センチメンタルグラフティ外伝「三たび…東京」 第1部



「序章」
 
 東京駅から京浜東北線・大船方面で6つ先の大井町駅で東急線に乗り換え、12分ほどで、緑が丘という小さな駅に着く。
 その緑が丘駅が、私の家の最寄り駅である。
 私が目黒区緑が丘の一角に自宅を買ったのは、1995年の秋のことであったが、その年はまた、私のプロ歌手としてのデビュー年でもあり、人生における大転換点のひとつということになる。
 
 あれから二十年。
 その間、私の生きざまについては、メディアを通して、様々な形で伝えられてきたが、それらがみな本当かというと、必ずしもそうとは言い切れない。
 有名になりたい、歌が売れてほしい───そういう思いから、事実を曲げてしまった面も多々あった。
 そこで本書では、その懺悔の意味も込めて、私の真実の履歴を語らせていただくことにする。
 そうすることで、来年還暦を迎えての私自身の再スタートが、多少はすっきりとした心持ちで切れるのではないかと、勝手ながら考えている。
 学校は中学までしか出ていない私のこと、はなはだ拙い文章で誠に申し訳ないが、どうか最後まで御付き合い願いたい。
 
 今、カセットテープ「秋村稔の人生」は頭まで巻き戻された。
 それでは、皆様に再生ボタンを押していただこう───

2015年9月

秋村稔


「ふるさと青森」

 私は1956年に、青森県青森市で生まれた。
 県庁所在地であるこの街は、位置としても青森県のほぼ中央にあるが、地図には「青森平野」の文字もある。
 とはいうものの、この平野は、同じ青森県内の津軽平野などと比べるとかなり狭い。
 北を陸奥湾に、南を八甲田山系にはさまれた、限られた土地であるのだが、まずはその海と山のことから話を始めよう。

 JR青森駅は、海に突き出すような立地をしているが、これはもともと、鉄道と船との乗り換えがあったことを物語っている。
 船──かつての青函連絡船だが、それは1988年3月まで存在していた航路である。
 青森と函館を結ぶルートが青函トンネルに取って代わられたことで廃止となったのだが、トンネル化の構想自体は、実に太平洋戦争前からあった。
 あまりにも途方もない計画であったことから、なかなか着工されなかったのだが、大きな契機となったのは1954年の通称・洞爺丸台風による海難事故で、これは私が生まれる2年前のことだが、それにより、トンネル化の必要性が一層盛んに論じられるところとなり、1961年に工事が開始された。
 「青森から函館へ列車で行ける日が来る」──私が子供の頃、父親からよく聞かされた話だが、本当にそんなことができるのか、当時の私にはとても信じられなかった。
 その夢のような話を心の中にいだきながら、陸奥湾を見つめていた昔の私であった。

 一方、南を向くと、八甲田の山塊が目に入る。
 八甲田山──この山の名前を有名にしたのはやはり、新田次郎の小説と、その映画化作品であろう。
 小説のタイトルは、『八甲田山死の彷徨』といったが、それは実話をもとにして書かれている。
 1902年、当時の日本陸軍が、ロシアとの開戦に備え、耐寒訓練として、冬の八甲田山系を踏破するという計画を立案した。
 いわゆる「雪中行軍」である。
 このときは、ふたつの部隊(弘前第31連隊・青森第5連隊)に各々反対周りのルートをとらせたのだが、前者がひとりの遭難者も出さなかったのに対し、後者は210名中199名が犠牲となり、生存者わずかに11名という惨状を呈した。
 雪との闘いにおける勝敗、その明暗がくっきりと分かれたのだが、この八甲田山を市域内に含む青森市自体、非常に雪の多い都市なのである。
 日本の県庁所在地中、降雪量・積雪量が最多なのは、秋田市でもなければ新潟市でもなく、(これは県庁ではなく道庁だが)札幌市でもない。ほかならぬ青森市である。
 雪というのは基本的に、簡単に言うと、冬の季節風が山にぶつかる所で雲ができて降るものであるから、背後に広い平野がある場合は、雪雲があまり発達せず、降雪量は意外に多くないもので、秋田市や新潟市はそれにあたり、各県内の豪雪地帯は、内陸の山間部が主となっている。
 青森市の場合は、背後の八甲田山が大雪をもたらしているのだが、それだけにスキーなどには適し、私たち青森市の人間は冬になるとよく行くもので、私も何回行ったかわからない。
 もちろん、八甲田山は他の季節もまた充分魅力的で、特に新緑の頃や、秋の紅葉の時などは大変賑わい、私にも遠足などの思い出が数多くあるのだが、印象としては個人的にはやはり冬を推したい。

 私にとっての「ふるさとの海と山」とは、陸奥湾と八甲田山がまさにそれだといえる。


「民謡の絆」

 青森での少年時代は、四人家族の一員だった。
 父、母、弟の弘(ひろし)、それに私の四人だが、私と血のつながりがあるのは父だけで、母と弘は私とは非血縁者である。

 母は1934年生まれで、弘前市の出身。
 市内の高校を卒業後、会社勤めを経て、1955年に地元の農家に嫁いだ。
 翌1956年に身ごもるのだが、間もなく不幸に襲われることになる。
 何の前触れもなく、夫が亡くなったのである。
 健康そのものの働き者だったそうだが、事故でもなしに、本当にポックリと急逝したという。
 その悲しみを乗り越えて、1957年初頭に男児(弘)を出産したのだが、苦難はまだ続く。
 夫の死で、嫁ぎ先に居づらくなった──そのような事情があったのかもしれないが、弘前を母ひとり子ひとりで出てゆくことになった。
 これは、亡くなった夫には弟がおり、その弟夫婦に家を継がせるように家の方針が軌道修正されたのだろうと、ずっと後になって私は知り得た。
 そのような経緯で弘前を離れた母が選んだ行き先が、青森市であったのである。

 一方、私には実母についての記憶がない。
 物心ついた頃には、もういなかった。
 のちに父から、私が2歳の時に交通事故で亡くなったと知らされたのだが、私は幼い日に関して、実母の思い出がないかわりに、「音」については数限りなく心に残っている。
 1925年生まれの父は、民謡歌手だった。
 青森と民謡という組み合わせから、多くの方は「津軽三味線」や「じょんから節」などを想像されると思うが、父はいずれも得意としていた。
 もともと、青森に限らず東北地方は全体が民謡の宝庫で、今でも、全国の民謡を集めたCDなどでは、1枚もしくは1セットのうち、たいてい半分ぐらいは東北の歌・曲で占められている。
 私の父は民謡の家元であったので、生まれた私を見て、将来は後を継がせたいと思ったと述懐していたが、結果的には、歌は歌でも歌謡曲の道に進んでしまった私は、今思えば親不孝者なのかもしれない。
 ともあれ、私もほんの幼い頃から民謡の手ほどきを受け、少年時代にかけて邁進していたのであった。

 さて、青森市に転居した母が、どのようにして父と結ばれたのか。
 そこにも、民謡が話に絡んでくる。
 夫を亡くし、嫁ぎ先も出ていった母は、おさな子を抱えてどうやって生計を立てればいいかという現実に直面したのは想像に難くないが、ことわざに「芸は身を助く」とある。
 弘前出身の母もまた、子供の頃から三味線を稽古しており、小・中・高といずれの時代にも、コンクールでの受賞歴があった。
 高校卒業後の会社員時代、および最初の結婚生活の時期にはあまり弾く機会がなかったのが、今度は生活の糧として甦ることになったのである。
 青森市で民謡の道に生きる──その共通点から父と母は知り合ったのだろうが、ただそれだけでなく、そこには組み合わせの妙もあった。
 父は歌と三味線の両方をこなせたのに対し、母のほうは演奏一本であったのだが、それゆえにふたりは手を組んで民謡を演じることができたのだろうと、そう私は考えている。特に母は、もし自分で唄もできたとしたら、こと芸においては父との結びつきを求めたかどうかわからない。そして、父は父で、母と組むことで自分の演奏の負担が軽減されると考えて、母の申し出に応じた──というのが私の推論である。
 それに加え、双方のプライベートな事情──幼い息子を残して連れ合いに先立たれた──でも一致するものがあり、これもお互い惹かれる大きな要因になったのかもしれない。

 父と母の結婚は、私が小学校に入る前の年、1962年のことであった。


「秋村兄弟」

 小学校に入る前の私は、保育園にいた。
 実母がすでに亡いという事情からそうなったのだが、弟となる弘も、生まれてから女手ひとつで育てられていたために、やはり保育園出身である。
 その弘と私が初めて出会ったのは、父と母の結婚より一年ほどさかのぼる、1961年の秋のことだった。
 当時既に、「結婚を前提とした交際」は始まっていたのだろうが、ある日、私は父に連れられて、母と弘が住むアパートに行った。
 まだ若かった(当時27歳)母のそばを離れたがらずにもじもじしていたおとなしそうな子、というのが私の見た弘の第一印象であろうか。
 それに比べ私はというと、その弘に歩み寄って、「よろしく」と声をかけ、弘の目の前に片手を差し出したことを記憶しており、図々しさは持って生まれたものと、思い出して少々恥ずかしくもある。
 私が5歳で弘は4歳、まだほんの幼な子にすぎなかったが、以後半世紀を超える「兄弟」の仲の、これがその入り口の日ということになる。
 そして1962年の秋、父と母が結婚式を挙げ、ここに私と弘は正式に兄弟となったのだが、住む家は同じになっても、保育園は父母が知り合う前の入園であったため別々で、手続きの面などの事情もあったのかもしれないが、転園も結局のところしないで終わった。

 翌1963年の4月、私と弘は並んで小学校の校門をくぐった。
 お互い保育園が一緒になることはなかったので、この入学式の日が、「ひとつ屋根の学び舎」の間柄としての初日だったのだが、兄弟とはいっても学年は同じである。
 私が1956年5月生まれである一方、弘は翌1957年の1月、つまり早生まれのため、ふたりは同じ学年となっていたのだが、法的なことはまだ知らなくても、感覚としては私が兄で弘が弟と、初対面の時からそういうふうになっていた。
 幼少期には大きい半年余りの発育差や、双方の性格の相違などが原因だったのだろうが、「似てない双子」というのが、はたから見たイメージではなかったかと思う。

 とにもかくにも小学生となった私と弘だが、授業が終わると、寄り道の暇もなく家に直行であった。
 子供の小学校入学を機に、母はそれまでの三味線奏者の仕事を辞めて専業主婦となったのだが、家事の合間をぬって、私達ふたりに稽古をつけた。
 まずは午後の、食事の支度が始まる前に行われ、三味線と撥を手にした女がひとり、子供がふたりという光景は毎日のものとなっていた。
 一方、外で民謡歌手の仕事をしていた父は、帰宅の時間は一定しておらず、私達と一緒に夕食をとることもあれば、私と弘が寝る時になっても帰ってこないこともあったが、夜に家にいるときは必ずといっていいほど、やはり稽古をつけてくれた。
 そのときは、前述の夕方の状況から、父が母と入れ替わる形になるが、稽古内容にも変化があり、三味線だけでなく「唄」も加わってくる。伴奏として声を盛り立てる三味、それを鍛えるのが父の役割、ということだったのだろう。
 母も父も、日々の稽古は厳しかったが、その「音」から伝わってくる親の愛情も子供心に感じられ、今も音楽で飯を食べている私と弘の原点がそこにあったのだと思っている。


「稽古の夏休み」

 「民謡漬け」という言葉がふさわしい、小学校入学後の私と弘であったが、その稽古から解放されるときもあった。
 一学期が終わりにさしかかる頃、父と母は旅支度を始めるのだが、それは夏巡業の準備であった。
 普段はもっぱら青森市内か、遠くても弘前や五所川原、たまに八戸あたりまでが仕事の行動範囲となっていた父だが、巡業となると東北全域と北海道で、母や他の民謡奏者・歌手たちと一団を組んで活動していた。
 私と弘は、小学校の低学年の間は、まだ巡業に連れてゆけるほどの実力がないという判断から青森市に残ることになったのだろうが、あるいはそれに加え、普段の日々が学校と夜寝る時間を除いてほとんどが民謡の稽古に費やされていたため、夏休みぐらいはのびのびと羽を伸ばしてもいいということだったのかもしれない。

 両親が巡業に出ている間、私と弘が預けられた先は、実家のすぐ近くにある安達酒店だった。
 安達酒店は当時で三代目を数えていた、地元ではそれなりに名の通った酒屋で、私の父は「酒を買うのならこの店」と決めていたらしく、私もお使いによく行かされたこともあって、いつとはなしに家同士が親しくなり、その縁で私と弘が夏休みに預けられることになったのだろうと思う。
 また、安達酒店は建物が昔風の造りで部屋数も多く、空いている部屋もいくつかあり、私達を受け入れられる余裕があったのも、預け先になった大きな理由で、ふたりで二階の六畳一間の一室に寝泊りしていた。
 当時の安達家には、満壽美さんという、学年が私や弘よりふたつ上の一人娘がおり、夏休みの間にひとつ屋根の下に一緒にいることで、私達と姉弟のような間柄になっていて、家の雰囲気にとけ込むことができたのも、彼女の存在のよるところ大であった。

 夏休みに入って間もなく、まずは泳ぎに出かけるのが安達家の定番であった。
 酒屋の定休日に、満壽美さんや、酒屋の当主である彼女の母親たちと一緒に、海水浴場へ繰り出した。
 よく行ったのが、合浦(がっぽ)公園の砂浜で、ここは青森駅から3キロほどしか離れていないこともあり、毎年多くの海水浴客で賑わうところである。
 合浦公園ができたのは明治時代で、志半ばで公園建設の過労で倒れた旧弘前藩の庭師・水原衛作の遺志を引き継いだ、実弟の柿崎巳十郎が完成させて青森町(現・青森市)に寄付したのが始まりである。現在ではその二人の像が公園内に立てられており、砂浜のほうも、1998年開設の『サンセットビーチあさむし』と共に、青森市内の海水浴場としての集客力を今なお持っている。
 泳ぐことに関しては、私が当時から比較的得意であったのに対し、弘は水が苦手であった。それがだんだんと克服され、人並みに泳げるようになったのは、満壽美さんによる指導なども含めた、夏の海での体験が生きたのだろうと思う。

 8月に入ると、なんといってもねぶた祭りである。
 青森市の青森ねぶたは、毎年8月2日から7日まで行われ、この期間ほど街に人が集まる時はほかになく、この祭りを中心に一年が回っているといってもいい。
 ねぶたの起源は、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時に敵の油断を誘う意味で始められたともいわれていたが、これは俗説の域を出ず、本来は豊作祈願で睡魔を流し去る、「眠り流し」が転じたものであるという。
 私がねぶたを初めて見た小学一年の時の、私と弘、それに満壽美さん、および引率者の彼女の母という顔ぶれは海水浴の時とほぼ同じで、人ごみの中ではぐれることのないように、しっかりと取り合って掴んでいた手と手の感触が思い出に残っている。
 また、青森ねぶたの期間とほぼ時を同じくして弘前ねぷたも行われ、当時そちらにも期間中に連れ立って見に行ったこともあった。
 双方の違いとして、山車が青森のが立体的な人形の形状になっているのに対して弘前のは扇形の行灯に絵が描かれていることや、祭りの掛け声が青森の「ラッセラー」に対し弘前では「ヤードー」であったり、全体としての雰囲気が青森が熱狂的な一方で弘前はどちらかというと穏やか、などという点があるが、私自身は地元びいきということもあってか、昔から青森ねぶたの方が好みであった。

 これらの行事や日常生活を通じて、小学校低学年の時の夏には、安達家との親睦も深まったが、同時に私と弘の仲も、血のつながりがないことから初めはなじみにくかったのが、だんだんとお互いの距離を縮め、「兄弟」として心を通い合わせていくようになったのを今振り返るにつけ、懐かしく感じている。


「巡業の一員」
 
 「今年は来てくれ」
 父が私と弘にそう言ったのは、小学四年の七月初頭のことであった。
 一学期も終わりに近く、今年も安達家にお泊りするんだなと思っていた矢先の一言だった。
 来てくれ、というのは、むろん夏巡業のことであるが、いきなりの言葉に「えっ?」と思い、弘もまた驚きを隠せない様子が見受けられた。
 私自身は、「じゃあ今年の夏休みは遊べないのか」という後ろ向きの感情と、「巡業ってどんなものだろうかと毎年思っていたが、それがやっとこの目で見れるのか」という前向きの気持ちが入りまじっていたような感じであった。
 
 ここで、当時どのようにその巡業が行われていたか、ざっと御説明しようと思う。
 日程は、7月下旬からのほぼ一ヶ月間で、私と弘の小学校の夏休みのほとんどを占めろことになっていた。
 巡業地である北海道と東北は、青森を拠点として前者を北回り、後者を南回りと称していた。前半で北海道をまわったのち、ねぶた・竿灯・七夕などの夏祭りが終わったあとの東北を後半にめぐるのが毎年のパターンであった。
 参加者は、家元であった父の門下の奏者・歌手のうちのおよそ7〜8人ぐらいがまずおり、その顔ぶれは年により若干異なっていた。つまり、一門の“留守番役”として青森に残る人もいたということである。また、三味線以外の楽器の奏者も、父の門下以外から数人加わり、さらに出演者以外の裏方の人達も含めると、合計でだいたい20人ぐらいだったのではないかと思う。
 公演場所は、地元の興業関係者の意向を汲んで決定され、札幌や仙台などの大都市から、人口が一万人に満たないような町村までさまざまで、年によって結構変化があった。
 
 初めての夏巡業では、私と弘には出演機会はなかった。
 お使いぐらいの細かい用事はしたのだが、舞台に出ることはなく、公演の最中は客席あるいは楽屋にいることがほとんどであった。いずれも、生の舞台とはどのようなものかを知らせるために父母がそう命じたのだが、客席に座っていたことに関しては、本当のお客を集めるための、いわゆる「サクラ」としての意味もあったのだと思う。
 
 翌年、小学五年の夏休みに、初めて私と弘が巡業の舞台に上がることになるのだが、その話は前年の巡業終了後間もなく私たちに伝えられており、日常の稽古においても、舞台上での演奏・歌唱を意識して行うべしと常々言われるようになった。傾向として、とにかく量をこなす稽古でそれまでやってきたところに、さらに集中力の強化を求める指導が加わっていったように記憶している。
 秋が来て、冬を越し、春も過ぎて、その稽古も厳しさを増していったが、人前で芸を披露して銭をとるためであるならそれは当然で、生易しいものではないに決まっている、そう自分に言い聞かせて励んだ。
 
 そして、初舞台の日はやってきた。
 時は7月の終わり近く、私は11歳になってふた月ほどで、弘はまだ10歳半であった。
 場所はどこだったろうか。その記録は残っていないのだが、時期からいって北海道の街であったことは確かである。
 「秋村稔」「秋村弘」のそれぞれの名前が会場に連呼され、押し出されるようにふたりは舞台中央に姿を現すこととなったが、弘はいざ知らず、私のほうはさほどの緊張はなかったように思っている。生来の厚かましい性格ゆえだろうか。
 舞台上での私と弘は、民謡を三味線と唄で4曲ほどやったが、とりあえずは目立った失敗もせずにやり終えることができ、子供ということもあってかお客さんからの拍手も結構いただけて、その快感は今なお心にしっかりと刻み込まれている。
 
 そして、忘れられないといえば、公演が終わった夜に宿で、母から「よかったよ」と言われたこともそのひとつである。稽古の時は決して聞けなかったその言葉が母の口から発せられたとき、血縁でない義理の母子関係からくる“よそよそしさ”や“心の溝”が薄まってゆくのを感じたのも、巡業の思い出のひとこまであった。


「就職列車の歌」

 春まだ浅い、北国の駅。その肌寒い夜、まだあどけない少年少女数百人を乗せた上りの列車が駅を発とうとしている。見送る側も見送られる側も、皆が目に浮かべる涙──

 1950年代半ばごろからの、集団就職のワンシーンである。
 就職専用列車の第一号は、私が生まれる2年前、1954年の4月5日に青森駅を発ち、8両の列車に622人が乗り込んでいたという。
 当時、中卒の就職者は「金の卵」と呼ばれてもてはやされていたのだが、実情はその名とは裏腹に、労働時間は1日10時間が平均のうえに、賃金も大卒初任給の4分の1程度でしかないという、極めて過酷なものであった。そのような、辛酸を嘗めた底辺の労働力によって、日本の高度経済成長が支えられていたことは事実である。

 私が就職列車を初めて見たのは、1964年の春のことであった。
 小学2年生にこれからなるという時であったが、入学式などをひかえていた前年と違って、行事面でさほど忙しくなかったために見に行けたのだろうと思う。
 私が弘とともに両親に連れられて行った青森駅のホームは、かなりの数の人で占められていたが、中学を卒業したばかりの我が子を見送る親が大部分であったことから、私の両親よりはおよそ十歳ぐらい年長の人が多かったような気がする。

 それからひと月ほど経った5月、『ああ上野駅』(歌・井沢八郎)のレコードが発売された。
 集団就職をうたったものとして最も有名であろうこの歌は、井沢さんの生涯最大のヒット曲でもあるが、氏が弘前市の出身ということもあって、青森県内での盛り上がりぶりは相当なものであったことが当時を知る人の話などからうかがえ、メロディも単純明快で歌いやすいことから、私と同じぐらいの小学校低学年の子供もよく口ずさんでいた。

 以降しばらく、毎年3月末から4月初頭にかけて、青森駅で就職列車を見送ることになったのだが、私にとって身近な間柄の人も数多くその列車に乗って上京していった。
 近所の「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」達もいるかと思えば、民謡方面での関係者にもかなりの人数がいたが、見送るたびに、東京はどんな所なのかと興味を抱くようになっていき、たまに帰省することができた人がいると、その大都会の話をいろいろと尋ねることがあった。

 さて、『ああ上野駅』の曲名が出てきたついでにいうと、その時代ごとの流行歌に関しては、私自身かなり敏感であったと思う。これはひとつには、民謡という分野で音楽に深く関わっていたという理由があるが、演奏することも歌うことも、ごく普通の日常的なものであった。
 初めのうちは、どんな歌でも三味線で伴奏をつけていたのだが、歌によってはその三味線とはいまひとつ合わないものもあると感じるようになってきたこともあって、代わりとしてギターも用いるようになった。
 私がギターを覚えはじめたのは、小学4年生の頃であったと記憶しているが、要領に関しては、それまで三味線をやってきたことがかなり生かせた。ともに弦楽器で、弦を「はじく」ことで音を出し、弦の種類と弦を押さえる位置で音階を変えていくのは共通している。違いとしては、弦の本数が三味線の3本に対してギターが6本であることがまずあるが、それは練習によって慣れることができたし、ギターには三味線にはない「フレット」がついていて、弦を押さえる目印となっていることは便利である。
 そのようにしてギターを覚えたことで、歌の幅を広げることができたのが楽しくて、レパートリーも日毎に急速に増加していった。

 ともあれ、私が東京に興味を持つようになった要因のひとつが歌であったことは確かである。


「御当地ソングに憧れる」

 ギターで流行歌を弾いて歌うようになっても、私の日常の中心にあるのは、依然として民謡であり三味線であった。
 小学校を卒業してからも、夏にはやはり巡業がひかえており、それは中学2年生の時まで続くことになった。
 ただ、その巡業の際の私と弘の役割には、多少の変化があった。
 小学校時代の巡業の舞台においては、私も弘も、演奏と歌唱の両方、つまり弾き語りのようにしていたのだが、それが中学に進学してからは、私が歌、弘が三味線というように、専業化して分担するという形態に変わっていった。
 人間誰しも得意不得意があるのだろうが、そのことからいうと、私が演奏より歌唱のほうが得意で、弘はその逆であったというのが実際のところであろう。もちろん、不得意とはいっても、三味線を持ったり民謡を唄ったことのない人と比べればはるかに上手なわけで、あくまでも、巡業において金をもらう立場としてはどうなのかという基準で考えられるべきものであったのだが。
 しかしながら、今になってみると、私がプロ歌手、弘が民謡の奏者として活動を続けていることを見るにつけ、両親の判断は間違ってはおらず、その慧眼には恐れ入るばかりである。

 さて、私の中学入学は1969年4月のことであったが、当時の流行歌の分野では、御当地ソングブームという現象が起きていた。
 御当地ソングが歌謡界の主役に踊り出たのは、昭和でいうと40年代の前半で、そのきっかけを作った歌は、北海道を舞台にした『函館の女』(歌・北島三郎)や、翌1966年の、岐阜市の盛り場の名前を冠した『柳ヶ瀬ブルース』(歌・美川憲一)などであるという説が有力視されている。
 特に『函館の女』は、ミリオンセラーであったともいわれる大ヒット曲となってから、続編のような形で『尾道の女』『博多の女』といったタイトルでシリーズ化されることになり、全13曲のうち、最終作となった昭和54年の『横浜の女』を除いてすべて、昭和40年代に発売されている。
 
 その『函館の女』が契機となって作られた一連の続編は、別名「女シリーズ」と呼ばれたが、同時期のシリーズ物ではほかに、「にほんのうた」という企画もあった。
 歌い手は四人組のコーラスグループ・デュークエイセスで、[作詞・永六輔/作曲・いずみたく]という顔ぶれはシリーズを通じて変わらなかった。
 4枚のレコードアルバムの発売は、1966年と翌67年に1枚ずつ、そして1969年に2枚という形でなされ、のちにCDとしての復刻もされているが、曲数は合計でちょうど50曲あり、日本の47ある都道府県をすべて網羅している。
 私の故郷である青森をうたったのは、『十和田の底に』という曲で、「湖の底に 沈んだリンゴ…」という歌い出しの、重い感じの曲調になっている。この曲はアルバムの2作目に収録されており、その発表年(1967年)より前に十和田湖には私は既に行ったことがあるため、イメージを湧き上がらせながら弾き語りもしたことがある。ただ、リンゴが湖に沈むというのはありえない話なのだが、それは詩的表現として御愛嬌といったところだろうか。

 そういった御当地ソングを聞いて、弾いて歌うのを続けているうちに、いつか現地に行ってみたいなと思うようになった。その願いはのちに叶うのだが──


「離郷」

 小学4年以来、毎年参加してきた夏巡業だったが、中学3年の時には、私と弘は行かなかった。
 高校受験をひかえての勉強をするためである。
 私たちふたりの場合、それまではずっと民謡漬けで来ていたため、塾などには行っておらず、学校のほうにしても、弘はともかく、私の場合は授業についていくのがやっとという状態であった。
 そんな中、両親は私にも弘にも高校進学をさせようとしていたのだが、私が中学3年になる頃にはすでに、中卒での就職者は以前より大きく減少し、高校進学率がかなり高まってきていた。それだけに、条件面で著しく不利となる中卒就職を子供にさせたくなかったのは、私の両親もその例にもれなかったのであろう。

 高校受験のための勉強は、中学2年の夏巡業が終わってからすぐ始まった。
 学校が終わるとまず民謡の稽古だったのが一変し、自宅での母の指導による勉強か、日によっては塾に行くことにもなったのだが、いずれにしても、それまでの遅れを取り戻すためにはやらねばならないことであった。
 そして中学3年の夏休みになると、塾での集中講習を受講し、ほぼ毎日通ったのだが、そんな中で私が考え込んでいたことがあった。
 高校というのはどうしても行かなければならないものなのか、本当に自分が目指すべき進路なのか──と。
 民謡一本できていた私がギターを覚えて歌謡曲も弾き語りするようになってから、流行歌の世界への興味はすでに高まっていた。それに加え、毎年春に就職列車を見送ってきたことからくる東京への憧れ。そういったことが混ざり合って、私の中で「上京して歌手になりたい」という思いが頭をもたげてきたのであった。

 年が明けて受験した高校には、合格した。
 とりあえずは勉強が実を結んだということになり、両親も安心した様子が見てとれた。
 弘のほうは、私よりレベルの高い高校に受かったのだが、ふたりとも進路がこれで決まってほっとしたと、それが両親の偽らざる気持ちであったろう。
 しかし、私は違っていた。
 高校へ行き、卒業してから歌手になるとすると、3年先のことになってしまう。
 その3年遅れることが、当時の私には重いものとして心にのしかかっていたのであった。
 とはいえ、進学先が決まってからそれを反古にすることなど、親が許すわけもないだろう。
 その結果、私が決心したのが「家出」であった。

 家出をして上京し、歌手を目指す──そのためには、先立つものはやはり金だが、当時の私は毎年の夏巡業のたびに「出演料」という形で親から結構な小遣いをもらっていたので、それなりには貯金があった。
 これだけあれば何とかやっていけると、そう思い込むぐらいの金はあったのだが、その浅はかさを後で思い知ることになるのは、その時の私には知る由もなかった。
 さて、家出のことは両親にはもちろん言わなかったのだが、弘にだけは話した。
 私が歌手を目指していることを、普段一緒にいて言動から察したのであろうか、さほど驚いてはいない様子で、しかも私への餞別のような意味で、かなりの額の現金をくれた。
 そして3月のある夜、置き手紙を家に残し、青森駅からの上り列車で、ひとり故郷をあとにしたのであった。


「上野の夜空」

上野駅は、春の暖かな日差しに包まれていた。
 日付が変わりそうな頃に青森駅で「はくつる号」に乗ってから、9時間余り経っていた。
 時は1972年、『ああ上野駅』が世に出たのは8年前のこととなっていたが、頭の中でその歌詞とメロディーが反復されていた、夜行列車の道中であった。
 
 何もかもが青森とは比較にならない大都会──それが、当たり前ながら私の上野駅の第一印象であったが、見るものすべてに目を奪われ、しかも財布にはかなりの額の現金が入っていたので、まずは遊ぼうと思うのも無理はなかった。
 映画を見て、食事もし、遊園地にも行き、気がつくと西の空が赤くなっていたので、駅近くのビジネスホテルに投宿した。
 
 チェックイン後、部屋で財布の中身を調べたところ、一日で数枚の一万円札が消えていた。
 私は元来、どちらかというと金遣いが荒いほうで、民謡の巡業の時にもらっていた 小遣いがかなりのものであったにもかかわらず、出ていくほうも決して少ない額ではなかった。そのことは、離郷の際、巡業でいつも一緒で、同じだけの金をもらっていたであろう弘の貯金の額を知った時にはっきりと認識した事実で、弘の堅実さに感心し、自分の浪費ぶりにはあきれたのだが、それにしても、東京にはこれほどまでに誘惑が多いのかと脱帽もしたのであった。
 そして、残りの金額を宿代で割ると、およそ一ヶ月という計算になった。他になにも使わないでそうなのだから、実際に泊まっていられる日数はそれを大きく下回るわけであり、焦りがこみ上げてきて、明日からすぐにでも行動に移さなければならないと決意して床についた。
 
 翌日から、仕事と住居の確保に向けて動きはじめたのだが、これが全くもって思い通りにはならなかった。
 職安へも不動産屋へも足しげく通ったものの、色よい返事は返ってこず、その原因が自身の「中卒」という点にあることをうすうす感じるようになっていったのだが、それは、「高校を出てからのほうが…」と言われたのが一度や二度ではなかったことからの認識であった。
 当時、集団就職はまだ行われていたが、その主体はすでに中卒から高卒へとシフトしていた。高校進学率がそれだけ上昇していて、まずは高校を出ないとという風潮になっていたわけである。ほかに、学校側が企業や店に話をつけていたからこそ就職が受け入れられていたことも見逃せず、私などは家出だからそれができなかったのも響いた。
 また、部屋を借りるのに保証人が要ることも、東京に来て初めて知ったことであった。「部屋を貸してください」「はいどうぞ」などと単純にはいかないわけで、知り合いがまるでいない自分には保証人になってくれる人が見当たらなかったのである。
 
 そうこうしているうちに宿代も底をつき、あとは野宿しか選択肢は残っていなかった。
 四月も半ばを過ぎ、夜の寒さも和らいではきていたが、心の冷え込みはいかんともしがたいまま、上野公園のベンチで星を見上げていた私であった。


「一本のギターから」

 「歌をやるのか?」
 5月のある日、そう声をかけられた。
 私が上野公園に居ついてから、ひと月ほど経った頃だろうか。
 宿代が払えなくなって野宿をきめこんでからは、日雇いの仕事でなんとか食いつないでいた。
 そんな状態になっても、どうしても手放せないものがあった。
 歌手を目指して青森を離れた私は、身の回りのものを詰めたカバンの他に、一本のギターも持ってきていた。
 いざ東京に来てみると、どうやって歌手になればいいかなど、さっぱり手がかりがなかったのであるが、このギターを手放したら夢までも捨てることになってしまうとの思いから、質に入れるようなこともせず、ずっと手元に置いてきた。
 その日は確か平日で、時間は昼ごろ、仕事にあぶれてすることがないまま、公園のベンチにもたれていたのだが、その私の横に置かれていたギターを見て話しかけてきたのであろう。
 
 声の主は、見たところ私と同年代の男であった。
 「学校は?」と続けて聞いてきたのに対し、行ってないとややぶっきらぼうに返答すると、彼は言った。
 「そうか。それはまあいいや、一曲やってみてくれないか」
 私は傍らのギターを手に取り、腰掛けた体の前に構え、弦を数回はじくと、歌い始めた。
 人前で歌うのは、東京に来てからはそれが初めてであったのだが、幸い、指も喉もスムーズに操ることができた。
 ワンコーラスを歌い終えたところだった。
 「なかなか、やるじゃないか」と言って、彼はベンチの私の横に腰を下ろしてきた。
 「ギターをちょっと見せてくれ」と言うので手渡すと、コードを押さえて弾き始めた。
 彼もギターを本格的にやっていることは、耳ですぐ感じとれた。
 弾く手が止まった。
 「暇だったら、ちょっとウチに来ないか?」
 彼が私と違って東京育ちのようだと、その話し言葉から何となく推測し、それゆえ親元に住んでいるのだろうと一方的に思い浮かべたのだが、とりあえず行ってみることにした。

 彼の「ウチ」は、新宿にあった。
 そこは四畳半のアパートで、実家住まいという私の想像は外れた。
 久しぶりに畳の上でくつろぎ、まずは私が東京に来たいきさつを語ると、彼もまた、ひとり暮らしのわけを話しはじめた。
 ここで、その彼の話をまとめると、こうなる。

 彼──大月豪は1955年生まれで、私よりひとつ年上にあたる。
 実家は東京の西部、八王子市にあるという。
 ギターは小学校入学と同時に始め、中学を経て高校へ進んでもミュージシャンへの夢を抑えきれずに、およそ半年で中退を決意。
 高校を辞めるにあたり、生活費はすべて自前で捻出するという条件を両親から突きつけられ、住居や仕事の保証人の役割以外の一切の援助を受けないことを誓う。
 いくつか職を変えたのちに今就いているところで、非番の日にぶらりと一人で上野に遊びに来たところで私と逢ったというわけである。

 そのあたりまで話が進んだころ、外は暗くなっていた。
 私がここひと月ほど野宿をしていたことは既に豪に話しており、とりあえず今夜は泊まっていけと言われた。
 捨てる神あれば拾う神あり、という言葉をかみしめながら一日を振り返り、体を横たえて目を閉じている、16歳になったばかりの私がそこにいた。


「流しの初仕事」

目を覚ますと、外は明るくなっていた。
 朝日を窓越しに見るのも、久しぶりのことだった。
 上野公園で出逢った大月豪の新宿のアパートに転がり込んで迎えた初めての夜は、既に明けていた。
 それも、部屋の中で寝られただけでなく、布団で眠れたことも、今も忘れられない。
 豪は、ひとり暮らしをするにあたって、実家で使っていた自分の布団一式を持ち込んできていたのだが、掛布団と敷布団がそれぞれ二枚ずつあった。
 冬や、春と秋の冷える時期ならばひとりで全部使うところだが、私が来た時は5月で、夜も暖かくなっていたため、半分ずつふたりで分け合うことができたのだった。
 
 朝食は、豪が作ってくれた。
 ひとり暮らしを始めてから半年ほど経っていた彼は、料理も簡単なものなら結構いろいろ作れるようになっており、その朝は目玉焼きをいただいた。
 ふたりで食べている時、豪は言った。
 「あとで、ギターを持って、ちょっと一緒に来てくれないか」
 どこへ行くのだろうか、と思いながらも、とりあえず軽く弦を調節して、音がちゃんと正しく出るようにしておいた。
 
 豪と歩いて向かった先は、新宿の盛り場の雑居ビルであった。
 なにかの事務所であろうか。
 「親方、知り合いですが、ひとり連れてきました」 
 豪が「親方」と言ったのは、年の程なら五十ぐらいの、妙に貫禄のある男であった。
 その親方は、豪と少し話したあと、私のほうに目を向けた。
 「やってみろ」
 ドスのきいた声でそう言われて、少しびびったが、ギターを持ってきているのだから、やることは決まっている。
 とにかく、ギターを爪弾きつつ歌い始めたのだが、ワンコーラスまでで、「もういい」と言われた。
 「それぐらいできるなら、とりあえず合格だ。さっそく今日の夜から出てもらおうか」
 
 アパートへの帰り道、これは何の仕事だと豪に聞くと、「流しだよ」と言われた。
 流し──今では日本中でもかなり希少な存在となったが、「流しの歌手」のことで、酒場などで客の注文にあわせて弾き語りをしたり、あるいは客が歌うのの伴奏をやるなどして、いくばくかの金をもらうという職業である。
 豪はそう説明したが、実際にやる前は一体どんな感じなのか分からず、わくわくする気持もなくはなかったが、それより不安のほうがずっと大きかった。
 
 そして日が暮れて、「流し」としての初仕事となったのだが、パートナーは豪ではなく、初老の域にさしかかった男性であった。
 その人のことを私は先輩と呼び、つき従っていくことになるのだが、どれくらいやっていますかと聞くと、四十年ぐらい経ったかな、と答えた。
 先輩が大ベテランであることが、親方がまだ経験の浅い豪とは私を組ませなかったひとつの理由なのだが、それともうひとつは、先輩の楽器がアコーディオンであることだった。私と豪だと同じギターで被ってしまうのだから、楽器は違うものをということで、そう組ませたのだろうと。
 
 さて、そのようにして、ギターを抱えて先輩のあとについていったわけだが、最初に入った店は、さほど大きくない居酒屋であった。
 アコーディオンを弾きながら、先輩は暖簾をくぐり、私も続く。
 「いかがですか」の先輩の声に、客のひとりが、「おっ、来た来た」と反応した。
 「あれっ、後ろにいるのは?」
 「こいつですか? こいつは今日がはじめてで、名前は秋村稔、“みのる”と呼んで下さい」
 先輩は客に私をさりげなく紹介したあと、客の注文を聞いて、何曲も弾いて歌った。
 驚いたのは、流行歌もあれば唱歌も、さらには民謡や外国曲など、ジャンルが多岐にわたっているのに、「弾けません」「歌えません」といったケースが全くなかったことであった。まさに四十年のキャリアなんだなと、改めて感心した。
 
 そうしているうちに、先輩は私の肩に手をかけて、客に「どうです、こいつにも注文していいですよ」と言った。
 えっ、初日からいきなり? とややあわてたが、先輩の命令だから仕方がないと、「何がいいですか?」と言うと、客は「そうだな、『函館の女』でも」と注文してきた。
 『函館の女』は、青森にいた頃からギターで弾いて歌っていたから、よく知っている。昔を思い出して、指を動かしていった。
 歌い終わると、客は「本当に初めてか? いいぞいいぞ、これからも頑張れ」と言いながら、百円玉を一枚出してきた。当時はだいたい、一曲の相場がそれくらいだった。
 結局、流しとしての初めての夜は、『函館の女』を皮切りにその店で、先輩のフォローを受けながら何とか無難に五、六曲ほど歌ったあと、同じような要領で数軒を回ったと記憶している。
 
 アパートへは、豪とともに朝帰りした。
 「どうだ、流しは」と聞かれて、「なんとか、やれそうだよ」と率直に答えた。
 そのあとの、「ちょっとひと風呂浴びてこようか」の豪の言に同意した。
 上野公園で豪と会う前の夜、実は私は上野の銭湯に何日かぶりに行っている。初めて私を見たとき、豪が私を路上生活者とは思わなかったのはそのせいだとも考えられるが、豪のほうも偶然同じ日に、二日ぶりに新宿の銭湯に行ったという。それから中二日での風呂ということになるが、当時はお互い、毎日銭湯に行けるほどの余裕はなかったのである。
 
 ふたりで風呂屋に、というのは、男女と男同士といった違いはあるにせよ、フォークソングの『神田川』と重なる。 
 『神田川』が世に出て大ヒットするのは1973年のことなのだが、それに伴い、同棲のことも“神田川”と言われるようになる。
 私と豪は歌に一年先立って、“神田川”を始めていたのである。


「歌のうまい男」

 集団就職の専用列車は、1975年の春が最後の運行となった。
 日本の高度経済成長の担い手の一勢力がその集団就職者たちであったのだが、1973年のいわゆるオイルショックによって、経済の右肩上がりの躍進は止まっており、その影響を端的に表すかのような就職列車の廃止であった。

 さて、昭和でいえば50年代で初めてとなるその春、私がどうしていたのかをお話ししたい。
 大月豪との出逢いがきっかけで流しの歌手になってから三年が経とうとしていたが、当時すでに私と豪は仕事の上でもコンビを組むようになっていた。
 ただし、私が肩から提げている楽器はギターではなく、アコーディオンに変わっていた。
 なぜ私がアコーディオンをやっているのか──そのいきさつは次のようなものである。

 ギターを持って流しの世界に入った私は、 先輩の、年配のアコーディオン奏者のもとで修行することになった。
 普段は温厚だが時には叱咤激励も辞さない先輩につき従い、流しのイロハから学んでいったが、それが一年ほど続いた時のことだった。
 「今日を限りで、この仕事をやめることにする」
 先輩のその言葉に、一瞬耳を疑った。
 確かに先輩は年齢はいっているものの、演奏や歌唱の衰えは少なくとも私の耳には特に感じられず、何か他の事情があったのかもしれない。
 先輩は続けて言った。
 「このアコーディオン、君にやるよ」
 これまた、にわかには信じがたい言葉だった。そもそも私の担当楽器はギターだし、なによりアコーディオン自体、決して安価な楽器ではない。それなのになぜ、私にくれるのか。
 「これで、豪とコンビを組めよ」
 なるほど、そういうことか。私がアコーディオンをやれば、ギターの豪の相棒として組めることになる。
 先輩がそのように言ったのは、私が豪の紹介で入ってきて、以降親友同士であることが流しの仲間うちで知られていたからなのであろう。それで、一緒にできるよう取り計らったのだと。
 しかしながら、私がギター以外で弾ける楽器といえば、民謡をやっていた頃の三味線ぐらいで、ピアノなどの鍵盤楽器の類にはまったく経験がない。それでも、せっかくの先輩の好意を無にはできないと、古本屋でアコーディオンの教本を入手し、独習を始めた。
 そして、大体半年ぐらいの練習で、流しの親方からの許可がもらえ、仕事でアコーディオンができるようになり、ようやく豪とのコンビも組めることになったのである。

 1975年の春に、話を戻そう。
 いつの年も四月になると、世間では新入社員が街にあふれ、その歓迎の飲み会をどこの会社でもやるというのは、流しの仕事の私の目を通しても見てとれた。
 その夜、私と豪は、新宿のあるバーに入っていった。
 もちろん客としてではなく、流しとしてなのだが、店の中ではスーツ姿の一団が椅子に腰掛け、バーテンダーに注文していた。
 私が「いかがですか、歌でも」と言ったところ、客の中でリーダー格と思しき中年男性が、横にいる若い男性の肩に手をかけ、私に話しかけてきた。
 「こいつ、歌がうまいんですよ。いま歌わせますから、伴奏をよろしく」
 そう紹介された若者は、立ち上がって言った。
 「このたび入社いたしました、春日勝です。よろしくお願いいたします」
 なるほど新入社員か、そんな感じがしていたと思いながら、アコーディオンの私とギターの豪は、演奏の準備を始めたのだが、うまいといっても、その「春日勝」なる人はどの程度なのか、所詮素人としてはそこそこというぐらいではないのだろうかと、高をくくっていた。

 私達の伴奏に乗って、その春日さんは歌い始めた。
 すぐに、私は度肝を抜かれた。
 本当にうまい。
 それも、素人のレベルを遙かに超えている。
 驚いたが、それで動揺しては流しとして失格である。あくまで淡々と、アコーディオンにかけた腕と指を操っていくよう努めた。
 そして歌が終わった。
 春日さんを紹介した、上司であろう客のリーダーは言った。
 「どうです、たいしたものでしょう。この春日は大学時代、コーラス部で歌っていて、賞もとりましたからね」
 それで納得したのだが、とはいえ、こんなにうまい人でもプロにならないのか、世の中には歌のうまい人ってかなりいるんだろうな、俺って結構うまいと思っていた自分なんて井の中の蛙にすぎなかったんだな、などという思いが頭の中をかけめぐった。
 豪もその点は同じだったようで、「俺もそう思った」とあとで言っており、以降ふたりとも、歌に対してだいぶ謙虚な気持ちが生まれたのではないかと思う。

 一方、春日さんのほうだが、その後客として私や豪の前に姿を現すことはなく、いつかまたあの歌声を聞きたいなと私は思い続けてきた。それだけに、かなりの時が流れてからの再会は思いがけないものであったが、その話は後に譲る。


「恋で捨てた友情」

 大月豪は、なぜ私を自分のアパートに同居させてくれたのか。
 しばらく一緒にいて、いくつかの理由がわかった。

 まずひとつは、生活費とりわけ家賃のことがある。
 私と会う前の豪は、ひとりでアパートを借りていたが、収入と部屋代を比較すると生活は苦しいものであったという。そこで、誰かとの同居でふたりで払うようにすることを考えて私を誘ったというわけで、実際、私が流しの仕事についてからは、家賃は豪と折半して払っていた。
 また、豪自身、流しの世界にひとりで身を投じた時分は、同僚がみな年上なため、心細さがあったことは想像に難くない。そこで、自分と同じくらい、ないしは年下の者と一緒にやっていきたいという気があったのだろう。
 他にも、腕のいい流しを連れてきたら、親方からの評価が上がるという事情もある。流しでは、客からもらった金の何割かは親方に上納金として払うが、そのため稼ぎのよい人材を親方は一人でも多く欲しがる。豪も、親方にほめられたいゆえに、流しのできそうな者を探していたわけで、それで私を連れてきたということなのであろう。

 とはいうものの、いくら仲が良くても、同居にはそれなりの不便さもあり、できればひとり暮らしのほうがいいと考えるのもまた当然のことで、それを目標に据えて仕事に励んだのは事実である。
 その前段階として私が考えたのは、自分の布団で寝られるようにすることである。豪との同居が始まったのは5月のことで、気候もだいぶ暖かくなってきていたため、布団一式つまり掛布団・敷布団それぞれ2枚を半分ずつ分けて寝られていたが、この先、夏が過ぎて秋が深まってきたら、そうもいかなくなる。寒い時期が来る前に自分の布団を入手しようと考え、何とか9月に購入することができた。
 そして、自分でひと部屋借りることについては、それからさらに半年あまりを要し、結局、豪との同居は1年間ぐらい続いたことになる。

 ひとり暮らしになってからも、住むアパートが豪のところとさほど離れていなかったため、プライベートでも仲の良さは変わらなかったのだが、その関係は3年ほど経つと微妙になってきた。
 次のようなことがあったのがその理由である。

 1975年の春に、プロ級の歌唱力を持つ新人サラリーマンに出会って以降、私も豪も、自分の実力を過信していたことを悟ったうえで音楽に精進するようになったせいか、流しの歌手としての人気は急上昇のカーブを描くようになってきていた。特に、歌手は客あってのもの、客の心をつかめるようでないといけない、といった姿勢が功を奏してきたきたのだろうと思う。
 そのような、私と豪とのコンビの人気は、酒場の客のみならず、そこで働いている女性達にも波及していき、自慢するつもりはないが、ふたりとも若さもあってか、結構もてた。
 そういった状況で迎えた1976年の7月、私はある告白を受けた。
 その女性は、私達が流しとしてよく行く店のホステスで、源氏名は「エミ」と名乗っていた。
 少し前にその店に若い女の子が勤めはじめたということに私は気付いており、可愛い娘だなと目にとまっていたのだが、こちらからは声をかけづらかった。打ち明けて拒否されることを恐れてのことだったと思う。それだけに、そのエミの口から「好き」と言われた時は、天にものぼるような気持ちであった。
 エミは、私や豪とは別のところだが、やはり住まいはアパートでの一人暮らしだった。エミは、私と付き合い始めてからは、私のアパートを訪れることが徐々に頻繁になっていき、泊まっていくこともあったのだが、そうなると私の豪との付き合いは少しずつおろそかになっていく。豪がエミに対して恋心があるようには彼の言動からは感じられなかったが、だとしても、豪にとっては「俺をさしおいて女とイチャイチャして…」と面白くなかったのであろう、結果として、流しの仕事のほうでも、私と豪のコンビは、秋から冬にかわる頃に解消してしまった。恋に突き進んだ時の、ひとつの典型的パターンなのかもしれない。

 明けて1977年の1月、私は流しの親方から呼び出しを受けた。
 「エミという女のことだが…」と言われ、私は一瞬で青くなった。
 親方によると、エミが勤めている酒場の主人が、私が彼女と付き合っていることを知り、半ば怒鳴り込むような形で掛け合いに来たのだという。確かに、誤解を恐れずに言うと、ホステスは酒場の“商品”のひとつであるといえる。それに手を付けられてはたまったものではないというのも道理ではある。
 そしてその主人が言うには、エミは結婚を本気で考えており、それを翻意させるつもりはないが、付き合っておいて反古にするような男には流しの仕事はさせない、とのこと。
 談判の末に主人と親方が取り決め、私に課した条件は、次のようなものだという。

 @エミとの結婚は、彼女が二十歳になる、1978年の6月まで待つこと。
 A年内に、100万円を主人に払うこと。

 当時の私としては、「その程度でいいのか」というのが実感であった。@はあと1年半我慢すればいい話だし、Aも、その頃の私の稼ぎを考えればそう難しくはない。もっとも、100万円という額自体、親方が交渉で値切らせたのかもしれない。本来なら、一桁違ってもおかしくはないのだから。

 さて、私との付き合いがめっきり減った豪のほうについてだが、同じ1977年の暮れ頃、流しの仲間から、こんなことを聞いた。
 「豪が、レコード歌手としてデビューするらしい」
 レコード歌手──つまり、流しの歌手とは一線を画す、「プロ」としてのデビューということである。
 なぜそうなったか、思い当たるところは、私と豪が流しとして若くて人気があったことである。そこに目をつけた芸能事務所のスカウトが話を持ちかけてきたのだろう。
 とはいえ、なぜ豪のところに話がきて、私には何の話もなかったのか。
 それは、私に結婚を前提としての交際があるのが原因ではないかというのが、仲間の話からわかった。
 どういうことなのかというと、歌手をデビューさせる場合、もし本人が結婚していたとしても、その事実を隠して進めていくケースが決して少なくない。つまり、異性受けを狙うのが既婚では不利と考えられ、実際、あるスター歌手が、妻がいることをデビュー当時は隠していたという話も聞いたことがある。
 他にもいろいろと理由は考えられるものの、それが一番大きかったのではないかと思う。

 こう見ていくと、エミとの交際により、豪との友情は崩れ、目指していたプロ歌手への道も一旦閉ざされることになったと言えなくもないが、それでも惜しくない、後悔はないというのが、当時の私の偽らざる気持ちであった。


「妻と息子と」

 1978年になってからひと月ほど後に、大月豪は新宿の街から姿を消した。
 前年の暮れに仲間うちで話題になっていた、彼の「プロ歌手としてのデビュー」への一歩が踏み出されることとなったのである。
 もっとも、すぐにデビューするという話は、事実とは異なっており、ある作曲家の弟子としてスカウトされ、将来はプロデビューできるかもしれない、というのが実際のところであった。

 流しをやめることになった豪へのはなむけとして、送別会が計画されたが、それは豪自身が断りを入れてきた。
 実際にプロ歌手としてのデビューが叶ってはじめて祝えるのであって、まだ今は時期尚早だから──と彼は言ったらしい。
 「らしい」というのは、私が豪から直接聞いたわけではなく、先輩のひとりが「豪がこう言ってたぞ」と私にあとで教えてくれたからであるが、それほどまでに私と豪の間のつきあいがなくなっていたのである。

 私のほうはというと、相変わらず流しを続けていたのだが、その1978年の6月が来るのを待ち遠しく思っていた。
 既述の通り、ホステスのエミとの結婚の期日として待たされており、それまでは何につけてもトラブルは避けなければならず、行動にひたすら慎重さが必要とされていた。
 そしてようやく5月のカレンダーがめくられ、ほどなくしてエミの二十歳の誕生日もやってきて、いよいよ結婚となったのである。

 結婚式は、流しの仲間を呼んで行われたのだが、私もエミも、親戚は誰も出席しなかった。
 私は青森から家出してきたのだから当然だったのだが、エミのほうはどうしてなのだろうか。
 おそらくエミも私同様、実家の人たちを振り切ってホステスとなったのではないかと、当時の私は思っていた。

 一方、手続きの面、つまり婚姻届の提出もその式と前後して行い、その時にようやく知ったのが、エミの本名が「和子」であることだった。
 彼女は私に、もう「エミ」の名前は使わない、一生「和子」の名で過ごす、と言っていたが、つまりはもう水商売の仕事はせず、主婦として生きていくということであった。
 事実、結婚後にホステスをすることは全くなかったのであるから、発言は真実のものであったといえる。
 そんな彼女の意思を尊重して、この文章内でも、以降は「エミ」ではなく「和子」の名で書いていこうと思う。

 結婚から一年ほど経った頃、和子の腹は大きくなってきていた。
 私との間の子供を身籠ったのであるが、いよいよここまで来たのかと私自身もその和子を見て思ったものである。
 出産は11月の最後の日、つまり30日がその日となった。
 生まれたのは男児であるが、名前をどうしようかとは和子の妊娠中に考えており、男の子だった場合として第一候補に「進」、読みは「すすむ」とするように、二人の間で取り決めていた。
 「秋村進」の誕生である。
 
 「秋村稔」「秋村和子」、そして「秋村進」の三人家族が形成され、その主となった私には、大黒柱としての自覚が求められた。それに恥じない男とならなければと、決意を新たにしたものである。
 酒場を辞めた和子、そして赤ん坊の進をしっかりと養っていかなければならないと、流しの仕事にも気合がこもった。
 いつまでも和子と進は守っていこう、それができる力をつけていこうという思いから生まれるパワーは、若さならではであって、あれほどのものは一生の間でも出せる機会は数えるほどしかないと、今でも思う。


「永訣」

 「いまは食べたくない…」
 和子がそう言うことが、ときどきあった。
 それは私と彼女が結婚して3年ほど経った、1981年のことだったろうか。
 のち、あの時何とかならなかったのか…との思いに苛まれることになるのだが、「後悔先に立たず」の典型なのかもしれない。

 結婚の翌年にあたる1979年、和子は男児を出産し、私たち夫婦は「進」と名付けた。
 和子は結婚を機に酒場の仕事は辞め、家事に専念することになったが、「共働き」をしなくてすんだのは、それだけ私の収入があったことを意味している。
 流しの歌手という仕事は、いうまでもなく人気がものをいう商売で、客からの注文が多ければ多いほど儲かる。当時の私は若いこともあって、口幅ったいながら、かなりの売れっ子であった。そのため、稼ぎとしては妻ひとり子ひとりを養うには十分なものであり、住まいも一部屋のアパートから2DKのマンションへ移していた。

 生まれた進はというと、これといった病気などはなく、すくすくと育っていた感があり、私も和子もその成長を目を細めて見守っていた。
 夕方に家を出て朝に帰ってくるという私の流しの仕事は、一般のサラリーマンとは違う形態であったが、それゆえ昼間に家にいられ、妻子とふれあう時間も結構長かったという印象があり、進の世話にもそれなりに関わることができた。

 さて、冒頭の和子の食欲不振の言だが、1981年といえば進はまだ2歳、当然和子は育児に忙しく、彼女は自分の時間は僅かしか取れなかったと察せられる。そのため、ちょっと食べたくないように思うことがあっても、たまたま調子が悪いぐらいに考え、あくまで進の世話に努めていたのだろうし、私もそれをさほど問題視してはいなかった。
 しかし、その翌年、また翌々年となっても、和子が「食べたくない」と言うことが一向になくならないばかりか、体のだるさを訴えることもたびたびあり、見かねた私は彼女に検査を勧め、ある病院へと連れていった。

 数日後、和子の担当医は私に言った。
 「残念ですが…」
 そのひとことだけで、私の体の血がひいていくのを感じた。
 良い結果であるわけがない。
 彼は続けた。
 「膵臓の癌です」

 時は1983年、和子はまだ25歳になったばかり、そんな若さで癌などということがありえるのかと、私は担当医に食ってかかったが、だからどうなるというわけでもない。
 もし本当に癌だとしても、「残念ですが…」とは何事か。
 そのことを彼はこう説明した。
 ──膵臓癌は、様々な癌の中でも、生存率が最も低いもののひとつで、原因もはっきりしていないうえに、初期段階では症状が現れにくく、現れた時には治療不可能なまでに進行していることがほとんど──
 その「症状」として、和子が言っていた「食欲不振」「倦怠感」などがあるのだとも聞いた。

 「じゃあ、どうすればいいんですか、先生」
 私は叫んだ。
 「申し訳ないのですが、和子さんについては、あきらめていただくしかないでしょう。若い人の場合、進行も早いので…」
 なんだその言い方は、あんたそれでも医者か──と心の中で私は怒鳴っていた。
 「今の医学では、どうにもならないんです。私どもにできるのは、苦痛を少しでも和らげることだけなんですよ」
 「だから、私はどうすれば──」
 「和子さんがいなくなっても、あなたには息子さんがいらっしゃるでしょう」
 私と和子との間に息子・進がいるという話は担当医に既にしていた。そのことに言及したわけである。
 「息子さんを大事に育てていくこと、それが稔さんの、和子さんにしてあげられる最大のいたわりなのです」
 そう言われては、私も反論はできず、やっとのことで納得した。

 結局、和子は翌1984年の春、息を引き取った。
 4月の桜の盛りで、花につつまれて旅立っていけたのが、せめてもの幸せではないだろうかと思う。


「さらば新宿」

 和子の診断結果を告げられた際、私がどうしても知りたくなったことがあった。
 それは、和子の親族はどこにいるのだろうか──というひとつの疑問についてであった。
 結婚式の際、私同様に和子のほうも親類の参加はなかったのだが、和子も私と同じく家出でもしてきたんだろうなと、当時は思っていた。
 その後和子と一緒に数年暮らしていても、彼女の口から実家のことについて語られることはなく、何か言いづらい事情があるのだろうと私は察し、そのことを聞いたりはしないできた。
 しかし、余命について知らされては話は別である。せめて命あるうちに親御さんにはどうしても会わせてあげたいと思い、病状に関して悟られないよう慎重に言葉を選びつつ、和子に両親のことを尋ねた。

 それに対する和子の答えに、私は愕然とした。
 当時の和子には、親きょうだいは一人もいなかったのである。 
 生まれて間もなく両親を失って孤児となり、施設に預けられてそこで義務教育の終了まで過ごし、以降はもっぱら水商売を転々としてきた──と重い口を開いて和子は語った。
 何度目かの酒場勤めの時に、流しの歌手であった私との出逢いがあったのだが、いささか不謹慎かもしれないが、和子は私と結ばれて息子の進を産む、そのためだけにこの世に現れて消えたような女といえなくもないのかもしれない。

 さて、私は流しの歌手として、独身時代はもとより、和子との結婚以降も客からの人気は安定したものであったが、それが和子の入院によって歪みをきたした。
 家事の大部分を任せていた和子が家にいなくなったことで、当然私は自分のことは自分でやらなければならなくなり、その負担に加えて、入院している和子のもとへも度々会いに行くので、仕事以外にエネルギーはかなり吸い取られていた感がある。
 結果として、流しの現場にいられる時間が削られ、収入の面にも和子の病状と同様、暗雲がたちこめた。今思うと、そんな当時の私を支えていたものは、ほとんど、奇跡を起こして担当医に一泡吹かせてみせるという意地のみだったのかもしれないが、手にする金が減少したことは事実であった。

 結局、その“奇跡”が起きなかったことで、私の全身から何かが抜けていった。張りつめていたものがガタガタと崩れ落ちる、とでも言えばいいのだろうか。
 その影響として、演奏で音を間違えたり、歌詞を思い出せないなど、それまでの流し生活で犯さなかったミスが生じたりした。そのように素人並みの失敗があっては、流しとしての価値はなく、目に見えて客は離れていった。

 そんなある日、流しの親方からの呼び出しがあった。
 事務所に行くと、そこで言い渡されたのは「解雇」であった。
 稼ぎが減って上納金も少ししか取れなくては人材としての価値もない、それが最大の理由なのだろうが、一方で、傍から見た私の姿があまりにも痛々しいものであったとも親方まで伝わっていたのかもしれない。
 言い方としては、「すこし音楽から離れて生きてみてもいいんじゃないか…」という表現だったものの、つまるところ、流しの仕事に残れないことに変わりはなかった。

 そして私は1984年の秋風に押されるように、居づらくなった新宿を去った。
 かつての親友・大月豪に遅れること6年半のことであった。


「青森からの手紙」

 私が新宿の街を離れた時、息子の進は5歳になろうとしていた。
 進については、一家が新宿にいた頃、当初は普通の保育園に入れようと私も和子も考えていたのだが、入園の1983年4月を前にして和子が入院したため、予定の変更を余儀なくされた。私のしていた流しの仕事は、夜は家にいないのだが、夕方に保育園から家に戻る進の世話がそれだとできない。そういった事情から、夜間も預かってもらえる体制の保育所を探して、そこに進を入所させた。
 24時間預けているのだから、普通の保育園よりも費用はかさむのだが、当時の私は売れっ子の流しだったため、払えるだけの収入は十分にあり、その点で問題はなかった。
 それが、和子の死のショックで精神面で流しとして立ち行かなくなって解雇されると、高収も失い、保育所に料金を払うのも難しくなり、進は退所させざるを得なかったのだが、そんな状況下での新宿撤退であった。

 新しい生活の場として選んだのは、中野であった。
 新宿からは総武線で3駅、中央快速線ではひと駅で、距離はさほど離れているわけでもないが、比較するとこちらは住宅地としての性格がだいぶあり、環境を変えての心機一転ができるのではと思えた。
 仕事は、地元のスーパーマーケットに勤めることになった。学歴が中卒だったので、どこへ行ってもなかなか雇ってもらえなかったが、足を棒にしてやっとのことで採ってくれる店が見つかった。そのスーパーの店長は、面接のとき私に「いい声をしてるね」と言ってくれたが、それが採用理由だというのだから、ここでも芸が身を助けたことになる。
 住まいは四畳半一間のアパートにした。就職したとはいってもアルバイトとしてであったので、進を保育園に入れてその費用も払うとなると、家賃はかなり安いところでないとやっていけなかったのである。
 そのようにいろいろと手順を踏んで、ようやく何とか新しい土地で暮らす体制を整えた。

 中野での生活が1年ほど続いた、1985年の晩秋のことだった。
 アパートの大家に家賃を納めに行った時、私はこう言われた。
 「秋村さん、あんた弟がいるの?」
 突然家族のことを聞かれて、私は戸惑った。
 確かに、私とは血のつながりはないが、私の双子の弟同然に秋村家の息子として育った弘が青森にはいる。しかし、どうしてその話がいま出てくるのかと疑問に思い、何があったのかと大家に聞き返した。
 大家は次のように話した。

 ──数日前、知り合いに呼ばれて渋谷のバーで飲んでいた時、あとから来て私達の隣に座った一団がいた。彼等の話しているのを横で聞いていると、三味線奏者とその関係者らしいことがわかった。そして、奏者と思しき男性が「…僕の兄貴が13年前、青森から東京に飛び出していったんだけど、今どうしているのか分からなくて…。名前は“みのる”っていうんだけど」とつぶやくと、その隣の人が「弘さんのお兄さん? ということは“秋村みのる”さんですね」と語った。横で聞いていた私はその時、思わず「その人ならうちのアパートにいるよ」と口走っていた。すると奏者は「えっ、知っているんですか? 住所はどこです?」と身を乗り出してきたので、私はアパートのあなたの住所をメモして渡した──

 そこまで聞いた私は、しばらくあっけにとられていた。あの弘が三味線奏者の仕事で東京に来ていたとは、しかもアパートの大家と遭遇して私の住所を知ることになるとはと、その奇跡的な偶然に驚くばかりだった。
 もっとも、弘や両親には、私の居場所は、伝えようと思えばいつでも伝えられるものではあったが、十年以上にわたり、そのようなことはしなかった。もともとが高校進学を反古にしての家出であったことから、両親には顔向けができないと思っていたし、私が青森を去る際に餞別まで渡してくれた弘に対しても、「プロ歌手になる」と語った夢を果たせずに申し訳なく思ったりなどして、実家には手紙一通も書けず、電話一本もかけられないできてしまったのだが、そのことが今さらながらに心を責めた。
 いずれにせよ、思わぬ形で弘が私の住所を知ったことに違いはなく、それで弘それに両親はどうするのかと、私は遠い青森に思いをはせた。

 師走の初頭、アパートの郵便受けに届いた一通の封筒には、差出人として「秋村弘」とあった。
 開封して読むと、青森に帰ってきてほしいと書いてあるのは想像通りだったが、父親が病で入院したという話まであったのには思わずはっとした。そのような状況でも仕事のために上京した弘は大変だったろうなと、弘にも両親にも心で詫びた。
 そして、弘の「父さんも母さんも、家出のことは許すと言っているから、心配しないで青森に帰ってきて下さい」の一文には涙まで出てきた。こんな自分勝手な男を気遣ってくれるなんてと、一語一語が心に突き刺さったのだった。

 もう東京にいてもいいことはなさそうだと思っていた私は、これは帰郷するしかないだろうと心を決めた。
 ただ、息子の進のことで、保育園を卒園まで通わせてやりたかったので、帰るのは翌1986年の3月にすると返事の手紙をしたためて、暮れも押し迫った頃にポストへ投函したのだった。



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