため、ひとつのベッドをふたりで使うことができた。進は寝台車に乗ることなどもちろん初めてであったため、よほど物珍しかったのであろう、車内を見て回りたいと私にせがんできたが、私はそれに応えてあちこちと案内した。
 発車して1時間ほどして、まず進のほうが、戻った寝台で眠りについた。寝顔からは、私の車内案内に満足した様子がなんとなく感じられたが、それを見て私もいろいろと思うことがあった。進がいたからこそ、私は音楽から離れてもなんとか生きてこれたのだし、亡き妻・和子も天国から私とこの進を見てくれているかもしれないが、親としての役割は私はそれなりにも果たせている気がする──などと。
 そして日付が変わるころ、私もまた進の横で目を閉じた。

 青森駅に着いたのは、朝9時のことだった。
 14年ぶりということもあり、駅の中はそれなりの変化をしていたが、特に目立っていたのは、駅ビルの建設工事をしていたことであった。名前は「ラビナ」といい、5月下旬の開業予定と記されていたが、これを書いている今は2015年だから、来年が開業三十周年ということになる。
 駅の外に出てみると、これもまた変化が見受けられた。昔見慣れた建物もある一方で、あれっ、こんな店もできたのか、などと思うことも多かった。この青森でも東京と同じく、14年の月日が流れたんだなという感慨を抱いたものだった。

 そして足の向かう先といえば、もう決まっている。私が中学時代まで暮らした実家である。カバンと進の手は握ったままで、青森駅に背を向けて歩き出した。


「弘との一日」

 青森駅から東に向かって延びる新町通りの商店街の中を、私は息子の進を連れて足を進めていった。
 14年ぶりということもあり、いろいろと昔との変化が目についたが、距離にして500メートルほど進んだ時のことであったろうか。
 交差点で左のほうを見ると、てっぺんの尖った、大きな三角形の建物が目に入った。
 それは私の少年時代には全く影も形もなかったもので、青森県観光物産館・アスパムであった。
 1984年着工で翌85年に完成したそうで、私が目にした86年3月の時点では、開館まであとひと月となっていたという。
 進に「あれなに?」と聞かれて、そばまで足を運んだのち、開いたらまた来ようと言って新町通りに戻り、再度東に進路をとった。

 実家には、10時に着いた。
 駅から普通に歩けば20分ほどなのだが、その倍以上の時間を要した。その時の青森の街は、進にとってはもちろん目にするものすべてが初めてであったため、あちこちを私なりに説明していった結果、かなり寄り道・回り道をしたのである。
 さて、実家は建物自体は昔とほとんど変わっていないように見えたが、それでも十年以上の時は確実に流れている。中から誰か出てきたら自分はどうすればいいかという思いが頭の中をかけめぐり、玄関の前でしばらく立ちつくしていた。
 10分ほどして、覚悟を決めて呼び鈴を押すと、その20秒ほどあとに、引き戸の曇りガラス越しに人影が見えた。
 「どなたでしょうか?」
 大人の男の声だったが、記憶の中の父の声に比べてはるかに若い。となると──と考えつつ、たどたどしく答えた。
 「は、はい、稔、秋村稔です」
 「ああ、稔ちゃん、帰ってきたんだね、今開けるから」
 鍵のガチャッという音がして、戸がガラガラと言った。
 「稔ちゃん…稔ちゃんなんだね、僕だよ、弘だよ」
 14年ぶりに見るその顔は、しっかりとした大人の相になっていたが、昔の面影は十分残っている。
 「あがってよ、さ、さ、中へ」

 言われるままに入った家の中には、弘のほかには人の気配がなかった。
 「弘、父さんと母さんは?」
 「いま、旅行に行ってる」
 私の帰郷に関しては、前年の暮れに書いた手紙の中で日付を特定して知らせてあった。だからその日に帰ることは両親もわかっていたはずなのに、いずれも居合わせないとはなぜなのかと疑問に思った。

 「あれっ、その子は?」
 ここで初めて、弘が進の存在に気付いた。
 進は私と一緒に家の中に上がっていったのに、弘の目には入っていなかったようだが、それも考えてみれば無理はなかった。というのも、私が東京で和子と結婚して子供ができたという話は、手紙では全く触れていなかったのである。そもそも上京が夜逃げ同然の家出であったし、そののちの親の許しを得ないでの結婚であったのだから、さすがにそれは実家には言うことができなかった、というわけである。
 しかし現に弘の眼中に入った以上、進のことはもう隠しておけず、結果としてそれが突破口となって、東京での出来事を語り始めていくことができたのであった。
 十年以上にわたる東京暮らしのことを一気に話していったのだから、時間もそれなりにかかり、進が「おなかすいた」と言ってくるまで、飯時になったとは私も弘も気付かないでいた。

 近くのそば屋から出前をとったあと、今度は私から弘に、どうしても知りたかったことをいくつか聞き返した。
 まず、私が中野にいたことを弘が知った時のことだが、なぜ渋谷に来ていたのかとたずねたところ、それは公演のための上京だと言ってきた。弘は高校に進んでからも父のもとで三味線の修行を続け、卒業後はプロへの道を選び、青森を拠点として実践の舞台の場数を重ねていったのだという。
 そして、28歳の時に初の東京進出を果たし、渋谷公会堂での催しを大過なく終え、バーに繰り出してスタッフと飲んでいたところ、中年の見ず知らずの男性、つまり当時の私のアパートの大家が聞きつけて会話に入ってきて、それにより私の居場所を知ることになったという話を、弘らしく丁寧に筋道立てて私に説明した。

 次に、弘から私への手紙の中に書かれていた、父が入院したという病は何であったのかとたずねたところ、痛めたのは肝臓であったという。アルコール性肝障害とのことだったが、それは父の仕事柄、患う要因は十分存在していた。
 民謡歌手であった父は、東北や北海道の各地で公演をたびたび打ってきたが、そのような折、地元の後援者たちから招かれて酒の席に上がることが多く、断るのは角が立つことになるためしにくい。
 そういった形で酒量も頻度も重なれば、肝臓への重い負担は必至で、結果として安静を要する事態に至り、1985年晩秋に入院となったということで、同じように地方公演の多い演歌歌手などにもやはり肝臓を痛めるケースが多いとのちに知った。
 父の入院は、その時はひと月ほどで終え、私が帰郷した3月には旅行にも行けるほどに体調を回復させたというのだが、いったん肝機能障害が出ると完治というのはかなり難しく、以降も生活習慣には十分な注意が必要で、その事実は本人はもとより、家族の私たちにものしかかっていくことになった。

 他にも弘にはいろいろと聞いていったが、気がつくと日は西に傾いてきていた。話し続けている弘も大変だろうと、切り上げて自分の部屋に行こうと思ったが、よく考えるとそこには私は14年間足を踏み入れていない。一体どうなっているのかと不安がこみ上げ、弘に「入っていいか」とおそるおそる聞くと、弘は明るい表情で「見てみてよ」と私にすすめてきたので、言葉に従って部屋の前へ行って戸を開けた。
 そこは以前と変わらず、ではなく、昔よりはるかに整然としていた。私が上京する時は、ほとんど片付けなどもせず散らかったままで出て行ったのに、それがきちんと整理整頓されている。驚く私に対して弘が説明したことをまとめると、次のようになる。
 私は家出の時、一通の置き手紙を残していったが、弘はそれを翌朝両親に見せた時、家出に気付かなかったという嘘は言えず、現金を渡すなどして背中を押すような行動に出たと告白してしまった。父はそれを聞き、「稔はもちろん悪いが、弘、おまえにも責任はある」と叱り、私のいた部屋を定期的に掃除しておくことを弘に課した。そして、ひと月に一度の片付けを、つごう14年にわたって続けてきたのだという。
 「どう、きれいでしょう」とやや自慢げな弘の笑顔を見て、私は思いをひとことの「ありがとう」に込めるほかなかった。

 夜、その部屋に布団を敷き、天井を見上げていた。
 帰郷した私を実家で迎えてくれたのは弘ひとりだったが、もし両親が家にいたらどうなっていただろうか、とてもこんなゆったりとした気持ちではいられなかっただろうな、弘だけでよかった、と一日を振り返った。
 いや、これは実際のところ、意図的に父と母が家をあけたのかもしれない。私が戻る日付は伝えてあったのだから、それを知って家にいなかったのは、まずは弘とゆっくり語り合って心を落ち着けなさいという親心なのではないかと思いをめぐらせ、「あした父さんと母さんが帰ってくるけど、僕は朝早く仕事に出るから、家にいてね」という弘の言葉でそれをほぼ確信したのであった。


「居間に現れた進」

 14年ぶりの青森の夜が明けた。
 陽はそれなりに高く昇っていても、東京と違い、3月に雪が降るのもごく普通なこの土地だけあって、冷える朝だった。
 二階のこの部屋にさしこむ朝の光は、少年時代と変わっていないはずだが、それを浴びる私の顔は年相応の変化を遂げたことを、壁に掛かる鏡の前で実感した。
 部屋の中のもうひとつの布団では、進がまだ寝息をたてていた。東京にいた頃から目にしていたその寝顔も、青森に来てみると、幼い日の、見たはずのない私自身のそれに重なる気がしたのが不思議であった。
 その時、前の晩の言葉通り、弘はもう仕事に出かけたとみえ、家の中に姿はなかった。三味線の指導をしに行くと言っていたが、私と同じ28歳であってももう教える側になっているのは率直にすごいと思い、一方で自分は何をやってきたんだと胸に問うてみたものだった。

 さて、その日はまた、両親が旅行から帰ってくるという日でもあった。おそらく夕方ごろになるだろうから、その時は家にいるようにと弘に言われていたが、青森の街がどう変わったのかを前日より詳しく見てみようと、起きてきて「外に行きたい」と言う進を連れて表をぶらぶら回った。
 そして、戻ってはまたしばらくして出かけるというのを何回か繰り返したのち、進のほうは疲れてきたようだったため、午後3時頃からは私の部屋で昼寝をさせた。まだ小学校に入る前なのだから、大人の私とはペースが違うということで、外でもあまり無理はさせなかったつもりである。

 呼び鈴が鳴ったのは、夕方の5時頃のことだった。
 居間を出て玄関の戸の前へ行った時の胸の高鳴りは、当然といえば当然のものであった。
 外から声がした。
 「ただいま」
 それが父のものだとは、すぐ分かった。私は歌や楽器をやっていたことで、耳は普通の人よりも敏感かもしれないが、それでなくとも、声色も口調も、思い出の父の声とほとんど変わっていないように感じとれた。
 一秒するかしないかで戸は開き、二の句が発せられた。
 「おう、稔か」
 
 再会は思いのほか、あっさりしたものであった。
 涙ながらに抱き合うわけでもなく、かといって「どこほっつき歩いてた!」などと怒鳴られるものでもなかったが、なぜ両親は落ち着いていたのかと考えてみると、その日に私が帰ってくることが何ヶ月も前に既に手紙を読んで知っていたことがまずある。そして、弘は同日は仕事で不在だから、家にいるのは私だと分かっているうえでの準備万端の対応だったのかもしれない。
 
 会話の場所は、居間に移った。
 東京で14年暮らしてきた話は、前日に弘に語ったことを夜に振り返ってまとめて備えをしておいたのが功を奏したようであった。
 話す際、父と母の顔に視線を向けていると、月日の重みというのか、心ににじむものがあった。父はこの時60歳、母も51歳となっており、齢は重なったという真実が私の目から頭へ飛び込んできた。ことに父は、肝臓を患ったことが顔色に反映されていたようだったが、それはあくまで入院の事実を知っての私の先入観によるものであったのかもしれない。

 私がひととおり話し終わると、それまで相槌を打ちながら聞いていた父の口からひとこと発せられた。
 「そうか、頑張ったな」
 そして間を置いて、こう続けた。
 「一年や二年で帰ってきたとしたら、家の敷居はまたがせないつもりだったが、十四年も東京で辛抱してきたのは偉い。よくやったもんだ」
 それを聞いて、私はとりあえずほっとしたのだが、あくまで束の間の安堵であった。

 居間のふすまが開き、そこには進の姿があった。
 昼寝から起きて、私の部屋にいても暇であったのだろうか、階段を降りてやってきたのだった。
 その進を見て、さすがに父も母も言葉が出なかったようであったが、それも無理からぬことであった。私が書いた手紙の文章でも、和子と結婚したことは全く触れていなかったし、居間でそれまで話していた中でも、やはり和子や進のことは慎重に避けていた。
 しかし進本人が出てきてしまっては、もう隠しおおせるものではなかった。どうなっても仕方ないと腹を決め、正直に事実を打ち明けた。
 
 結果は、そこでも私が父にカミナリを落とされたりすることはなく、静かに言われた。
 「家庭を持ち、子供も育てたのか。たいしたものだ」
 だが、話には続きがあった。
 「それなら、この家でなくても暮らしていけるな」
 そして、一週間の期限内に、どこか住むところを見つけてくるようにと通告が下った。
 父も母も、私の家出については、弘が手紙に書いたように許したものの、さすがに私が結婚したことまでは許せなかったのかもしれないと、そんな思いが私の頭の中をかけめぐっていた。


「酒屋の二階部屋」

 再会した父から、一週間以内に家を出て新たに住むところを探すように言われた私であったが、ひとつ気になることがあった。
 私と同学年の弘がまだ実家住まいをしているのに、どうして私だけが出ていかなければならないのだということであるが、それについて少し考えてみると、私と弘とでは、その時点であまりにも違いがありすぎるのだからと気がついた。

 まず、弘は高校卒業後は父のもとで三味線の修業を重ねてプロへの道を歩んだが、それにより父の後を継ぐのが既定のものとなったとも言い換えられる。そのため、将来は弘が家の主人になることが決まったのなら、弘の実家暮らしも当然ということになるわけである。
 また、東京で結婚して子供ができた私と違い、弘は当時未婚であった。一度でも家庭を持ったのであれば独立して暮らせ、ということもあるかもしれないし、もし私が実家で無為に過ごすようになれば、今でいうところの「ニート」になってしまうかもしれず、それも父は危惧していたのではないかと思う。
 そのようにいくつもの理由を推察していった結果、新たな住居と、その家賃を払うための新たな仕事も探さなければならないと考え、翌日から行動に移すことにした。

 その日の昼下がり、職業安定所と不動産屋に行くために家を出て、少し歩いたところで、安達酒店の前を通りかかった。
 少年時代、夏巡業に私の両親が行っていた間、そこの二階に弘とともに泊まっていた思い出があるのだが、前日進とともに散歩した時は店が定休日だったために、家の誰とも会わなかった。
 そして一晩が明けて、通りかかった店先で「おっ、今日は開いている」と眺めていた私に、店の中から声がかかった。
 「あれっ、もしかして稔ちゃん? 久しぶりね」
 店番をしていたのは、昔お世話になった満壽美さんにほかならなかった。
 一緒に海水浴に行っていた頃からは、二十年近く経っていて、私の顔もだいぶ変わったはずなのに、特徴を覚えていてくれたようであった。
 その満壽美さんのほうも、すっかり大人の女性の顔になっていたのだが、それでも面影はなんとなくだが残されている気がした。

 「長いこと会ってなかったけど、どうしてたの?」
 問いに対し、私がひとこと率直に「東京に行ってたんですよ」と答えると、満壽美さんは納得した表情を見せ、続けた。
 「今日はどこへ行くの?」
 「とりあえず職安と、それから不動産屋にも…」
 仕事と、あと住むところも探している話を私がすると、満壽美さんは言った。
 「それだったら、うちの二階があいてるから、来ていいわよ」
 住居の問題は、あっさり解決してしまった。

 満壽美さんの案内で、酒屋の二階に上がった。
 その部屋は、小学生の時に泊まった場所であったが、あの時は六畳間だったのが、少し広くなっていた。
 襖を隔てて隣に三畳ほどの部屋があったのを、仕切りを外して実質九畳の間になっていたのであった。
 私と進が住むには十分すぎる広さであると、部屋を目にしてすぐに思った。東京にいたときの最後は四畳半のアパートに二人で暮らしていて、今度はその倍も広くなったのだから、と。
 そして、思い出にひたりながらも、安達家の人に迷惑をかけずに暮らそうという自戒の念も新たに芽生えたのであった。


「安達家の団欒」

 安達酒店の二階の一室に住むことが決まり、私はその日のうちに実家からリヤカーでいくつか荷物を運び込んだが、大きなものはせいぜい箪笥と座卓ぐらいで、あとは身の回りの小物いくつか程度にとどめた。実家の部屋は、すぐに空にしなければならないとまでは親に言われていなかったため、そのあと少しずつ整理していけばよかったのであった。

 日が暮れて、一階の居間にちゃぶ台がでてきて、私と進も夕飯をとることになったが、その場に集まった安達家の家族は、満壽美さんを含めて四人であった。
 満壽美さんは私よりふたつ年上だが、既に結婚して娘が生まれていた。その娘の名前は妙子といい、1980年の1月生まれというから、学年としては進と同じである。そのため、ふたりとも4月から小学一年生となるにあたっての準備を一緒に進めることになった。
 満壽美さんの旦那の義男さんは、青森市内の高校の教師であった。お二人が知り合ったのは、高校の同級生時代だそうだが、義男さんの姓が「安達」になったのは入り婿であるからと、御本人が言っていた。理由はわからないものの、安達家は代々女系家族で来ていたらしく、満壽美さんの母親の晴恵さんもやはり、当時既に亡くなっていた夫はもともと入り婿であったと私に言ったことがある。
 そのような安達家の面々の、満壽美さんに義男さんに妙子、それに晴恵さんといった四人に、私と進もひとつ屋根の下に加わり、六人でちゃぶ台を囲んだのであった。

 さて、私が実家から安達家に持ち込んだ物のひとつに、昔自分が使っていた太棹の三味線があった。
 中学卒業後に上京した際、ギターは持っていったが、三味線のほうは実家に置いてきた。流行歌の歌手を目指していたことからそうしたのだが、青森に帰ってきて14年ぶりに手にすることとなった。
 実家に帰った日に、自室の押し入れの中から出して弾いてみると、音は全く狂っていなかった。14年間も手入れしていなければ普通は湿気などで劣化してしまうはずなのに、なぜそうならなかったのかと不思議に思って、弘にたずねてみた。
 弘は微笑みながら、「メンテナンスしておいたよ」と答えた。演奏家としての修業のかたわら、私が置いていったほうの三味線についても、月に2回ほど調律などを行って音を保つのを十年以上にわたり続けてきたのだという。いつ私が帰ってきて弾くことになってもいいような状態に弘はしていたのだった。

 なお、東京にいる時に使っていたふたつの楽器、ギターとアコーディオンは、ともに手放してしまっていた。東京暮らしの最後は中野のスーパーでアルバイトをしていたが、息子の進も養っていかなければならなかったので、とにかく経済面では苦しく、金になりそうなものなら何でも売り払っていった。その時はもう音楽で飯を食う気も失せていた時期だったので、ギターもアコーディオンも質屋行きとなってしまったが、特にアコーディオンなど、流しの先輩が辞める時に私に譲ってくれたものだっただけに、申し訳ないことをしたと後になって良心の強い呵責にさいなまれた。あのアコーディオンを何とかして手元に取り戻すというのを、私は今でも見果てぬ夢として抱いている。
 余談だが、質屋ではそれらの楽器を含め、大方の品物は今の感覚では二束三文の金額にしかならなかったものの、例外もあった。私が流しで売れていたころ、ある年配の男性客から、「これ、持っていけよ」と言われ渡された腕時計などはそのひとつで、質屋が言うにはかなり名の通ったブランド品ということで、200万円になったが、その時計があったからこそ、中野で親子ふたりが1年半近く暮らせたといっても過言ではなかった。

 話がそれてしまったが、安達家に持ち込んだその三味線を食事の後に披露することにした。食前の安達一家への自己紹介の中で、あらかじめそれは予告してあり、食器が片付いたあとに膝の上に三味線の胴を乗せて、左手で棹、右手には撥をもって構えた。
 歌った曲が何であったか、はっきりとは思い出せないものの、民謡と流行歌の両方であったことは確かである。民謡はともかく、流行歌の伴奏は本来ならギターのほうが合うのだが、手元に三味線しかなくては仕方がない。中学生のときまで青森にいた際、ギターを覚えるまでは三味線でなんでも弾いていたのだからと、昔を思い返して両手を操り、喉をふるわせた。
 安達家の人達の反応は、はじめはじっと静かに聴いていたのだが、私が「手拍子もどうぞ」と言うと、皆さん“のって”きた。次第に手だけでなく歌のほうも合唱となっていき、東京で売れていた頃はこんな感じの時もあったなあと、昔のことが心をよぎりもしたものだった。
 ひとしきり歌って、「どうもありがとうございました」と頭を下げると、拍手の渦となった。満壽美さんは「稔ちゃん、よかったわよ」と声をかけてくれ、晴恵さんも「昔から稔ちゃんはうまかったけど、今はもっとうまいわね」と褒めてくれたほか、義男さんも「やはり本格的にやっている人は違いますね」と言っていた。とりあえずは、“即席歌謡ショー”は成功といったところだろうか。

 「これから毎日でもやってほしい」とみんなから言われた私は、なんとか安達家で暮らしていけそうだなとほっとすると同時に、みんなの心の温かさにも酔いしれたのだった。


「身近な所にあった仕事」

 安達家に間借りした初日早々、三味線を弾き歌いした私だったが、満壽美さんやその母親の晴恵さんに聞いておかなければならないことがあった。
 それは、部屋の借り代、つまり家賃で、考えてみればそのことを全く話題にしないで二階の部屋に荷物まで運び込んでしまったのだから、何とも呑気な話である。
 おそるおそる晴恵さんにたずねたところ、こう言われた。
 「三味線と歌をやってくれれば、家賃なんか払わなくていいのよ」
 確かに私は、幼い頃から二十年以上にわたって楽器をやってきていたし、東京で流しの歌手として暮らしていた時期もあった。曲がりなりにも歌と演奏が収入につながっていたことはあったものの、しかし一度は挫折して青森に帰ってきた身である。それがこのように、また間借りの代金を埋めるという形で役に立ったのだから、今度も芸に助けられたといえる。

 しかしながら、家賃が無料になったとはいっても、それで私に現金が入ってくるわけではないのであるから、仕事を探す必要に迫られた。そもそも、安達家に住むことになったきっかけは、店先で満壽美さんに呼びとめられたことだったが、それは職安に向かう途中の出来事であったのだから、その仕切り直しということになる。
 そして、いざ探してみると、求人の少なさに愕然とした。東京にいた時は、自分が採用されるかどうかは別にしても、枠はかなりの数があったのだが、その差は説明するまでもなく東京と青森の都市としての規模の違いに起因している。人口をはじめとする様々な格差が、仕事の数にも影響を与えているということである。
 もちろん、私自身にも問題はある。学歴でいえば中卒でしかなかったし、会社員としての勤めの経歴もない。それでいて歳は30代になろうとしていたのだから、採る側も躊躇するのは無理からぬことであった。

 そのように職探しが難航する中、3月も残り少なくなってきたある日のことだった。
 「どうだった?」
 満壽美さんは、私が毎日職安に通っていることを気にかけてくれていたようで、私が帰ってきたらひと言聞いてくるというのも、いつも通りのものとなっていた。
 「いやあ、難しいですね」などと、そのたび答えるしかなかったのだが、この日は会話があとに続いた。
 「じゃあ、どうかしら。うちで働いたら?」
 つまり、安達酒店に勤めてみては、という満壽美さんの提案であったのだが、それまで空いている時間に私が「お店、手伝いましょうか」と言っても、「東京暮らしで疲れているようだから、のんびり休んでいていいわ」と返されるほどであったのだから、仕事は外に求めることばかりに目がいっていた。
 これはある意味盲点だったと思い、「仕事…させてくれるんですか?」と聞いた。
 「実はね、いままでバイトしていた学生さんが、就職活動に専念するため、今月いっぱいでここを辞めることになって、また働ける人を募集しようと思っていたところなの」
 なるほど、それで私に話を持ちかけたのかと納得すると同時に、このところしばらくの職安通いを振り返ると、私を採用してくれそうな職場というのは少ないことを実感していたので、ここで働くしかないと腹を決め、「お願いします、働かせて下さい」と声に力を込めて満壽美さんに返した。
 
 酒屋の仕事が自分に務まるのかどうかは分からなかったが、しばらく続いていた「居候」の状態からは一歩踏み出せたと思えて、安達家の人たちの好意に恩返しすべく、一生懸命働こうと腕に力が入ったものであった。


「運転免許」

 私の前に安達酒店でアルバイトをしていた学生は、1986年の4月から青森市内の大学の3年生になるところであった。
 これから本格的に就職活動をする、ということでバイトを辞めたのだが、大学はおろか高校さえ行っていない私からすると、大学生は卒業の2年も前から就職に動き始めるのかと思ったものだった。
 当時はいわゆるバブル景気の初期にあたり、大学生の就職の口はかなりあったらしいが、彼は東京の企業に入ることを目指しており、その点では昔の集団就職と根本の部分では似通っているともいえる。

 酒屋の仕事の引き継ぎは、3月の末に何日かおこなわれた。
 私が安達家に住むようになってから、その学生とは既に顔をたまに合わせていたが、軽く挨拶する程度であったので、引き継ぎにあたってようやくいろいろ会話するようになった。
 彼は朴訥で温和な好青年だったが、背は180センチぐらいあり、しかもがっちりとした体つきという外見通りに力持ちで、ケース入りのビールを軽々と運んでいるのを目にした。
 安達酒店は当主は代々女性がつとめていたのだが、力仕事の担当として男手も必要であった。そこに私が彼の後釜として入ったのだが、それまでに音楽以外での仕事をしたのは、東京に来た当初のいくつかの日雇いと、末期のスーパーでのアルバイト程度であった。それでも青森に戻ってから職が見つからなかったのだから、雇ってくれた満壽美さんの期待に応えなければならないと、仕事のやり方を頭と体にしみこませていった。

 その働く過程で、運転免許も取得することになった。
 東京で流しの歌手として売れていた頃は、教習所に行く費用が楽に出せるほどの収入があったのだが、免許は取っていなかったのだった。
 車を持つ必要性をあまり感じていなかった、というのがその理由だったが、それには東京の交通事情が一因としてあった。

 私が初めて上京したのは1972年のことだったが、現在ほどではないにしても当時既に、東京には鉄道が網の目のように張りめぐらされていた。
 当時の国鉄、私鉄もさることながら、驚かされたのはやはり地下鉄で、こんなにたくさんの路線があるのかと地図を見て思い、仕事のない日に物珍しさから乗ることも結構あった。その中で、都心では少し歩けばすぐ地下鉄の出入口があるのを知って、ちょっとした移動ならすぐ頼るようにもなった。
 一方、東京の道路はというと、いつでも混んでいてすぐ渋滞する、と私の目には映った。たまにタクシーに乗ったりするとそれを実感し、あまりに車が進まない時などは、途中で降りてあとは歩いていったこともあった。今ほどは道路網も整備されていなかったので、当時は結構不便を感じた。

 そのようなことから、結局東京では免許をとらなかったのだが、地方では東京と違い車の必要性は高く、酒屋の仕事では荷物の運搬もあるのだからと、青森市内の教習所へ行くことにした。
 費用は、仕事に必要だということで満壽美さんは前借りを認めてくれ、その結果、夏が来る前に免許証を手にすることができた。
 酒屋でできる仕事の幅も広がり、やる気も一層高まったのであった。


「安達家に長男誕生」

 免許を取ったばかりの人は、歩いてすぐの所にでも運転して行きたがるというが、私もその気持ちはよくわかる。
 酒屋の仕事での必要に迫られて私が運転免許を取得したのは、1986年の梅雨のさなかのことであった。
 東京から故郷の青森に帰り、知り合いの安達酒店に間借りし、そこで仕事をするようになってから2ヶ月半ほど経った頃に免許は取れたが、当初は運転は仕事の中に限られていた。
 酒屋では品物の仕入れや、注文に応じての出前などに乗り物を荷物の量に応じて使い分けるが、私が取ったのは普通免許で、それで運転できるワゴン車と原付を店で借りていた。いずれも、店主の満壽美さんも運転できるのだが、とにかくハンドルを握りたかった私は、たいして遠くない所へも率先して出向いていた。

 梅雨が明けて夏本番になると、ビールの注文が一気に増える。ケース単位で購入するお客も多く、荷台に積み込んであちこちを回った。
 その中で、少年時代の知り合いに会うことも多かった。私のほうから名乗らなくても、「あれっ、秋村さんのところの稔ちゃんじゃないの」など気がつく人もいた。民謡をやっていた頃の私を知っている人に「酒屋で働いてるの?」と聞かれることも結構あったが、そういう時は「こっちのほうが自分に合ってるのかもしれないですね」と笑って答えていた。
 
 青森に戻って初めての夏は、忙しく働いたことを通じて、配達がほとんど私に任せられるようになった時期でもあったが、その同じ夏、満壽美さんが妊娠していることが明らかになった。
 その時は満壽美さんも夫の義男さんもまだ30代の前半だったため、おふたりの間に子供ができるのに不思議はなく、だとすると、同じ家の中に他人の私がいるのは邪魔ではないかとも思ったりもしたものの、義男さんは入り婿という立場上、私にもあまり文句は言いにくかったという事情があったのかもしれない。
 
 妊娠がわかってからも、しばらくは満壽美さんは店主の仕事を続けていたが、秋の半ばごろからは役目を母親の晴恵さんに委ね、私もその晴恵さんの指示に従ってそれまで通りに配達中心に働いた。
 冬が来て、さらに暦が1987年に変わると、満壽美さんのおなかもだいぶ大きくなってきたが、その頃は時として、晴恵さんが家事に戻り、店のほうは私ひとりでやることもあった。それまでのように配達だけというわけでもなくなったので、大変な面もあったが、これでやっと一人前なのかなという達成感もなんとなくながら感じていた。

 満壽美さんが出産したのは、3月下旬のことだった。
 初めての男の子で、妙子の7つ下の弟ということになり、命名には安達家の人達だけでなく、私も意見を求められたりしたが、「純」と決まった。
 妙子と、私の息子の進は、4月から小学2年生に進級したが、産院で見る赤ちゃんに興味津々だったようで、のち、満壽美さんとともに退院してきた純をそばでしげしげと見つめたり、あやしたり小さな手を握ったりもしていた。

 それからしばらくして、満壽美さんに、「稔ちゃん、純にも歌を聴かせてあげて」と言われた。
 赤ん坊相手ならやはり子守唄、ということで、楽器の伴奏は使わずに、つとめて優しくささやくように歌ったが、純は泣きやまなかった。
 そして仕方なく、「満壽美さんが歌ってみては…」と提案して歌ってもらったところ、今度は純は泣くのをやめて笑い顔になった。
 私と満壽美さんでは、歌は私のほうがうまいはずなのに、どうしてあのようになったのかと思い、やはり歌で一番大切なのは心というか、思いやりなんだなと改めて思った。

 ともあれ、安達家に子供が増えて一層にぎやかになった中で、私もさらなる力をもらえたような気がしたのだった。


「中学校ライブ」

 私が満壽美さんから前借りしていた、運転免許の教習費用を払い終えたのは、安達家に長男の純が生まれて間もない、1987年4月のことだった。
 安達酒店で働くようになってからは、アルバイトの形で給料をもらっていたが、その中から毎月少しずつ返済していき、およそ1年かかっての完済であった。
 
 その一方で、私がどうしても買いたいものがあった。
 東京で流しの歌手をしていた頃に使っていたギターは、青森へ帰る前に売り払ってしまっていて、そのため帰郷後は三味線だけを使っていたのだが、それに飽き足らず、またギターも欲しくなってきていた。
 教習費用を月々返していた頃は、ギター代に給料を回す余裕がなく、4月になってからようやく購入費用として本格的に貯めていった結果、8月の終わりに何とか手に入れることができた。

 翌9月の初頭のある日、私の実家から安達酒店に電話がかかってきた。
 「稔ちゃん、弘ちゃんからよ」と満壽美さんに言われて出ると、弘は相談があるので来てほしいと私に言ってきたので、すぐ実家に向かった。
 私は安達家に住み始めてからも、実家へはときどき顔を出していた。自分のいた部屋の中の物のうちの不用品を少しずつ処分するために訪れたりするなど、家のことに関する用事で両親や弘とはそれなりに顔を合わせていたのだが、今回は何の用事だろうかと思いながら行ってみた。

 弘の相談とは、10月に青森市内の中学校で行われる、民謡コンサートに関することだという。
 その中学は、私や弘の母校だが、そこからの依頼で、生徒の前で民謡を披露することになり、参加を私も弘から呼びかけられたのだった。
 私も昔は民謡をやっていたのだが、長いことブランクがある。それを理由に初めは尻込みしたものの、弘が「民謡でなくても、ゲストのような形で流行歌を歌ってくれればいいよ」と言ってきたので、それならできそうだと思って、引き受けることにした。
 もっとも、弘としては初めからそのことを想定していたようだった。出演料などの事情によるのかもしれないが、出演予定者は弘より年少の奏者・唱者ばかりで、弘にとってみればコンサートにはやや心もとない面があったらしい。特に、相手が中学生となると、民謡だけでもたせるのはそれなりに大変なので、寄席でいう「色物」のような意味合いで私を呼んだのだろうと思う。

 コンサートの当日、会場の体育館には、全校生徒およそ300人が集まった。
 私は初めは舞台の袖で、三味線と唄を聴いていたが、生徒たちはわりと静かに耳を傾けているようであった。一曲終わるごとの拍手はあったものの、笑い声などは出ていなかったので、それならば私が、などと意気込んだ。
 
 そして中盤、私の出番が来た。
 私がこの日のテーマとして準備していたのは、「青森が舞台の歌謡曲」であったが、時代の流れに沿って順番に歌っていくことにした。
 最初は、1952年の『リンゴ追分』から入り、次に翌1953年の『津軽のふるさと』をやったが、とりあえずは何とかレールに乗れたような感じであった。
 時代を下っていき、1980年の歌として『帰ってこいよ』『風雪ながれ旅』などが出てきたが、これらはいずれも、私が東京で流しの歌手をしていた頃の流行歌だったので、当時の盛り場の出来事を私なりに脚色して話したのが結構受けた。
 1984年については、『下北漁港』『津軽平野』などに続いて、『俺ら東京さ行ぐだ』も歌った。この歌に関しては、伏線として、同じ吉幾三ナンバーの、1977年の『俺はぜったい!プレスリー』を先行して歌っておいたのだが、会場の生徒達を巻き込んでの大合唱となり、私の出番の中では最も盛り上がったのかもしれない。
 最後は、1985年の『望郷じょんから』を選曲した。この曲は、題名の通りに『津軽じょんから節』が挿入されているため、以前民謡をやっていた時のことを思い出して、それを生かして歌うことができ、かなりの拍手がもらえた。時代順による偶然とはいえ、いい曲で終われてよかったと思っている。

 さて、私が客席をひっかき回してしまったことで、そのあとの民謡がやりにくくなるのではないかと心配もしたが、それは杞憂で、弘が奏者たちをしっかりとまとめて舞台を締めくくった。その姿に直に接して、弘の演奏力のさらなる成長、それに場数を踏んで伸びたのであろう統率力に目を見はらされた。

 コンサートはなんとか無事に終わったが、いかに中学生相手とはいえ、数百人の前で歌ったのは、民謡をしていた頃ならいざ知らず、東京での流しの歌手の時代には経験のないことであった。
 それだけに、いつかは自分の実力で客席を満員にできるような歌手になりたいという願望が、中学を出て上京した時以来、久しぶりに心の底から湧き上がってきたのを今でも覚えている。


「船から鉄道へ」

 私が東京から帰郷して青森にいた時期は、函館行きの航路が鉄道に代わる過渡期でもあった。

 序章に続いての『ふるさと青森』でも少し触れたが、1961年3月に北海道側・吉岡での斜坑掘削開始でスタートした青函トンネルの工事は、1964年の調査坑掘削開始を経て、1971年11月には本坑の起工式が行われ、本格的掘削工事に入った。
 1983年1月に先進導坑が貫通し、その2年後の1985年の3月に本坑も貫通した。トンネルの完工はさらに2年後の1987年のことで、翌1988年3月13日にようやく営業開始となった。
 その開業当日の式典はテレビでも放映されたが、以降はもちろん、トンネルを通る津軽海峡線に乗車希望者が殺到した。ほとんどは東京をはじめとする遠方からの人だったようだが、地元にいた私などは、いつでも乗れると思っていたせいか、しばらくはその人気ぶりを眺めているのにとどまっていた。

 一方、トンネルの開業と同じ日に、青函連絡船は最終運航となった。
 航路の利用者数は、1973年のピーク以降は、航空機利用の増加や、国鉄の鉄道利用客数の低迷などの要因から減少傾向に転じていたが、その変わり目から間もない1977年に、歌の世界では『津軽海峡冬景色』が大ヒットを記録している。
 その年は、私が青森から東京に出てきて流しの歌手を始めてから5年ほど経った頃で、当時はかなり客にリクエストされて歌ったり、伴奏を頼まれたりすることが多く、青森の御当地ソングとしては史上最も大当たりであったのは間違いなさそうである。
 前章で触れた、青森に戻ってからの母校の中学校でのコンサートでも、『津軽海峡冬景色』は、青森の歌として外すわけにはいかなかったが、その折は、自分の少年時代に直に接した、連絡船に関する記憶をたどって演奏や歌唱に生かしたつもりであった。
 私は弘とともに、小学4年から中学2年までの5年間は、民謡の夏巡業の前半で北海道に行くときに、毎年青函航路を使っていた。その時の経験に加え、たまに冬場にもあった函館などへの用事の際のことなども盛り込んで考えていたのが発揮できたとも思っている。

 いずれにせよ、青森における交通の大転換の場面に立ち会えたのは、たまたま東京での挫折による帰郷というきっかけがあったとはいえ、今考えても運が良かったことを実感している。


「出番のない巡業」

 「稔ちゃん、今年の夏はお休みしていいわよ」
 満壽美さんにそう言われたのは、1988年5月下旬のことだったが、聞いて一瞬耳を疑った。
 酒屋といえば、夏場はお中元も扱うし、暑くなってくればビールの注文も増えるから、どうしても忙しくなる。それなのになぜ休みをくれるのか、満壽美さんにたずねた。
 「稔ちゃんのお父さんが、『夏巡業に稔を借りたい』って頼んできたの」
 夏巡業──それは私が子供の頃に加わっていた、北海道と東北での民謡の催しであったが、あれからずっと毎年夏に続いていることは、実家の父を見ていてわかっていたものの、私に参加を呼びかけてくることは帰郷後まったくなかった。その点について、満壽美さんはこう話した。
 「『お忙しい時期であることは承知していますが、そこを何とかお願いできませんかね』と、どうしても稔ちゃんに巡業に来てほしい感じだったわ。店のほうは何とかするから、こっちは心配しないで、行ってあげて」
 そして付け加えて言った。
 「酒屋の仕事なら、他の人でも教えればできるけど、民謡は代わってあげられないものね」
 その言葉が決め手となって、私は夏巡業への参加を決心し、父のもとへそれを伝えに赴いたのであった。

 巡業の方式は、昔と同じように7月下旬からほぼ1ヵ月、前半で北海道をまわり、後半は東北に移るのだが、そのスタートについては、大きく変化があった。あらためて説明するまでもなく、青函航路に替わっての青函トンネルの開通であるが、鉄道で海峡をくぐる日がこの時やってきた。
 乗った列車は、快速の『海峡1号』であったが、朝7時半に青森駅を出て 10時前には函館駅に着いた。所要時間としては2時間半を下回るもので、青函航路と比べれば半分近くに短縮されたことになる。それでもこの快速は、途中の蟹田・津軽今別・木古内などの駅も停車しており、それらも通過する特急となると、ほぼ2時間きっかりで、青森・函館の両都市を結ぶのであるが。
 青函トンネルは長さが50kmを超すだけあって、通過に時間がかかるが、それでも連絡船に比べればあっという間だし、なにより天候に左右されないのは大きい。欠航が決して珍しくなかった航路のころを思うと、あらためて「便利になったもんだな」と感心した。

 北海道での巡業の最初の会場はその函館であったが、私の出演の機会はなく、舞台の進行の裏方をすることになった。私としては、大勢の観客の前、しかも前年秋の中学校でのコンサートの時とちがい、久しぶりに一般の観衆の前で民謡を演奏し歌うことを意気込んでいたために、肩すかしを食う形となったものの、そのうち出られるだろうと楽観視していた。
 だが、その思惑に反し、巡業が進んでいっても相変わらず私の舞台での出番はなく、結局は北海道のあと東北に土地を移して巡業をやり終えるまでついに出られなかった。さすがにそれには私も納得いかなかったので、父に問うと、ひとこと言われた。
 「おまえは民謡を離れたのだからな」
 確かに私は、中学卒業後東京に出て流しの歌手となり、民謡とは距離を置いていた時期がある。民謡を捨てた、といわれても仕方のない面はあるし、なにより弘が青森に残って民謡ひとすじに精進してきたのとは道を異にしている。私は返す言葉もなく黙りこんでしまった。

 結果的には、私の帰郷後はじめての巡業は、ほとんど「ただついてきただけ」の感があり、参加した意味はすぐにはわからなかったのであった。


「父は昭和とともに」

 夏巡業での父について印象的だったのは、民謡を演じている時の姿だけではなかった。
 それは、舞台を終えたあとの夜でも、普段通り、酒を飲むことがまったく見受けられなかった点である。
 父はその3年前の1985年秋、アルコール性肝障害で一時入院し、それを弘からの手紙で私が知ったことが、私が帰郷する一因にもなったのだが、以降の父が酒をきっぱりをやめているという話も弘から聞いていたし、私が間借りしていた安達酒店でも、父からの注文は酒に関しては全くなかった。
 父と一緒にに仕事をしている人たちの話でも、打ち上げの席などでもアルコールは一切口にしていないと聞いており、断酒は徹底していたようである。
 そのように父は酒量はゼロにしていたのだが、仕事の量は減らす様子が見受けられず、むしろ以前よりも増えていたようだったとは、これも弘の話であり、新たに開催するようになった会もいくつかあったと言っていた。
 一方私のほうは、夏巡業のあとはこれといった実家からの呼び出しはかからず、それ以前のように酒屋の仕事にいそしんでいた。

 そして季節は過ぎてゆき、1988年の12月となった。
 7月がお中元なら、12月はお歳暮の書き入れ時である。青森に戻ってから三度目の年末であるが、前々年や前年のその頃を思い出し、重い瓶や缶の入った箱を荷台に積んで市内をめぐっていた。
 月の半ばを過ぎ、忙しさのピークは超えたと思っていたある日、実家の母から電話がかかってきた。
 「父さんが弘前で倒れた」
 その声に動揺が感じられたのは無理からぬことでもあったが、あくまで冷静さを持つように努めている感じで、母は私に説明した。
 弘前で、というのは、その日の民謡の公演がそこで行われたことを指しているのだが、演奏をしている最中に父が三味線の撥を落とし、周りの奏者たちが父のほうを見ると、がくりと前のめりになっており、異変に気付いて舞台がそこで中断した、ということだった。
 そして地元の病院に運びこまれたと聞き、翌日に母と弘と三人で現地に向かうことになった。
 安達酒店で満壽美さんにそのことを話すと、「酒屋のほうは何とかなるから、ついていてあげて」と、仕事は期限を決めない休みにしてくれ、私は父のほうに専念することが決まった。
 
 弘前の病院での父は昏睡状態で反応がなく、ただごとでないのが一目でわかり、何日かしたら青森市内の病院に移すことを医師から聞いて、私たちは戻るしかなかった。
 そして三日後、転院先での担当医の説明によると、父は肝障害は断酒によって一応封じ込めていたのだが、仕事を増やして過労気味になったのが再発の呼び水になってしまったということらしい。
 父の看病は、私と母で交代ですることになった。弘は民謡奏者としての仕事を数多く抱えていたために、病院へはたまにしか来れなかったという事情があったのだが、民謡での父の後継者であることがかえってそうなる要因を作り、一方で道を外れた感のある私が父のそばに付いていられたというのも、皮肉なめぐり合わせであった。

 結局、父は意識が戻らないまま、年が明けた1989年1月10日に息を引き取った。
 私も母も、やるだけのことはやったのだから仕方がない、と考えなければならないのかもしれなかったが、それでも何かもっとしてやれなかったのかという悔いも、心の中によどんで消えなかった。
 その3日前の1月7日に昭和時代が終わり、翌8日から「平成」と元号は変わっていた。それで、父は昭和が始まる前の年・1925年に生まれ、昭和の終焉とともに世を去った、まさに昭和とともに歩んだ人生だったと、ふとそんなことを考えている私がいたのだった。


「流れの旅へ」

 亡くなった父は、自分の肝臓が悪いことを知っていたにもかかわらず、なぜ仕事の量を減らさなかったのか。
 それが気になり、実家で父を見ていた母や弘に、様子がどうだったのかをいろいろと聞き、いくつか理由をうかがい知ることができた。
 医者からは、やはり無理はしないように言われていた。1985年の秋に入院した時から、母と弘をまじえた場でその話は既にされていたのだが、以降はそれにもとづく生活への移行が医者から求められていたのであった。
 食生活でいえば、酒を断つのにとどまらず、家での献立についても、肝臓のケアを最重要視した内容のものに母が決めていたという。そして、父だけでなく母も弘も同じものを食べるようにするなど、十分に周りも気を配っていたのだった。
 そのような状況にありながら、父は仕事については以前にもまして一生懸命になっていたのだが、亡くなってみて父の人生を考えてみると、そのわけが少しずつ浮かび上がってきた。
 父は民謡の家元に生まれ、民謡ひとすじに生きてきた。「民謡をとったら何も残らない」と周りの人に言っていたように、全身全霊で打ち込んでいたのは自他ともに認めていたものであったと思われ、それほど父と民謡は切っても切れない関係だったのである。
 そのため、父は仕事については、医者を振り切って命を削ってでも三味線を弾き、そして唄うことに迷いがなかったのだろうと、そんな思いに私はなっていた。

 父が亡くなってからしばらくは、法的なさまざまな事後処理のため、私は実家に戻っていた。
 手続きは母が中心となって弘や私とともに進めていき、それなりの時間を要したが、その間はもっぱら自宅で過ごした。
 しかし何となく、自分の実家であるにもかかわらず、どこか居心地の悪さというか、違和感を覚えていたのだが、一体なぜなのか考えることもしばしばあり、やはりそれも父のことが原因としてあるのではないかと思うようになった。
 もともと、青森に帰ってきた私が実家に住めなかったのは、父の許しがおりなかったためであるが、結果的に、「実家に戻って一緒に住んでもいいぞ」などとは言わないまま父はこの世を去ったことになる。その父がいなくなったのだからと、自分で勝手に実家に居つくのは道義的に問題があるのではないか、とまず考えた。
 また、父の死で実家に残された母と弘は、私との血のつながりはない。以前に述べたように、父と母はお互い、連れ合いに先立たれたのちにそれぞれの息子を連れて再婚しており、母や弘からみて私は遺伝的には「よそ者」である。実の親である父がいなくなったことで、私が一家から切り離されていく、その予兆かもしれない、とも考えてみた。
 しかしそれらの推論は、あくまで私の思い込みにすぎなかったようであり、実のところは、私が実家で特に何をすることもなくブラブラとしていることが原因だったのであろう。弘のほうは、父の死からひと月も経たない2月初頭にはもう民謡の仕事に復帰しているのに、一方の私が働いていないのは確かに気まずく、そこから実家での違和感が生じていたのではないかと、そう気付いた。
 そのような流れで、私が安達酒店での間借りと、酒屋の仕事に戻ったのは、3月半ばのことであった。

 安達家の人たちになぐさめられたおかげで、以前のように配達中心に働くことができたのだが、その日常に帰った日々の中、ふと思うことがあった。
 前年の夏、私は父の巡業についていって北海道と東北をまわったのだが、なぜ父は私を誘ったのか、それがあとになって気にかかっていた。事実として、それが私にとって、青森に帰ってきてから最初で最後の、ただ一度の巡業となっただけに、なおさらであった。
 そして、ほぼ一ヶ月にわたるその道中のことを酒屋の仕事の合間に思い返しているうちに、巡業の中で父が私に言った、ある言葉が耳に残っていることに気付いた。
 「歌を歌い、そして演じるためには、いろいろな事柄や、さまざまな人との触れ合いが必要なんだ」
 私はそれを、歌とはただメロディに忠実であればいいというのではなく、そこに心がなくてはならず、そのために見聞を広めておくことが必要である、というふうに解釈した。
 そしてその言葉を、巡業の旅の行程と重ね合わせてみると、津々浦々、あちこちの土地をめぐることも歌には必要であるという考えが私の胸のうちに生じ、それを私に身をもって伝えることこそが、父が私を巡業に連れていった真意なのではないかと思い至った。

 のちに私が飯の種にすることになる、およそ6年にわたる流れの旅のきっかけはそのようなものであったのだが、実行にあたりひとつ問題があった。
 私の息子の進は、その年つまり1989年の4月で小学4年生になっていた。もし私が各地を転々とするのなら、進は連れていくべきなのだろうか、それだと学校のほうはどうすればいいのか、などといろいろ迷った。
 結局、肝心なのは進本人の意思だと思い、私はこれからのプランを進に告げ、「ついて来るか」と問いかけた。
 じっと聞いていた進の唇が動いた。
 「行きたいな。いろいろな土地に行けるのは楽しみだね」
 答えはあっさりしたものだったが、その短い言葉に隠されたさまざまな意味があるのではないかとも私は考えた。ひょっとしたら、私の意向に合わせて自分を押し殺してそう言ったのではないかという推測さえも浮かびはしたが、いずれにせよ、進は「行きたい」と言ったことは事実なのだから、この際やってみようと心を固めることができた。

 1989年の6月も終わりに近づいていたころであったが、来月にはこの青森から旅立とうと、窓の外に降る雨をぼんやりと眺めながら考えていた私であった。



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